花・その6

 その日の夜、どこかすっきりした気持ちで帰宅した優羽は、自室に戻ると早速桜香と梨生奈にそれぞれ電話を掛けた。

 近況をかいつまんで報告すると、桜香は『優羽くん、悩み事が解決したのね。よかった』と心から喜んでくれたし、梨生奈は『これで少しは、生活も改善されるかしらね』と皮肉気に――それでもどこか機嫌良さそうに、答えた。

 二人との関係が、これからどうなるかは分からない。それでもできるだけ無下にはしたくないし、男として自分がしてきたことの責任はしっかり取らないといけないと思う。

 まだ、心の整理がついたわけではないけれど。


    ◆◆◆


 翌日。

 昨日全てを真紘に打ち明けたことで、優羽は朝から憑き物が落ちたような、清々しい気分になっていた。これまではほぼ毎日のように眠れない夜や浅い眠りが続いていたけれど、昨夜は笑い疲れてしまったこともあって、ぐっすり眠れたと自分でも思う。

 登校前に顔を合わせた親は、優羽を見て目を丸くしていた。

『なんだか、やたらと今日はお前が好青年に見えるよ』

 それが親の言うセリフだろうかと一瞬は思ったものの、それまでの自分がそう言われても仕方ないほどの顔をしていたということもちゃんと自覚しているので、敢えて否定はしなかった。

 何かあったのか、と聞かれたけれど、優羽は言葉を濁した。あまり口にしたいことでもなかったし、話せば確実に長くなるからだ。

 親はそれ以上何も聞かなかった。とはいっても優羽の気持ちを察したからというわけではなく、単にそれ以上の興味を失ったのだ。優羽に対して無関心なのはいつものことだし、干渉されない方が楽なので別に気にはしない。根掘り葉掘り聞かれるのも、迷惑なだけだった。

 朝日の眩しさに目を細めながら、優羽はいつもより早めに登校した。いつもの通り校門をくぐっていくと、まだ人通りの少ない道を、ゆったりとした足取りで歩いていく。

 少し前を、見覚えのある姿が歩いていた。すらっとした肢体をしなやかに動かし、黒い髪を靡かせながら歩く、優羽と同じくらいの身長の男子生徒――玲だ。

 声を掛けようかどうか一瞬ためらったものの、物は試しだと思い駆け寄ってみる。ポンッと軽快に肩を叩くと、まっすぐに伸びた背中が驚いたように跳ねた。

「っ……びっくりした、優羽か」

「おはよ、玲」

「おはよ。……今日は早いじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」

 以前のような気軽な返事が返ってきたことに内心驚いていると、まるでそんな優羽の気持ちを見透かしたかのように、玲が僅かに口角を上げた。

「何、間抜けな顔してんだよ」

 目をぱちくりとさせながら、優羽は問いに対する答えを紡ぐ。

「……だって、昨日の今日だし。もしかしたら無視されんじゃないかと思ってさ」

「自分から話しかけて来たくせに、今更何言ってんだよ」

「いや、でも」

「もちろん、吹っ切れたわけじゃないよ。だけど……」

 そこで言葉を切ると、玲は不意に表情を改めた。いつもの無表情とは違う、至極真面目な顔つきだ。

 視線を道路に落とし、玲はポツリと続きを言った。

「たとえ、報われなくても……それでも、三人でまた一緒にいたいって思う気持ちが強かった。ほら、昨日久しぶりに三人で笑ったろ? あの時俺、心から楽しかったんだ。またこんな風に、三人で笑えたらいいって……勝手かもしんないけど」

 なぁ……お前もそう思わないか、真紘?

 優羽から外れた場所に視線をやりながら、玲が不意にそんなことを言う。え、と声を漏らしながら振り向けば、視線の少し下に小柄な男子生徒――真紘が立っているのが見えた。思いつめたような表情で、大きな黒い瞳を一心にこちらへと向けている。

「もちろん、すっごく悩んだよ。でも……」

 苦しげに眉根を寄せながら、それでもこちらから一切目を逸らさずに、真紘ははっきりと答えた。

「俺もあの時確かに、こんな風にまた、三人で気持ちを共有したいって思った。玲への想いが報われないことなんて、そんなこととっくに分かってるけど。でも……それ以上に、二人とは友人同士でいたいんだ」

 その切なげな表情を見ていると、未だに胸がざわつく。全てを打ち明けてすっきりしたとはいえ、真紘への想いをそう簡単に捨てることなどできないのだ。

 きっと玲も、真紘もそうだろう。今だって二人とも、かなり無理をしているに違いない。自分も、真紘を前に無理をしているのだから。

 でも……。

「お前は、どうなの。優羽」

「お前は……これから、どうしたい?」

 二人にそう問われ、優羽は一瞬言葉に詰まってしまう。

 自分がこれからどうしたいかなんて、すぐにでも答えられる。それは至極単純なことで……けれど同時に、ものすごく難しいことだ。

 声が震えないように気を付けながら、優羽は口を開いた。

「お前たちは……本当に、それでいいのか」

 後悔は、しないのか。

 二人を交互に見ながら、そう静かな声で問う。

 その問いは予想外だったらしく、二人は同時に鳩が豆鉄砲を喰ったような表情になった。その瞬間、聞かなければよかっただろうかという後悔が優羽を支配する。自分がそんな問いを投げかけてしまったことで、二人の気が変わってしまうのではないかと、ひどく不安になった。

