松・その4

「分かっていた、はずなのに」

 覚悟していた、はずなのに――……。

 目の前で静かに涙を流す桜香の姿に、梨生奈もまた胸を引き絞られるような心地を覚えていた。

「心のどこかでは、期待していたのかもしれない。優羽くんが、あたしを見てくれるって……誰の身代わりでもない、風早桜香という人間を、その手で愛してくれる日がいつか来るんじゃないかって」

「うん」

「でも昨日、あの二人に会って……」

 昨日、梨生奈が用事でバイトを休んだ日。この喫茶店に来なかったという桜香は、とある小さな図書館で、優羽の友人である雪宮真紘と泉水葵にたまたま会ったのだという。

 そこで――……。

「そこで、知ってしまった」

 優羽があの日、桜香をセックスフレンドとして選び……傍に置くことにした、本当の理由を。

 葵が、桜香に向かって告げたこと――彼女が優羽の想い人に似ているのだという、あまりに残酷な事実。

 そして桜香は気付いてしまったのだ。

「あたしは……やっぱり、身代わりだった。分かってたつもりだったけれど、今までのそれって、結局あたしの中では曖昧だったんだなぁ。昨日あぁやって形にされて、面と向かって事実を差し出されちゃって。それってさ、」

 やっぱり、ショックっていうか。

 そう言って目を伏せる桜香の、豊かに生えた睫毛はしっとりと涙に濡れていた。うつむきがちな彼女の肩も、小さく震えている。

 目に見えて落ち込んでいる向かいの彼女を、もちろん哀れに思う。けれどそれと同じくらい、個人的感情がぐるぐると自分の中に巡っているのを、梨生奈は感じていた。

 とうの昔に、離れたはずなのに。

 優羽の想い人の存在が明確になった今、自分が感じているこの微妙な気持ちは一体何なのだろう。

 まるで、嫉妬しているかのような。

 自分が優羽のことを、まだ好きでいるかのような。

 優羽の想い人に似ているがゆえに、身代わりとはいえ優羽の傍にいることができる……そんな桜香を、心底羨ましいと思っているかのような。

「――梨生奈ちゃん?」

 どうしたの、と遠慮がちに掛けられる、気遣うような涙声にハッとする。目の前の桜香に動揺が伝わらないように、小さく頭を振った。

 いけない。自分は今、一体何を考えていたのだろう。

 今まさに傷ついて、自分のもとに何らかの救いを求めて来ているのであろう彼女に――……純粋な心を持つ、もはや友人と呼ぶにもふさわしいであろう存在の、この少女に。自分は、一体何を。

「何でもないわ」

 元気づけるように、必死に笑みを作る。

「辛い時は、甘いものが一番よ。サービスするから、ケーキでもいかが?」

 新作として甘い蜂蜜のミルクレープを出しているのよ、と明るく言えば、涙に濡れた少女はつられたように小さく笑う。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 いただこうかな、という彼女の言葉に「かしこまりました」とウエイトレスよろしく優雅に告げて、席を立った梨生奈はカウンターへと小走りに駆けて行く。

 背中を向けた梨生奈が一瞬浮かべた表情は、きっと桜香には見えなかったはず。同じく、背中を向けた後に浮かべている桜香の表情も、こちらにはまったくもって見えていないのだから。

「ハニーミルクレープ、二つお願いします」

「はい、ただいま」

 互いの心情など、きっと自分たちは知る由もないのだろう。

 そうやって、何も知らない振りをしながら……梨生奈と桜香は、今日も喫茶店で他愛ない話を繰り返すのだ。


    ◆◆◆


 机と椅子が整列された狭い箱の中で、大人になってもきっと一向に役立たない知識をいくつも脳へと押し込む。柵に囲まれた運動場やだだっ広いアリーナで、育ち盛りの身体を動かす。同じ環境にいる同世代の人間たちと、おしゃべりを楽しんだり、一緒に食事を摂ったりする。

 いつも通りに騒がしい学校での、それなりに楽しい日々。

 もちろん、楽しいことばかりでないことくらいは、なんとなく頭で分かっているのだけれど……。

「……あ、」

 五限目の移動教室のため、筆記用具と教科書を片手に廊下を歩いていた梨生奈はある方向に目をやったとたんに、思わず小さな声を上げた。

「なに、どしたの。梨生奈」

 同じく並んで廊下を歩いていたクラスメイトの友人が、不審げに眉根を寄せて尋ねてくる。

 そんな友人に、梨生奈は申し訳なさそうな顔を作りながら言った。

「……ごめん、先に行っててくれないかしら」

「え、何で」

「保健室に行ってくるわ。なんだかちょっと体調悪くて」

「え、マジ? 付き添いしなくて大丈夫?」

「大丈夫。悪いんだけど、先生に言っといて」

「分かった。お大事にね」

 友人は気がかりそうに言うと、その場に立ち止まったままの梨生奈を置いて先に移動先の教室へ行ってしまった。

「……さて」

 一人になった梨生奈は、溜息とともに呟く。

 体調が悪いというのは、もちろん嘘だった。先ほどチラリとだけ見た光景がどうにも気になってしまって、気付けばつい、そんなでたらめなことが口から出てしまっていたのだ。

 そのまま梨生奈は、移動先の教室とは反対の方向へと、一歩ずつ足を進めた。廊下を歩く梨生奈の頭上で、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。

