第2章:水鳥
水・その1
どうすることが、自分にとって一番の幸せなのか。
『幸せ』の定義なんて人それぞれだし、それが必ずしも周りに受け入れられるような形のものとは限らない。
じゃあ、自分にとっての『幸せ』って何だろう?
一旦考え始めたらキリがないし、考えれば考えるほど余計に迷宮入りしてしまう……それぐらい、分かっている。それでも、考えるのを止めることなんてできやしない。
すっかり慣れてしまった一人きりの自室で、形ばかりの勉強道具を机に広げていた泉水葵は、悩ましげに溜息を吐いた。
――もう、
当たり前のように話をすることも、笑い合うことも……側にいることさえも、今となってはもう、二度と許されなどしないのだ。
大好きな家族の一人。それで、ずっといられるはずだったのに。
それなのに……一体いつから、その『当たり前』のことすらも、拒絶されてしまうようになったのだろうか?
「奏……」
本人の前ではもう二度と呼ぶことなどないであろう、愛しい名前を呟く。
その響きに行き場のない熱がこもっていることに、誰も気付きはしない。もちろん、彼自身にも届かない。
「――葵ちゃん、ご飯よ」
今となっては唯一の家族となった母親の声が聞こえ、葵はハッと我に返る。
「今行くわ」
ドアの向こうに立っているのであろう母親に聞こえるよう口にすると、葵は勉強道具を一旦片づけ立ち上がった。
◆◆◆
葵はこれまでに、幾度か名字を変えていた。それに伴う引っ越しも、もう何度も経験している。物心つく頃には、そのことをもう日常のようなものとすら認識していた。
生まれた時の名字は、鳥海といった。当時はもちろん父親もちゃんといたし、ついでに言えば、ほぼ同時に生まれた弟だっていた。容姿の整った両親の遺伝子を正しく受け継いだらしく、幼い頃から美形双子ともてはやされたものだ。
だが、小学校に入って間もない頃、両親が離婚した。葵自身は母親に、弟の奏は父親に引き取られたため、その時彼女は一気に父親と弟という二人の家族と別れることになった。
しかしこの両親の離婚は思いの外円満離婚だったようで、それ以降も――互いに新しい家族ができてからも――父親と弟の二人とは、定期的に会うことが許されていた。……というか、ほぼ一週間に一度ほどは、母親に連れられて彼らに会っていた。
だから、葵もちゃんと理解していたのだ。自分には、父親と弟がいるということを。定期的に会う年配の男の人こそが自分の父親で、その側にいる自分と同じ顔をした少年こそが、自分の双子の弟・奏であるということを。
次の名字は、
既に父親はいるのに、どうして突然現れた全然知らないおじさんのことを、父親と呼ばなければいけないのか。その時の葵には、分からなかった。
湯川という名の新しい『父親』はぶっきらぼうな人だったし、突然できた『娘』に対して、どう接していいのか分からないという、そんな戸惑いにも似た空気を感じずにはいられなかった。
それでも、いい人だったと葵は思う。……結局、完全に打ち解けることもないまま、別れることになったのだが。
その次の名字は、
父親と兄はどちらも葵の類い稀なる美貌に心惹かれたのか、襲われそうになったことが何度かあった。特に兄には、何度告白されたか知れない。
母親に相談したところ、すぐに離婚することになったのだが……その後もしばらくストーカー行為のようなものが続き、この時ばかりは葵もさすがに心を病みそうになったものである。
この件については警察が介入してくれたおかげで事なきを得たし、母親には後で謝られた。もちろん当時は怖かったけれど、これも仕方のないことだったのだろうと今では割り切っている。
それから少しして、また母親が再婚した。今度の名字は、雪宮だった。
例のように、ある日突然一緒に暮らすことになった雪宮家には、父親と弟、そして幼い妹がいた。
父親は穏やかで優しい人だった。新参者である葵にも、他の家族と同様に分け隔てなく接してくれた。
妹は純情で可愛らしく、すぐに葵に懐いてくれた。彼女を除いたら男ばかりの家族だったため、きっとお姉ちゃんというものが物珍しかったのだろう。
また、弟とは同い年で(誕生日が葵の方が先だったため、弟にあたることになったのだ)、こちらともすぐに仲良くなった。ちなみにその彼――真紘とは、高校生になった今でも同じクラスであり、交流が続いている。
この家族との生活はそこそこ長く、高校に入学する少し前ぐらいまで続いた。やはり別れはしたものの、幼い頃に過ごした鳥海家と同じように、離婚してからもそれなりにいい関係性を築けている。
そして今は、なんだかんだで母親の旧姓である『泉水』に戻っている。最近は母親も軽はずみに結婚するのをやめようとしているらしく、誰かと付き合っているという話も聞かない。
雪宮家と別れた直後のことだっただろうか。葵は一度、母親に尋ねてみたことがあった。
『ママは、どうして何回も結婚するの?』
