鳥・その1

 どれだけ時間が経っても、色褪せないものがある――……。


 長年変わることのない位置にある部屋の、学習机にひっそりと置かれた写真立てを、ベッドに腰をおろした部屋の主――鳥海奏はぼんやりと見つめていた。

 写っているのは、若かりし日の父親と幼い自分。そして、もう何年も前に別れた実の母親と、自分と同じぐらいの年頃の少女だ。

 両親と、二人の子供。

 かつての幸せだった家族が、そこにはいた。

「もう……過去の、ことなのに」

 どれだけ願ったって、もう二度と、あの頃に戻ることなんてできやしないというのに。

 どれだけ抗っても、否定しても、幼い日々の記憶は――年を重ねるごとに強くなった、胸を甘くじわじわと締め付けるこの想いは、決して消えてなどくれなくて。

 無理矢理にでも断ち切りたい。いや……断ち切らなければならない。そう何度も思っているし、それを実行に移そうとしたことだって一度や二度ではない。

 だからこそ、自覚したそのときから、会うのをやめたのに。一切の接触を、断ったつもりだったのに。

 それなのに……どうして、忘れられないのだろう?

 ――葵。

 音に乗せぬまま、唇だけ動かして、その名を呼ぶ。声に出してしまえば、これまでずっと秘めてきたものが、全て暴かれてしまうような気がして。

 かつての両親の離婚とともにこの家を出て行った、ただ一人の血を分けた存在。ほぼ同時にこの世に生を受けた、自分とは何もかもが正反対の――それでいて、自分と瓜二つの容姿をした、まるで歪んだ鏡に映ったその姿。

 ナルシストな趣味など、皆目持ち合わせていないはず。

 だけど、それでも……。

 目を閉じれば、幼い日の彼女の笑顔が浮かぶ。両親譲りの華やかな容姿は、成長するごとにその魅力を最大限に発揮していって……。

『――かなで!』

 自分とは違う高い声は、いつだって胸を甘く疼かせた。

 彼女が最後にその名を紡いでくれたのは、一体いつのことだっただろうか……。

「奏」

 ガチャリという音と、自分を呼ぶ現実の声に、奏はハッとして振り向いた。思わず、声が漏れる。

「母さん」

 そこに立っていたのは、三十代から四十代くらいの若々しい女性。母親と呼びはするものの、奏とは全く顔つきが似ていない。それもそのはず、彼女は数年前に鳥海家へと迎えられた父親の後妻――つまり、義母だった。

「お風呂、沸いたよ」

「……わかった」

 写真立てから目を離し、立ち上がる。そちらに目をやった義母が、小さく首を傾げた。

「それ、小さい頃の?」

「あぁ」

 何となく気まずくて、写真立ての姿を義母の目線からかばうように、さりげなく場所を移動する。

 義母は小さく眉根を寄せた。向こうは表情の変化に気付かれまいとしているようだが、奏は空気ですぐに不快感を示していることが分かってしまう。後妻の立場としては、自分がやってくる前の家族のことなど知りたくもないだろうから、その反応は当然かもしれない。

 吐き捨てるように――本人は、感情を込めず淡々と言っているつもりだったのだろうが――呟く。

「そんなもの、さっさと捨ててしまえばいいのに。今の家族とそれ・・は、もう違うんだから」

 ――そんなこと、言われなくても分かってる。

 心に燻る義母への苛立ちをおくびにも出さず、奏はただ無表情を貫いた。

「そんなに思い切れないなら、私が捨ててあげるよ」

 やがて義母は、そんな言葉と共に学習机の方に手を伸ばそうとする。それより先に、奏の手は動いていた。写真立てを奪う勢いで手に取ると、守るように抱き締める。

 無言で睨みつければ、義母は怯えたように一瞬びくりと肩を揺らした。

「なっ……何よ。そんなに、怒らなくてもいいじゃない」

 パタパタと忙しない足音を立てて出て行ってしまった義母の背中を見送った奏は、一つ溜息を吐く。それから抱いていた写真立てを机の引出しに入れると、そっと鍵を掛けた。

 ――そう簡単に捨てられるのならば、思い切れるのならば、とっくにそうしているのに。

 所詮、誰も分かってなどくれない。

 ……まぁ、最初から分かってもらう気もないけれど。


    ◆◆◆


 奏のかつての母親、そしてかつての姉とは、奏と姉が揃って小学校へと入学して間もない頃に両親の離婚によって別れることになった。

 両親の間にどのような出来事があったのかも、どのような話し合いがあったのかも、奏は知らない。ただ、それまでずっと一緒に暮らしていたはずの母親、そして姉と、これからは離れて暮らさなければならないのだということだけは理解できた。

