松・その5
玲が、これまで仲のいい友人であったはずの二人――雪宮真紘と花村優羽の二人と、完全に接触を断ったのだという。
梨生奈がそれを知ったのは、ある日突然のことだった。
その日の朝、教室に入った瞬間から何やら辺りが騒がしいと感じてはいたけれど、その中心に玲がいるらしいことには、彼の席が――正確には、自席に座った彼自身が――多くのクラスメイト達に囲まれているのを見て初めて知った。
最初は何について話しているのかさっぱりわからなかったけれど、断片的に聞こえてきた会話から、梨生奈は玲と二人の友人との間に、何らかの亀裂が入ったらしいことを理解したのだった。
「――おい、お前らホントに何かあったのかよ」
「別に、何でもないって」
「オイオイ、水臭いぞ秋月」
放課後。
相変わらず矢継ぎ早に問い詰めるクラスメイト達をあしらう玲の表情は、いつもとほとんど変わらないように見える。けれど長い間彼に片想いし、その姿を穴が開くほど見つめ続けてきた梨生奈は、すぐに気付いた。
彼のきりっとした細い眉が、辛そうにひそめられていることに。
「ほら、みんな。玲のことは放っておいてあげなよ」
不意に教室内に響いた声と、パンパン、という軽やかな音。自分の席でうつむきがちに座っている玲の横に、声の主――奏が静かに寄り添うようにして並んだ。
「みんな、これから部活とかあるんでしょ? 早く行かないと遅れちゃうよ」
「けどよ……」
「玲のことは、俺が何とかするから」
それは静かな、けれど決して有無を言わさぬ、絶対的な声色だった。はっきりとした物言いは、彼の穏やかそうな見た目とおっとりした雰囲気からは想像もつかないくらいだ。
瞬間、玲を囲んでいたクラスメイト達は、口々に文句を言いながらも不満げに離れていく。
「ちぇー、いっつもちゃんと事情を知ってるのは鳥海だけなんだよな」
「まぁ、やっぱり幼馴染だしな。秋月も、鳥海にだけは何でも話せるのかもしんないぜ」
「まぁいいや。この件は、鳥海に任せようぜ」
「そうだな。ってかさっさと部活行かねぇと、本気で顧問にどやされるぜ」
「やべぇ! 行こ行こ」
騒がしいおしゃべりの声とバタバタ、といういくつもの重たい足音がしばし響いた後、玲を取り囲んでいた喧騒はあっさり散って行った。
「玲、大丈夫?」
いたわるように、奏が玲へ声を掛ける。
その声を背に、梨生奈は自らも教室を出る準備をした。息を潜めるようにして、できるだけ足音を立てないようにしながらも、足早に出て行く。
玲がそれに対して何と答えたか、彼らがこれからどんな会話をするのか……気になって仕方なかったけれど、努めて耳に入れないようにした。
今自分がそちらへ近づくような真似をすれば、奏が黙っていないに決まっている。玲は優しいから、ひょっとしたら庇ってくれるかもしれないが、こちらが彼の事情に首を突っ込むことなどできないのは至極当然のことでもある。圧倒的に、不利だ。
それに、詳細を尋ねたところで答えてくれるとは思えない。
玲と真紘、そして優羽の間に一体何があったのか。何が、あんなに仲の良かった彼らの友情を、跡形もなく壊してしまったのか。
そりゃあ、聞きたくて仕方ないけれど。知りたくて、仕方ないけれど。
玲本人に振られ、その友人である奏に敵視されている自分には――単にクラスが同じというだけの繋がりしかないはずの自分には、そのような奥底にまで足を踏み入れる権利などないのだ。
仕方ない。今日はこれからいつも通りバイトに行かなければならないし、このまま喫茶店に向かうことにしよう。
後ろ髪をひかれるような想いではあったものの、梨生奈はその本心を溜息で誤魔化し、玄関に向かってわざと早足で歩き出した。
◆◆◆
「梨生奈ちゃん……何かあったの?」
バイト先の喫茶店で、いつもの時間にやってきた見慣れた少女――桜香は、梨生奈の顔を見るや否や気遣わしげにそう尋ねてきた。
どうやら今の自分は、目に見えて落ち込んでいるらしい。