母親はふんわり笑うと、葵の頭をぽふぽふとあやすように叩きながら、こう答えた。
『本当の幸せを、探しているのよ』
『本当の、幸せ?』
『そう、幸せ』
『鳥海のパパや湯川のパパ、それから雪宮のパパも……みんなすごくいい人たちだったわ。なのに、幸せじゃなかったの?』
遠藤家のことは、意図的に外した。あの家族と過ごした日々が、幸せなはずなどなかったから。――少なくとも、葵にとっては。
母親は静かに首を横に振った。
『違うのよ。ただ……時々、虚しくなるの』
『どうして?』
『この幸せが、いつか失われるんじゃないかって思うとね……怖くなるの。だから、そうなる前に自分から壊しちゃおうって、そう思っちゃうの』
――そう思ってしまううちは、幸せじゃないのよね、きっと。
母親は寂しげな瞳を向けると、不意に葵を抱き締めた。
『ねぇ、葵ちゃん……あなたは、考えたことあるかしら? 永遠の幸せが、一体どこにあるのか』
きょとんとしながらされるがままに抱き締められる葵に、母親は気弱な声で、途切れ途切れに囁く。
『どうすることが、自分にとって……一番の、幸せなのか……』
それがどういう意味かなんて、その時の葵には少しも理解できなかった。けれどその声は、言葉は、何故かそれ以来ずっと葵の耳にこびりついて離れなくなった。
そして……その言葉は、葵の心を、身体を、今でも縛り続けている。
◆◆◆
「そういえば、奏ちゃんは元気にしているのかしらね」
夕食の席で、母親がまるで何でもないことのように口にした一言に、葵は危うく心臓が飛び出そうになるところだった。
葵の心情など一つも察することなく、母親は少し寂しそうに続ける。
「昔は鳥海のパパと、一緒に来てくれてたのに」
わざわざ『鳥海のパパ』と口にするのは、言うまでもなく母親が再婚を繰り返したせいで、一口に父親と言ってもどの父親を指しているのかが容易に判別できないからだ。
葵はできるだけ動揺を悟られないように、静かな口調で答えた。
「高校生だし、色々忙しいんじゃないかしら。ほら、勉強とか部活とか……」
「恋愛、とか?」
カチャンッ。
母親が微笑みながら続けて口にするのに、葵は動揺を隠し切れず、思わず箸を取り落とした。母親が驚いたように目を見開く。
震える息を整えると、葵はまるで何事もなかったかのように、自然を装いながら落とした箸を拾い上げた。
「……ごめんね、落としちゃった」
洗ってくるね、と言い残し、席を立つ。母親の気がかりそうな視線を背中に受けながら、葵は母親譲りのふっくらとした唇をぐっと噛んだ。
――双子だからこそ、通じ合うものならばいくらでもある。
けれど、双子だからこそ……片割れであるはずの相手の気持ちが、分からなくなる時だってある。
現に葵には、長い間片割れであったはずの弟――奏の本心がどこにあるのかが、既に見えなくなっていた。
いつの頃からか、奏はおそらく意図的に、葵に対して冷たい態度を取るようになっていた。
最初にそうと気付いたのは、中学に入ったばかりの頃だっただろうか。
いつものように母親に連れられて鳥海の父親に会った時、いつものように父親と一緒に来ていた奏は、何故か様子がおかしかった。
いや、表面的にはいつも通りだったのだ。だって一緒に暮らしている父親にはもちろん、離れて暮らしている母親にだって奏はいつも通り接していたから。
けれど双子だからこそ、葵は感じずにいられなかった。奏の周りをふわりと取り囲んでいた、葵を――葵のこと
話しかけても、どこかそっけない。前みたいに触れようとすれば、さりげなく――けれどあからさまに避けられる。それはまるで目障りな存在に対する態度のようにも思えて、葵はその変化にひどく苦しんだ。
――少し前までは、仲のいい双子だったはずなのに。
問い詰めたくても、その暇すら与えてくれない。両親は奏の態度にまるで気付いていないのか、咎めようともしなかった。
そんな状況がしばらく――おそらく半年ほど続いた後、今度は存在自体を否定するかのように、きっぱりと無視されるようになった。
奏は決して葵に話し掛けてこようとしなかったし、目も合わせようとしてくれなかった。話し掛ける隙すら、与えてくれなかった。痛いほどの視線を感じるはずなのに、そちらを見ればたちまち逸らされてしまう。話したいという無言の要求を身体で感じるはずなのに、話し掛けようとすればうまくはぐらかされてしまう。
そんなことが繰り返され、一年ほどが経ったあと……とうとう奏は、鳥海の父親との面会の場所にも現れなくなった。
『ごめんな葵、奏は最近忙しいらしくて……』
奏を思わせる、その綺麗な顔を困惑に歪めながら、言い訳のようにして父親が謝るのも、葵にとっては心苦しいことだった。
きっと、父親は全部知っていたのだ。奏が、何故この場所に来たがらないのかを。
それをせめて葵にだけは、頑なに隠そうとしている……。
どうして? そんなに奏は、あたしのことが嫌いになった?