 これは後に知ったことだが、当時の両親はわりと円満離婚だったらしい。いわく、互いの幸せを尊重した結果のことだったという。

 だからなのだろう。離れて暮らすことになってからも、二人とはずっと頻繁に会うことが許されており、父親が再婚してからもそれは変わらず続いた。

『かなで、あそぼ!』

 そう言って無邪気に奏の手を引く、幼い日の姉――葵。

 いつだって自由奔放で、押しが強くて、言動がさっぱり読めなくて……昔から子供のような無邪気さと、大人びた不思議な色気が見事なまでに共存していた彼女は、奏にとって近いようで遠い存在だった。

 双子のはずなのに、考えていることがよく分からない。強気な瞳と艶やかな笑みで、いつだってはぐらかされてしまう。

 そんな小悪魔みたいな彼女のことを、奏はいつしか姉として見ることが出来なくなっていた。自分の姉ではない、ただ『葵』という少女が欲しいと――手に入れたいと、そう思うようになっていた。

 けれど……残酷なまでに自分と瓜二つなその容姿は、そしてどこまでも自分と正反対なその仕草や行動は、奏を苦しめた。

 どれだけ認めたくなくても、目を逸らそうとしても、彼女を見る度にその現実を思い知らされずにはいられない。自分と葵には、確かに血の繋がりがあるのだと。自分たちは鏡型の双子で、何があっても姉と弟という関係以上にはなりえないのだと。

 それがいつの間にか態度に出るようになったらしく、奏は無意識に葵に対して冷たく当たるようになっていた。ツンデレ、といえば聞こえはいいけれど、こんなの単なる意地だ。素直になるのが、怖いだけ。

 葵の姿を見るだけで、心が跳ねる。葵と話をするだけで、楽しい気分になる。もっと、もっと……それ以上のことを、求めてしまう。

 だから、避けようと思った。できるだけ葵と関わりを持たないように――意図的に話さないように、見ないようにすれば、きっといずれこんな感情は忘れられるに違いない、と考えたのだ。

 それからは、葵と会ってもできるだけ見ないように、話さないようにしながら時間を過ごした。極端なまでに、葵のことを避けようとした。

 けれど……彼女のことを忘れることなど、出来なかった。気付けば葵の姿を目で追ってしまう。少し油断すれば、腰を浮かせて立ち上がり、そのまま彼女へ話し掛けに行こうとしてしまう。

 無意識ともいうべき自分の行動を戒めるのは、とても辛かった。

 けれど、それ以上に辛かったのは……無言で自分を見つめてくる、葵の非難するような、哀しそうな表情だった。

 ――どうして?

 ――あたしのことが、嫌いになった?

 もちろん、葵がそう口にしたわけではない。けれど双子ならではというべきか、彼女の感情がありありと伝わってきてしまうのだ。

 これまでずっと、双子の片割れであるはずの彼女が考えていることなんて、さっぱり分からなかったのに。

 どうして今更、こんな時にだけ伝わってきてしまうのだろうか? 手にとるように、彼女の悲しみが理解できてしまうのだろうか?

 そんなことを考え始めると、もう彼女に会うことすら辛くなった。どれだけ見なくたって、話さなくたって、同じ場所に彼女が存在しているのを感じるだけで、愛おしさは容易く積み重なっていく。

 ならいっそ、会わなければ……。

 覚悟を決めた奏はある日、既に現在の妻と付き合っていた父親に、これ以上母親達との面会には参加しないという旨を打ち明けた。受験生だから、勉強に集中したい……とか、確かそういうことを言い訳にした気がする。

 しかし父親から返ってきたのは、予想外の答えだった。

『もう、葵と顔を合わせることすら辛いか』

 それほどまでに、葵を愛してしまったんだな。

 その言葉を聞いた奏は、驚愕に目を見開いた。この想いは誰にも打ち明けていないはずなのに……どうして、それを?