「悩んでいることがあるなら、話くらいは聞くよ」
いつも、聞いてもらってばかりだし。
その申し出は、ありがたいと思う。何でもいいから、誰でもいいから、縋ってしまいたいくらいの気分なのだから。
でも……。
「大丈夫よ。連日バイトが続いてて、ちょっと疲れてるだけだから」
にっこりと笑って、いつものように誤魔化す。
自分のことを何の疑いもなく『友人』と呼んでくれる桜香に、何もかも打ち明けてしまいたいと、本当は思っていた。いつもさまざまな話――他愛ないものからその心の奥底に潜む悩み事までもを聞かせてくれる彼女に対し、自分はあまりに何も話さなすぎている。
とはいってもこちらとて、まったく何も話していないわけではない。学校であったこととか、兄弟とのこととか、外面で桜香を楽しませられるであろうエピソードならばいくらだって打ち明けていた。
けれど桜香に対し、梨生奈はその心情をほとんど彼女に話していない。
それどころか……自分は、桜香に一つ大きな隠し事をしている。何でも包み隠さず打ち明けてくれる桜香に、自分は後ろめたいものを抱えながら対面しているのだ。
桜香は寂しそうに眉を下げる。梨生奈がこうやって誤魔化すような言葉と笑みを向けると、彼女は決まってこんな表情をした。
――そんなに、あたしのことが信用できない?
黒目がちの大きな瞳が切なげに揺れ、梨生奈の瞳を見つめながら雄弁に語りかけてくる。
そのたびに、胸がきしりと音を立てて――……桜香に対する罪悪感のようなものに、毎度苦しめられる。
――わたしだって、できることなら全部あなたにぶちまけてしまいたいよ。
苦しくてたまらくて、どうにもならない……一人で抱え込むにはあまりに大きな、この複雑な想い。
全てを話してしまえば、きっと楽になれるだろう。重苦しい心も、嘘みたいにスッと軽くなるんだと思う。そんなことは、とうの昔に分かっていることだ。
だけど……決して、打ち明けるわけにはいかない。
この心情を全てぶちまけるということは、桜香に対する大きな隠し事までもを、彼女本人に対し包み隠さず告白しなければいけないということで。
あのことを――優羽と自分の間にかつてあった関係のことを、もしも桜香が知ってしまったら。自分が優羽に対して感じている曖昧な想いを、桜香に見抜かれてしまったら。
その事実はきっと、優しい彼女の柔らかな部分に、傷をつけてしまう。
いくら実を結ばないと知っていても――最初から諦めていたとしても、桜香が優羽に向けている感情は間違いなく確かなものだ。自分のようなふしだらな人間には決して真似のできない、まっすぐで純粋な恋心。
玲にひたむきな想いを向けていながら、優羽と身体の関係を結び、二人の間で揺れ動いた挙句どちらからも拒まれる結果となった……そんな自分とは、決定的に違う。
そんな自分の本性を、清らな桜香が知ったら。
きっと彼女は、自分を軽蔑するだろう。
優しい彼女のことだから、激昂まではしないだろうけれど……それでも、もう二度と会わないだなんて言われて、拒まれてしまうのは間違いないだろう。今までの関係を、全てなかったことにされてしまうかもしれない。
そんなの、嫌だ。
危ういながらもここまで続いてきた桜香との関係を、自分の不実な行いのせいで――まぁ、結局は全部自分が悪いのだけれど――崩してしまいたくはない。
いくら虚構の上に成り立つ関係だとしても、それでも桜香とはこのままの関係で――友人のままで、いたい。
だから……。
「ごめんね……」
小さく呟いた声は、桜香に届いただろうか。
「ところで桜香。今日、学校でね――……」
いつも通り世間話へと話題を逸らせば、桜香もまた、いつも通りのたおやかな笑みで答えてくれる。その黒目がちの大きな瞳がほんの少し潤んでいるのには、気付かない振りをした。
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