風・その3
某女子高の付属設備を好まない桜香は、自分の意志でそれらを利用することはまずない。普段からお腹が空けば街中のレストランで済ませるし、身体の調子が悪くなれば近所の市民病院で診てもらう。ひとときの休息を得たければ、最近仲良くなった少女・松木梨生奈がバイトしている喫茶店へ足を運んだりもしていた。
そんな彼女が調べ物や勉強をしたい時にも、当然某女子高の付属図書館は使わない。このあたりの街は広いので、あちこちにいくつか小さな図書館が存在するのだ。
付属図書館には広さも品揃えも劣るため、本来某女子高の生徒がわざわざ地方の図書館を利用することはない。しかしやはり地域の誰もが使用する場所であるからか、付属図書館よりもずっと静かで落ち着くので、桜香はこちらの方を気に入っていた。
その日の学校帰り、いつも通り喫茶店に立ち寄ろうとした桜香は、ふと頭の中に梨生奈の姿を思い描く。
あぁ、そういえば今日、あの子は休みなんだっけ。
別に彼女がいなくてもあの場所が桜香にとって落ち着くところであることには変わりないのだが、なんとなくそう考えるとあまり気が進まなくなり、桜香は喫茶店へ向けようとしていた足を止める。
ふと、二週間ほど前に借りた本の返却日が近いことに気付いた桜香は、せっかくだからと図書館へ寄ることにした。止めた足のベクトルをそちらの方へと向け、ゆっくりと歩き出す。
そうやって立ち寄った、とある地方の小さな図書館で、彼女は偶然の出会いをした。振り返った視線の先に並んでいた、某高校の制服を着た二人を見つける。
男子としては小柄な、さらりとした黒髪の可愛らしい顔をした男の子が、不審そうにこちらを見ている。その傍らで耳打ちするように身を寄せている色白の女の子は、思わず言葉を失ってしまいそうになるほどに綺麗な顔立ちをしていた。色素の薄い長髪が、天井の蛍光灯の光を受け、金色にキラキラと輝いている。
その二人に心当たりがあった桜香は、あっ、と思わず小さく声を上げてしまった。困ったように目配せし合う二人のもとへと、吸い寄せられるように足を進めていく。
時々帰り道に見かけることがある、記憶の中の二人の顔と、目の前にある二人の顔をゆっくりと重ね、桜香は恐る恐る口を開いた。出た声が予想外なくらいにか細くて、緊張しているのだということが自分でもわかる。
「あの……お二方は、花村優羽くんのお友達ですよね。雪宮真紘さんと、泉水葵さん」
そう、確かそれは……優羽が時折口にする、二人の名前。
小柄な可愛らしい男の子こと雪宮真紘は、優羽の友人の一人。もう一人の男の子――確か、秋月玲といっただろうか――と彼と優羽は、三人でよくつるんでいるのだという。
そしてもう一人の綺麗な女の子こと泉水葵は、近頃優羽の友人になった子で、某高校で評判の美少女。そういえば梨生奈もそんな話をしていたなと、頭の片隅で思い出す。間近で見ると、噂通り……いや、それ以上に美しい容姿をしていることがわかって、思わず息を呑んでしまいそうになった。
そんな二人は、桜香の問いかけに同時にうなずく。話を聞いてくれていることが分かってホッとした桜香は、自然と表情を緩めた。
膝丈までのスカートの裾を控えめにつまむと、いつも学校やその他の場所でしているように、恭しく礼をしてみせる。二人が物珍しそうに見ているのは、きっと普段そういうものを見ていないからなのだろう。しかしこちらとしては日常の所作であるので、こればかりは仕方ないと思う。
「申し遅れました。初めまして、あたしは風早桜香といいます。優羽くんの、いわゆるセックスフレンドというものです」
そう口にすれば、二人は目に見えて固まった。何かまずいことでも言っただろうかと、桜香は首を傾げる。
「あの……どうか、なされました?」
「いや……」
「いいえ、なんでも……」
顔を見合わせ、引きつった苦笑を浮かべる二人。もしかしたら、頭の中で同じようなことを考えているのかもしれない。仲のいい二人なのだなぁ、と桜香はただ漠然と思う。
とはいえ、ともかく偶然とはいえ、優羽をよく知るこの二人に会うことができたのだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。
そう考えた桜香は、どうしていいか分からないらしく戸惑っている二人に、真剣な顔つきでこう言っていた。
「少し、お話したいことがあるんです。お時間、よろしいですか」
真紘と葵には少し待ってもらって、先に借りていた本の返却手続きを済ます。
「ごめんなさい、お待たせして」