 パタ、パタ、パタ……。

 チャイムの音に混ざり、校内用スリッパの安っぽい音が廊下にこだました。そしてその音は、ある地点――ちょうど曲がり角にあたる、壁側の一点でピタリと止まる。

 足を止めた梨生奈は、黙ったままそのほぼ真下を見下ろした。

 彼女の視線の先には、壁にもたれたままぼんやりと宙を見ている男子生徒がいた。白い頬にかかる色素の薄い髪が、蛍光灯の光を受け、キラキラと幻想的な金色に輝いている。

 傍らに立った梨生奈の存在に気づいたらしい彼は、ゆっくりと顔を上げた。失望に染まっていた綺麗な表情が、たちまち嫌悪を孕んだそれへと変わっていく。

 薄い唇が、普段よりひときわ低い声色で言葉を紡いだ。

「……んだよ、お前かよ」

 授業始まってんだろが、と舌打ち混じりにのたまう彼に、梨生奈はニヤリと口角を吊り上げ、至極愉快そうな笑みを作った。

「そっちこそ、授業サボって何してるのかしら。――鳥海くん」

 座り込んでいた男子生徒――鳥海奏は、不機嫌そうな表情を隠しもせず、フンッと鼻を鳴らした。

「お前には、関係ないだろう」

 早くどっか行けよ、不愉快だ。

 吐き捨てられた拒絶の言葉に、梨生奈はさらに笑みを深めてみせた。

 彼の友人である玲との一件で、奏は梨生奈のことを極端に敵視しているらしかった。クラスメイトであるものの、あのことがあってから彼は梨生奈を頑なに避けているし、玲を梨生奈から遠ざけようと後ろで巧妙な手回しをしてもいるようだ。

 梨生奈の方は、別に奏が嫌いなわけではない。むしろそういった扱いをされることに、多少傷ついてもいた。

 けれどそれを口に出しては負けだ。あちらが強気で来るならば、こっちだってそれなりに強気で対応しなければならないと思う。根拠なんてないけれど、もしあるとするならば、元来の負けず嫌いな性格がそうさせているとでもいったところだろうか。

「……何笑ってんだよ」

 いらついたような声が、下から聞こえる。立ち上がる力すらも、どうやら今の彼にはないらしい。顔色がよくないとは思ったけれど、これは相当重症のようだ。

 見る者によっては――少なくとも、自分を嫌っている奏にとっては間違いなく――不快に感じるであろう笑みを顔に貼り付けたまま、梨生奈は言った。

「あなたが落ち込んでいる理由、当ててあげましょうか」

 ピクリ、とこちらを見上げる彼の整った眉が動く。髪の毛同様色素の薄い瞳が、一瞬隠しようもない激しさで光ったように見えた。

「俺が落ち込んでいるとは、限らないだろう」

 それでも、放たれる声だけは冷静だ。さすがね、と梨生奈は笑った。

「でも、このわたしの目は誤魔化されないのよ」

 奏が不機嫌そうに眉をひそめる。瞬間、梨生奈の心は何とも言えない高揚感に包まれた。

 玲ほど無表情ではないが、その心の奥を柔和な笑顔の中に全てしまい込んでいるような印象のある奏。そんな彼の本心を、欠片だけでも手に入れることができたような気がして、なんとなく勝ったような気持ちになったのだ。

 彼が今浮かべている表情には、覚えがある。似たような表情を浮かべた人間を、何度も見てきたから。そして……その心情の根本にあるものを、何度も知ってきたから。

 つまり彼もまた、その一人なのだ。今まで出会ってきた人たちと、同じ感情を抱いて生きている、そんな人間の一人。

 花村優羽や、風早桜香のように。

 それから……。

「わたしと、同じだわ」

 ポツリと呟いた言葉に、奏はカッと顔を赤くした。座り込んでいた状態から衝動的に立ち上がり、掴みかからんばかりの勢いで怒鳴る。

「お前に、何がわかるっていうんだ!!」

「わかるわ」

 普段穏やかな奏の豹変にも、梨生奈は動じない。まるで仲間に会った時のような気分で、柔らかに微笑む。

「叶わない恋は、辛いわね」

「……っ」

 奏は、悔しそうに唇を噛んだ。激情を孕んだ瞳を徐々に鎮め、梨生奈に向けていた視線を力なく落とす。

「俺は、お前なんかとは違う」

 最後の足掻きとでもいったように、奏は吐息交じりに呟いた。

「俺は……――」

 懺悔にも似た告白に、梨生奈は小さく目を見開く。

 そのまま奏は梨生奈の顔を一度もまともに見ることなく、彼女の前から立ち去った。

 奏の歩いて行った方向を、梨生奈は呆然と見送る。

 去り際に奏が告げた言葉が、耳にこびりついて離れない。決して叶わぬ恋に焦がれ、囚われ続ける彼の想いが零した、本心の欠片。

「……分かった気がしていたのは、わたしだけだったみたいね」

 いつもより小さく見える背中に向け、ごめんなさい、と小さく謝る。

 本人がいなくなっても、廊下中に先ほどの声が反響しているような気がして、梨生奈は思わず耳を塞ぎ、座り込んだ。


 ――俺は、姉さん・・・に恋焦がれているんだよ。

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