風・その4
喫茶店に足しげく通うようになって、結構な月日が経った。
にもかかわらず桜香は、松木梨生奈という人間のことを、その実よく知らなかった。彼女のことに関して疑問を抱くのは、今に始まったことではない。
そりゃあ何度も喫茶店で会って話をしていれば、誕生日や血液型などといった基本データも、通っている学校や学年も、どのあたりに住んでるのかということも、家庭環境のことも、彼女は望めば何だって話してくれた。
けれどその心の奥底だけは、未だに教えてくれない。どれだけこっそりと、さりげなく覗いてみようとしたところで、持ち前の不敵な笑顔と話術で上手くかわされてしまうのが落ちだ。
一番手っ取り早いのは、彼女と同じ学校に通う優羽に尋ねることだろう。彼とはそれなりに顔を合わせることも多いからうってつけだと、ただ単純にそう思った。まぁ、優羽が梨生奈のことについてよく知らないというのならば、それはそれで仕方ないことだけれど……一応、聞いてみるくらいならできなくもない。
ただ……。
優羽について打ち明けた時の、梨生奈の微妙な表情を思い出す。そのたびに桜香は、その考えを実行に移すことを――優羽の前で梨生奈の話題を出すことを、ためらっていた。
あの時……内心の動揺をこちらに気付かれまいとするように、必死に平静を取り繕っていた梨生奈。桜香だって、そんなことはとうに察していた。周りからはよく天然なお嬢様だとか言われるけれど、もともとそんなに鈍感なわけではないつもりだ。
優羽との関係について梨生奈は、クラスは違うけれど一緒の学校だ、とだけ言った。けれどあの様子から察するにきっと、それだけで語りつくせるような淡白な関係ではない。
それに彼女は、自分の恋愛事情について詳しく話さなかった。話すのを、どこかやんわりと拒絶しているようでもあった。
そりゃあ、昔の初恋の話――それこそ保育園とか小学生とか、そんな頃の他愛ないエピソードだ――などはしてくれたけれど……。
『高校生にもなれば、恋の辛さというものが自ずと分かってくるわ。あなただって、そうでしょう?』
あの日、彼女が桜香の前で泣いた後……目を赤くしながら弱々しく微笑み、わざとらしく語気を強めて発した言葉。
それはきっと、彼女が今何らかの恋に苦しんでいることを表しているに違いなかった。そしてそれには、恐らく優羽が何らかの形で関わっているのではないだろうか。
根拠なんて、ない。間違っている可能性もある。
けれど何となく、桜香は疑い始めていた。疑わずにはいられなかった、と言った方が正しいかもしれない。
松木梨生奈と花村優羽の、本当の関係について。
『――それで、あたしに?』
電話の相手――最近近所の地方図書館で会い、帰り際に連絡先を交換し合った相手である少女・泉水葵は、ほんの少し驚いたような声で問い返してきた。
道すがら携帯電話を握る手に力を込めた桜香は、小さく息を呑み、「はい」とはっきり肯定する。
「こんなこと、葵さんにしか頼めなくて」
『うーん……』
少し悩むような声が耳元で響いた。やはりいきなり迷惑だっただろうか、と急に心配になる。
『松木梨生奈のクラスには、彼が――……』
時折漏れ聞こえる切なげな独り言は、きっと梨生奈に聞かせるためのものではないのだろう。苦しげな吐息が聞こえて、ますます申し訳ない気持ちになってしまう。
内心ドキドキしながら沈黙に耐えていると、少しして『わかったわ』という吐息のような声が聞こえて、桜香は詰めていた息をふぅ、と吐いた。
『それとなく、探りを入れてみるわね。二人ともクラスは離れてるけど一応同じ学校だし、幸いどちらにもちょうどいい
「ありがとうございます!」
知らず弾んだ声を出してしまって、急に恥ずかしくなって口元を手で押さえる。電話口から、思わずといったようなクスリ、という笑い声が聞こえて、羞恥で顔が熱くなった。
『じゃあまた、何か分かった時にでも連絡するわね』
「わかりました。では、お願いします」
『了解』
電話が切れた後も、ドキドキが止まらなかった。胸に手を当て、いつもより早い鼓動を感じる。