 父親はスッと目を細めた。その妖艶な笑みが葵のものと重なって、余計に奏の胸を苦しめる。そんな彼の心情すらも理解しているというように微笑むと、父親は続けた。

『そういうのは、見ていたら分かるもんだ。一応俺も、人生経験はそれなりに積んできたつもりだからな。息子の恋心ぐらい、見破れて当然さ』

 何を、気取ったことを。

 そう思いはしたものの、今の奏には憎まれ口すら叩けない。父親にはもう、隠すまでもなく全てお見通しであることは分かっていたから。

 最後のアドバイスだ、と付け加えて、もう一言父親は告げた。

『それで、後悔しないと絶対言い切れる自信があるか?』

 顔を合わせるのをやめて、一切の接触を断って。それで忘れられるほど、葵への想いは単純なものではないだろう?

 ――そんなこと、自分が一番わかっている。無理矢理忘れようとして、すぐに忘れられるような、簡単な想いなどではない。葵に対する感情は、そんなに軽いものじゃない。

『それでも……』

 だけど、それでも。

『忘れなきゃ、いけないんだよ』

 だって自分たちは、正真正銘血の繋がった双子の姉弟なのだから。最初から、恋仲になることなど禁じられている関係なのだから。

 ありったけの覚悟を込めてそう告げれば、父親は静かにうなずいた。

『そうか……わかった。二人には、俺から言っとく』

 この時以来、彼なりに気遣ってくれているのか、父親は奏の前でその話――葵に関する話題を出そうとしなくなった。むしろ、そこから意図的に奏を遠ざけようとしているようでもあった。

 鳥海家から、かつての母親と姉の存在が完全に消えた瞬間だった。

 それでも奏は、時折思い出してしまう。捨てずにこっそり取っておいた家族写真を見ては幼い日のことを思い出したり、父親の言動の節々に葵を重ねてしまったり。

 ――あぁ、結局忘れられていない。それどころか、余計に彼女に会って話をしたいとまで思っているなんて。

 父親が聞いたら、笑うだろうか。それとも、葵とよく似た表情で、憐れむように自分を見つめてくるだろうか。

 どっちにしろ、辛いことには変わりないのだが。


 湯船の中で、奏は人知れず溜息を吐く。

 学校での出来事や、やらなければいけないこと、趣味などのことを考えているときはいいのだが……いったん気を抜いてぼんやりとしてしまうと、余計なことにまで考えが及んでしまうので困る。

 湯舟に溜まったお湯にたゆたうように身体を浮かべ、目を閉じる。瞼の裏に、色褪せないままの美しい姿をした少女――葵が映った。

 ――あぁ、また。

 体勢を立て直し、大きく首を横に振る。

 入ってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。もうそろそろいい加減上がらないと、両親――無論、現在の――がまた余計な心配をしているかもしれない。

 ザパァッ、と音を立てて立ち上がれば、わずかに身体が傾いだ。どうやら、少しのぼせてしまったらしい。

 両頬を軽く叩いて気合を入れると、奏はそのまま浴室を出て、着替えた。

 リビングに戻れば、父親が「やたら長湯だったなぁ」とのんびりした口調で言い、義母が「のぼせているんじゃない?」と眉根を寄せながら心配したように声を掛けてくる。大丈夫だと短く答え、奏は自室に戻った。


 先ほど鍵をかけた机の引出しから、もう一度あの写真立てを取り出す。ほとんど働かない頭でそれをぼんやりと眺めながら、葵は今頃何をしているのだろうか、と再び想いを馳せた。

 瞳を閉じ、写真立てを大事そうに胸へと当てる。

 ――いずれは、この写真も捨てなければならないのだろう。

 今はまだ、その勇気がないけれど。それでもいずれは、忘れなければならない時がくる。

 自分は、愛してはいけない相手を愛してしまったのだから。

 この痛みは、苦しみは――きっと全部、その大きすぎる罪を犯したことに対する罰なのだ。

「耐えなくちゃ、いけないんだ」

 決意を改めるように、小さく声に出して呟く。

 カーテンの隙間からわずかに見える月だけが、奏の独白を、懺悔を、ただ静かに聞いていた。

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