声を掛けながらそちらへと歩いていけば、先に近くの席へと着いていた二人がちょうど至近距離で親密そうに話しているところで、桜香は思わず声を上げた。
「……あら。何だか、お邪魔みたいですね。あたし」
「え……あぁ」
「お構いなく」
こちらに気付いた葵が、急に冷たげに真紘から顔を離す。真紘の方も特に気にした様子はなく、真顔でそれを見ていた。
そのあまりに淡々とした様子に、桜香は少し驚く。が、きっと他人である自分に突っ込まれたことで恥ずかしがっているのだろうと思い直し、分かっているという気持ちを込めてそっとうなずいた。
仲良きことはよいことかな、だよね。うん。
「ところで、風早さん……だっけ」
「はい?」
小首をかしげる真紘に合わせ、桜香も同じように小首を傾げる。その光景を見ていたらしい葵がふと何かつぶやいたようだったが、桜香にはよく聞こえなかった。
真紘も同じく聞こえなかったらしく、「葵ちゃん、なんか言った?」と尋ねる。葵は穏やかに、まるで何もかもを見抜いているとでも言うように微笑みながら「いいえ」と答えた。
真紘は一瞬不思議そうな顔をしたが、本題はそちらではないと思い直したかのように、もう一度桜香へと向き直った。
「俺たちに話したいことって、何?」
「はい、そのことなのですが」
ゆっくりと足を進め、真紘のちょうど向かい側の椅子を引き、浅く腰掛ける。こくり、と鳴った喉の音は、一体誰のものだったろうか。
「実は……お話ししたいというというより、こちらが聞きたいことって言った方が正しいんですけど」
「「聞きたいこと?」」
「はい」
綺麗なユニゾンに、わざと重々しくうなずいてみせる。
話したいことといっても、実はそんなにちゃんとまとまっているわけではなかった。二人を待ち伏せていたわけでもなくて、半ば衝動に任せて呼び止めたにすぎない。
けれど二人の真剣な顔を見ていたら、自然と言葉が漏れていた。
「勝手なんですけど、優羽くんのことをいろいろ知りたいなって思っていまして。あたしはこの通り学校も違うし、普段の彼を何も知らないから」
優羽は、ほとんど自らのプライベートについて語らない。それを語れば他の女の子のことがおのずと絡んでくることも、だからこそ優羽は桜香のことを思って話さないのだろうということも、なんとなくわかっていた。
でも……それだけじゃ、寂しかった。
彼が語る花村優羽という人間のことじゃなくて、他の人が語る花村優羽という人間の話も、聞いてみたかった。
自分だけは、せめて彼の理解者でいたくて。彼のことを少しでも詳しく分かった上で、彼を癒してあげたくて。断片的な情報の上で、彼をそっと包み込んであげることは、やっぱり難しいから。
それは単純に、自分のエゴなのかもしれないけれど。
ふと、向かいにいる真紘が、何かを考え込んでいるかのように黙りこくっていることに気付く。彼もまた、何か思うところがあるのだろうか……。
「あの……」
「真紘ちゃん」
「え、あ……ごめん。何?」
「何、じゃないわよ」
たまらず声を掛けると、葵も畳み掛けるように呼びかける。ぷくぅっ、と可愛らしく頬を膨らませた彼女は、真紘の頭を軽くはたいた。
「あなた、桜香ちゃんの話ちゃんと聞いてたわけ?」
「聞いてたよ。聞いてたからこそ考えてたんだ」
葵に対し、まるで心外だ、とでもいうように真紘は答える。
「俺が、風早さんにどんなことを教えられるか。そして……逆に、風早さんに教えて欲しいことも」
予想外の言葉に、桜香は思わず目を丸くする。
――あたしに、教えてほしいこと?
「あたしが……教えられることなんて、あるんでしょうか」
こくりと、真紘は迷いなくうなずく。
「俺や葵ちゃんが知っている優羽の姿と、君が知っている優羽の姿は、きっと違うと思うんだ」
「あたしたちじゃ、花村くんの夜のことなんて語れないものね」
葵が苦笑気味に続ける。
優羽の友人でありながら唯一身体の関係を持っていないらしい彼女のことを少し意外に思ったものの、心のどこかでホッとした自分がいるのも事実だった。……まぁ、もしそうだとするなら、初めから優羽は自分に葵のことを語っていないだろうが。
桜香も思わずつられてクスクス、と笑う。
「確かにそうかもしれませんね。逆に、あたしじゃ平日の学校での優羽くんのことは語れませんし」
葵が同意するようにうなずく。
「そういうことを語り合って、花村くんの本質が本当に見えるかはわからないけれど……何かの足掛かりには、なるかもしれないわ」
真紘ちゃんも、そう考えていたんでしょう?