 ――が、やがて二人はそれぞれ、ゆっくりと表情を崩した。それぞれの顔に、満面の笑みと淡い微笑みが浮かぶ。

「後悔なんて、するわけないじゃん」

 真紘がまず、無邪気な声でそう答えた。次に玲が、柔らかな声で続ける。

「このままバラバラになる方が、余計後悔する」

 それとも……俺たちがこれまで築いてきた友情は、その程度で崩れるような浅いものだったわけ?

 続けてそんな問いをぶつけられ、優羽はドキリとする。小さく首を横に振れば、二人は揃って「だろ?」と口にした。

「さ、これでもう悩むのは終わりだ」

 何も言えずに黙っていると、玲がいつになく明るいトーンで声を上げる。真紘も「そうそうっ」と弾んだようにうなずき、未だ少し迷っていた優羽を無理やりに引っ張った。

「これから学校だよ、がんばろっ」

「あ、ちょっと真紘何やってんの、抜け駆けすんなよ」

「なーに言ってんのさ玲、俺の気持ち知ってるくせに」

「お前だって俺の気持ち知ってんだろが」

 二人で茶化しあいながら、小走りに先を進んでいく。その会話は以前のようにテンポがよかったけれど、以前にはなかった気安さがどこかにあった気がした。

 優羽も頬を緩め、真紘に腕を引っ張られる前に自ら足を進める。口からは自然と、冗談が飛び出ていた。

「あんまり触るなよ、真紘。また襲っちまうかもしんないだろ」

「えー、やめてよ優羽。今度は通報しちゃうよ」

「そうだよ、この変態が」

「その変態を好きになったのは、どこの誰だったっけ、玲?」

「……秋月玲、一生の不覚だよ」

「何だとコラ」

「あははっ」

「真紘も笑うな!」

 ――今はまだ、胸が痛むこともあるけれど。

 それでもいつかは心から、今までのことを全部笑い話にできればいい。こんな風にずっと、三人で笑い合えたらいい。

 今度こそは……本当の意味での、『仲良し三人組』になれたらいい。

 からかいながら先を走っていく二人を追いかけながら、優羽は密かにそんな願いを抱いていた。


「――お、お前ら仲直りしたんだ」

「やっぱ三人揃ってないと、らしくないよねぇ」

 始業時間が近づき、少しずつ人通りの多くなってきた廊下のあちらこちらから、そんな祝福めいた声が聞こえる。一見無関係な彼らにも心配をかけてしまっていたようだから、やはりこれまでの自分たちは異常だったらしい。

 次々と掛けられる明るい声に答えながら三人で進んでいくと、不意に後ろから男女の声がした。

「仲直りしたのね、お三人方」

「相変わらず騒がしいことで」

 振り向くと、そこには葵と奏が揃って立っていた。

 確かこの二人は、前に仲違いをしているとの噂を耳にしたけれど……と、優羽は不思議に思い首を傾げる。真紘も玲も互いに同じことを思ったようで、不思議そうな表情で二人を見比べていた。

「葵ちゃん。……奏とは、もういいの?」

「前は、互いにものすごい剣幕で睨み合ってたのに」

 二人――こうして並んだところを改めて見ると、本当によく似た美形同士だ――は一瞬視線を交錯させたかと思うと、見事に揃ってそっぽを向いた。その様子はまるで、磁石の同じ極が反発し合っているようだ。

 その状態のまま、そっけなく葵が答える。

「別に、謀ったわけじゃないわ。あたしはただ、真紘ちゃんに声を掛けたくて近づいただけだもの」

「俺も、玲に挨拶しようと思って近づいただけだよ。別に、一緒に来たとかそういうわけじゃない」

 なんて分かりやすい双子なのだろう。

 優羽は内心呆れながら見ていたが、真紘や玲は案外鈍いらしく、それぞれ心配そうに、深刻そうに眉根を寄せていた。

「そっか……勘違いしちゃってごめんね」

「俺も、余計なこと言ってごめん」

「いいのよ。別に、気にしていないわ」

「今更じゃないか。君たちが気に病むことはないよ」

 それぞれ答えながらも、意識的に二人は顔を合わさないようにしているようだった。

 ふと直観的に、二人の手元に視線を落とす。そこにある光景を一瞥し、再び顔を上げてみれば、葵と目が合った。

 ぷっくりとした桃色の唇を扇情的に開いた葵が、笑みとともに口だけを動かし、声のないメッセージを送ってくる。

『まだ、内緒よ』

 小さく笑い、優羽はうなずいた。

 再び視線を落とすと、先ほど見た光景がもう一度優羽の目に入る。

 鏡のようによく似た二人の、ほっそりとした白い小指が、互いに依存するように絡み合っていた。

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