今まで、何があってもこんな真似をすることは一度だってなかった。ただのセックスフレンドでしかない存在の優羽を疑い、その身辺を調べるようなことなんて――……。
「ごめんなさい」
でも、どうしても気になって仕方ないの。
こうでもして、無理にでも本当のことを知ろうとしなければ……自分はいつまで経っても梨生奈のことを、本当の意味で『友人』とは呼べないような気がして。
梨生奈にとって自分は、単なるバイト先の喫茶店のお客様であり、ほんの暇つぶしの相手でしかないなのかもしれない。こんなおこがましいことを思っているのは、自分だけなのかもしれない。
けど……。
「あたしは、梨生奈ちゃんのことを『友人』って……ううん。『親友』って、呼びたいの」
いつかはそう、呼べるようになりたい。呼び合えるような、仲になりたい。
だから――……。
◆◆◆
葵から連絡が来たのは、それから一週間後。
結論から言えば、松木梨生奈と花村優羽が接触している現場を見たことがある者はほとんどいないとのことだった。
ただ――……。
『今から話すことは、すべて過去のものよ。現在だけ見れば、二人には何の繋がりもない。それだけ、理解しておいてちょうだい』
「わかりました」
『じゃ、話すわね』
ごくり、と桜香は無意識に唾を飲む。
これまで話をした時よりも比較的ゆっくりめのトーンで、葵は話し始めた。
『……これは、松木さんのあるお友達が言ってたことよ。彼女は週に一度の決まった日、放課後必ず「用事がある」と言ってフラリと姿を消していた時期があるんですって』
その一見怪しげな行動に、嫌な予感を覚える。
桜香の動揺を察したのか、ほんの少し声のトーンを落とした葵は、囁くようにゆっくりと続けた。
『さすがに気になったそのお友達が、ある日の放課後、こっそり後をつけたら――……』
そこで、言葉を切る。
「どうしましたか」と続きを促すように問えば、躊躇いがちな吐息が断続的に聞こえた。
『言って、いいものかどうか』
「言ってください」
迷うような相手の口ぶりを一刀両断するように、きっぱりと告げる。
「それなりの覚悟は、できているつもりですから」
そういうつもりがなければ、そもそもこんなこと誰かに頼んでまで知ろうとなどしない。ショックを受けるかもしれないことくらい……最悪立ち直れないほどに落ち込んでしまうかもしれないことくらい、もちろん見越している。
だけど、それでも。
「知りたいんです、どうしても」
『……わかったわ』
桜香の熱意に
『
ドクン、ドクン、という自らの心臓の音が、やけに大きく鼓膜に響く。小さく息を吸うと、桜香は葵の言葉を待った。
『ドアにはすりガラスがはめ込まれているから、様子を見ることはできなかったそうだけど……そっと閉まったドアの前に立って、耳を澄ませてみたら』
葵はそこで、再び言葉を止めた。今度は言うのを躊躇っているというより、桜香の心の準備を待っているかのようだった。
「続けてください」
震えそうになる声を必死に押し留めながら、か細い声でそう促せば、葵は囁くような声でその続きを告げる。
『中からは、淫靡な言葉を囁く男の子の押し殺したような甘い声と――……松木さんのものと思しき女の子の喘ぎ声が、聞こえてきたのですって』
男の淫靡な言葉と、女の喘ぎ声。
それは、つまり。
「梨生奈ちゃんは……そこで、セックスをしていたんですね」
そして、その相手は――……。
「優羽くんと」
葵は口をつぐんだようだった。痛いほどの沈黙が、辺りを――桜香の耳元を、通り過ぎていく。
葵は何も、直接的なことを言ったわけではない。
それでも、話の筋や葵の迷ったような口ぶり……それから現在の、電話口からでも分かる葵の動揺から、自分の推測が間違いないのであろうことを桜香は察していた。
松木梨生奈は、かつて自分と同じ位置にいた――花村優羽と定期的に会い、セックスをする関係だった。
いくら過去のこととは言っても、それは間違えようのない事実で。