それがまるで図星だとでも言うように、真紘は面食らったような顔をしながらうなずいた。
「そう……ですね」
思わずつぶやいた桜香は、そっと顔を上げる。真紘と葵の顔を順番に見ながら、決意を込めて言った。
「じゃあ、あたしも優羽くんのこと、知ってること全部お話します。あたしが見ている優羽くんの姿と、あたしが彼についてどういう風に思っているのか……まぁ、言ってもほんの一部なんでしょうけれど」
「うん。俺も、君に優羽のこと知ってる限り話すよ」
そう言ったあと、真紘は何かを続けようと桜色の唇を曖昧に開いて――……ハッとしたように、つぐんだ。黒い大きな瞳が迷うように揺れる。
「あの、雪宮くん?」
「真紘ちゃん」
桜香と葵が順番に呼びかけると、真紘はハッと我に返ったような表情になった。
「ごめん……何でもない」
「もう、しっかりして頂戴よね」
葵の冗談めいた言葉にクスリと笑えば、真紘もまたホッとしたような笑みを見せる。彼が抱えている事情は知らないが、きっと葵もそれを知っていてわざとそんなことを言ったのだろう。二人の間にある信頼関係を、桜香は少し羨ましく思った。
そこでふと葵の方に目をやると、机の上で頬杖をつき、目を細めながらこちらをじっと見つめているのに気付いた。居心地の悪さというか、戸惑いのようなものを感じ、おずおずと声を掛ける。
「あの……泉水さん?」
「葵でいいわ」
「葵、さん……」
「なぁに?」
「あたしの顔に、何かついてますか」
葵は桜香の方から目を離さぬまま、妖艶に笑みを深める。それは噂に聞いていた以上に美しく、同性である桜香から見てもドキリとさせられるような表情だった。
「似ているなぁ、って思って」
「「似ている?」」
思わず出してしまった声が、真紘と揃う。葵は可笑しそうに笑った。
「えぇ、似ているわ。――花村優羽の、好きな人に」
「……っ」
真紘の表情がこわばり、柔らかそうな唇から息を呑むような声が漏れる。桜香もまた、大きく目を見開いた。
――似て、いる? あたしが、優羽くんの好きな人に?
感情のままに、ガタリと音を立てて椅子から立ち上がる。普段音を立てるような所作ははしたないから絶対にしないのだが、そんなことを構っている余裕などなかった。
「ご存知なんですか? 優羽くんの、好きな人」
身を乗り出し、食い気味に尋ねれば、葵は動揺した様子もなく、ただ小さくうなずく。
「えぇ……何となく、だけれど」
それで、全てを悟る。
「そっか……」
――そっか。だから、
「だから、優羽くんは」
あたしを、選んだんだ。
初めて出会った日の笑顔や、初めて身体の関係を結んだ日の縋るような瞳……それから身体を重ねた後の、寂しそうな表情。
その全てを思い出し、涙が零れそうになるのを堪えながら、桜香はフッと目を伏せる。
「風早さん……」
「優羽くんには好きな人がいて、あたしはその人の身代わりにされているんだってことは何となく知ってました。でも……面と向かって言われちゃったら、やっぱりちょっと、ショックですね」
表情を崩し、懸命に笑おうとする。けれど目の前の二人がつらそうな表情でこちらを見ているから、きっとうまく作れていないんだ。
「……報われないね」
真紘の言葉に、思わず目を見開く。表情が、ゆっくりと――ぼろぼろと音を立てて崩れ、醜く歪んでいくのを感じた。
真紘も、そして隣の葵も、どこか寂しそうな、遠くを見ているような表情をしている。幸せなカップルにはとても見えないその光景に、桜香はただ漠然と思う。
――もしかしたらこの二人も、今の自分と全く同じ想いを、誰かに対して抱いているのだろうか。
決して叶うはずなどないと分かっている、不毛な……でもどうしても捨てられない大切な想い。
どこにも行き場がなくて、ただ心に燻らせておくだけしかできない、そんなどうしようもない感情を。
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