あたし……何か、奏に嫌われるようなことした? 知らない間に、奏のことを傷つけてた?
葵はいつしか、一日のうちのほとんどを、奏のことを考えながらぼんやり過ごすようになっていた。頭の中も、心の中も、全て奏で埋め尽くされていた。
辛かった。
奏のことを考えると、言い知れぬ感情がたちまち葵の心を支配する。胸が引き絞られるように、痛くて苦しい。
それなのに、奏のことを考えずにはいられない。かつて奏が向けてくれていた柔らかな笑顔が、優しい声が、繋いだ手の温もりが……奏の全てが、全身に焼き付いている。
忘れたくても、忘れられない。
この辛い想いを全て取っ払ったら、幸せになれるのだろうか?
奏とまた、昔のように笑い合えれば……双子の姉弟として、過ごすことができれば。そうすれば、もうこんな辛い思いはしないで済むのだろうか?
「……双子の、姉弟?」
夕食を終え、自室に戻った葵は小さく呟く。口に出したその響きに、わずかな違和感を覚えた気がした。
自分の左手を、じっと見つめる。
葵と奏は双子だ。――しかも、鏡型の。
奏は男で葵は女。奏は右利きで、葵は左利き。髪形や格好が違えば
よく見ないと分からないし、今となっては名字すら違うからほとんど誰も気付かないけれど……葵と奏は、怖いぐらいに瓜二つなのだ。
「半身のような存在……なのかしら」
双子の片割れとは、そんなものだ。
けれど今、自分が感じているこの感情は、そんなものだけではとうてい片づけられないような気がした。
双子の片割れとして、半身として……いや、それ以上としても、大切で愛おしい、ただ一つの存在。
だからこそ、拒絶されることがこんなにも辛く、苦しいのだろうか?
「っ……奏」
もう一度、その名を呼ぶ。
葵が一人っきりで発する精一杯の叫びなど、きっと奏には届いていないだろうし、こんなにも思い悩んでいることすら彼は知らないだろう。
「かなで、」
呼ぶたびに、熱がこもっていくその名前。その響きすら、今はただひたすらに愛おしい。
ただ、側にいて欲しいだけなのに。前みたいに、自然に接して欲しいだけなのに。それすらも、奏は拒絶するというのだろうか。
だったら……。
「あなたのことは、もう忘れるべきなの?」
両親は既に離婚している。血の繋がりはあっても、もう家族ではない。姉弟でも、ない。
拒絶されるぐらいなら、いっそ最初からいなかったことにしてしまえばいいのかもしれない。それが、奏の望んでいることならば。
――でも、ね。
「馬鹿。忘れられる訳、ないじゃない……」
そう簡単に忘れられるものならば、とっくにそうしている。それが出来ないから、自分はこんなにも悩んでいるというのに。
奏はもう、忘れてしまっただろうか。同じ母親の腹の中から生まれた、片割れとしての自分のことを。
どれだけ考えても、やっぱり奏の気持ちは分からない。それは、奏が所詮自分とは違う存在だからなのだろうか?
考えるのが嫌になって、葵はベッドに半ば飛び込むようにして身体を預けた。ふかふかの布団の温もりも、奏の温かさにはきっととうてい敵わない。
記憶の中の奏も、自分の中に刻まれた思い出も、全てを取り払うように葵は首を激しく横に振る。そして、布団にその身を任せるようにゆっくりと目を閉じ、しばしの浅い眠りについた。
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