気まずい沈黙を破り、考え込む桜香の意識を現在地点へと戻したのは、葵のいたわるような声だった。
『花村優羽が女生徒と身体を重ねるのは、もはや日常茶飯事のことだわ。あなただって、知っているでしょう』
「……えぇ」
最初から知っていなければ、受け入れていなければ、こんな風に彼を愛することなどできるはずがない。
そう、思っていたのに。
「でも、やっぱり複雑な気持ちにはなるんです」
ようやく、友人になれそうな人を……心を許せる人を、見つけたと思ったのに。
彼女が自分と同じ優羽のセックスフレンドだったことが、ショックだというわけじゃない。彼女も自分の恋敵なのかもしれないという、危機感を抱いたわけでももちろんない。
「そうならそうと、どうして初めから打ち明けてくれなかったんですかね……梨生奈ちゃんは」
そうしてくれていれば、もう少し気持ちが楽になれたのに。
友情と愛の板挟みに、言いようのない複雑な気持ちに、こうやって妙な悩みを改めて抱くこともなかったのに。
ある程度、覚悟していたつもりだったのに……。
『裏切られたような、気持ちなのかしら』
松木さんにも、花村くんにも。
「そうかも、しれません」
気落ちしながらうわ言のように呟いた桜香に、葵は言葉を選ぶように、慎重な様子で言った。
『松木さんと花村くんは、ある日を境に関係を切ったようよ。それ以来、松木さんは徹底的なまでに花村くんを避けているそうだから。……そのあたりの様子も、今度会った時に聞いてみたらどうかしら』
顔を合わせるのは、辛いかもしれないけれど。
「……そうですね」
腹を割って話ができてこその友人だと、桜香は漠然と思っている。
それがもし、できないというのなら……。
「あたしは、梨生奈ちゃんに信頼されていないんでしょうか」
『怖いんじゃないかしら』
返ってきた想定外の言葉に、桜香は小さく目を見開く。
『自分がしてきた後ろめたいこと、醜い心の奥底……それを全て晒すことで、あなたに嫌われてしまうんじゃないかって、恐れているのかもしれない』
「どうして……」
どうして言い切れるんですか、と続けようとした言葉は、思いの外きっぱりとした口調に遮られた。
『あたしも、同じだから』
真実を知られるのが、怖い。
大切に想う人だからこそ……嫌われて心を離されるのが、何より恐ろしくてならない。
だから、本当のことを言えない。
『でもいずれは、言わなければならないことだから』
知らなければ、ならないことだから。
『話して、もらわないとね』
「……」
『こうやって人伝にでも真実を知ろうと試みたあなたになら、できるはずよ』
葵なりの、激励の言葉。
それは寸分の引っ掛かりもなく、すっと桜香の心に沁みこんできた。
「ありがとう、ございます」
どれだけ隠したところで、真実は変わらない。どれほど逃れようと足掻いたところで、いずれは知らなければ――知ってもらわなければならない時が、来る。
だから――……。
「ちゃんと会って、話してきます」
心の整理をつけるのに、少し時間をもらわないといけないけれど。
葵は小さく笑ったようだった。ザッ、という独特のノイズ音が、耳を妙に心地よくくすぐる。
『桜香ちゃんは、強いわね』
その言葉は、どこか切なげに響いたような気がした。
礼を言って電話を切り、桜香はふぅ、と溜息を吐いた。心臓はまだドキドキしているし、ショックの大きさは未だ拭えないけれど、いったん腹をくくってしまえば幾何か平気になるような気がする。
携帯を自室の机に置き、桜香はしばらくの間、何をするでもなくぼうっと考え込んでいた。
やがて長電話により熱を持ったままの携帯が、再び着信音を奏でる。表示された名前に、ほんの少し眉を下げたが、脳内の考えを払拭するように勢いよく頭を振った。
ほんのり温かい携帯を手に取り、電話に出る。
「もしもし、優羽くん? どうしたの」
『桜香、来て』
電話口から聞こえたのは、失望しきった暗い声だった。
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