風・その5

 沈みきった優羽の声が、電話口から『来て』と簡潔に告げる。あえて詳細を聞くことなく、もちろん桜香は了承した。

 梨生奈の――優羽がかつて関係を持っていたという『友人』の顔が一瞬浮かんだけれど、今はそんなことを考えている暇はないのだと言い聞かせ、必死に振り払う。

 胸が痛むのには、気付かない振りをした。

「行ってきます」

「お嬢様、このような時間にどちらへ?」

「友達の家です。急だけど、泊まっていくのでよろしくお願いしますね」

 自室を出て、玄関へ向かう途中のところにいた執事の一人に声を掛ける。彼の怪訝そうな態度も気にせず、心もち早足で家を出ると、優羽の家へ向かった。何やら、嫌な予感がしたのだ。

 迎え入れてくれた優羽の顔色は、ひどく悪かった。その様子に、電話の際の予感は本物だったのだと悟る。

 部屋へ招き入れられるや否や、半ば衝動的にベッドへと押し倒される。そのままいつもより幾分荒々しい愛撫を受けた桜香は、引きずり込まれるように快楽へと溺れていった。

 その手つきや、終始悲しげに歪んだ表情から、彼が何かしらの傷を負ったことはすぐに分かった。そのやるせなさをぶつけるかのように、ただ感情に任せるがままに桜香を抱く。

 今自分にできるのは、ただ彼の全てを受け止めることだけ――……。

 それだけしかできない自分に歯がゆさを感じたものの、できる限りその傷を癒してあげられればと思いながら、優羽に与えられる刺激を、熱を、余すことなく受け止める。

 明け方。行為が終わる頃には、すでに息も絶え絶えになっていた。今日が休みでよかったと、心の底から思う。

 明るくなり始めた空の色が、窓から優羽の自室を薄ぼんやりと照らす。

 優羽と身を寄せ合いながら余韻に浸り、うとうととまどろんでいる間、桜香からはあえて何も言わなかった。疲れていて何か喋るほどの余裕がなかったというのもあるけれど、こちらからあれこれ聞き出すよりは、彼の口から何か話してくれるのを待つ方がいいと思ったからだ。

 その結果優羽が何も言わないのなら、それでもいいだろう。

 ――ちょっと、寂しいけれど。

「……俺、」

 しばしの沈黙の後、ポツリと零された声。眠りに落ちようとする意識を無理に覚醒させ、桜香は一生懸命に耳を働かせた。

「もう俺は、あいつと――……いや、あいつら二人と、友人ですらいられなくなっちまうかもしれない。そういう日がいつかは来るって、きっとわかっていたはずなのに」

 きっと、それが彼を傷つけた要因なのだろう。『あいつ』とか『あいつら二人』というのが、具体的に誰を指すのかまでは分からなかったし、無理に聞き出そうという気もなかったけれど。

「失うくらいなら……いっそ何も、変わらないでいてほしかったのに」

 何も変わらない、日常。その奥に潜む真実を何一つ知らないままで過ごし続けることは、確かに幸せかもしれない。

 だけど……。

「誰のせいでもないよ」

 囁くように、思ったままの言葉を告げる。

「その変化は、きっと起こるべくして起こったことなんだから」

 どれだけひた隠しにしたところで、いずれはすべて明らかになる。真実が明るみに出る日は、遅かれ早かれ、誰にでも平等に訪れるのだ。

 それはいわゆる、必然。

 優羽は今、どんな顔をしているんだろう。反応を確かめることもしないまま、桜香は矢継ぎ早に続ける。

「それが、必ずしも悪い結果を招くとは限らない。良いものになるか悪いものになるかは……結局、自分次第なんだよ」

 変化は、起こるべくして起こるもの。ずっと変わらないことなんて、あるはずがないと桜香は思う。そしてそれが良いものになるか悪いものになるかは、結局のところ自分次第でしかないのだ。

 優羽の、小さな吐息が聞こえた。自分のつたない言葉をその心に刻み、少しでも噛みしめてくれているのだろうか。

 そうであれば、嬉しい。

「……じゃあ俺は、どうすればいいんだろう」

 吐息交じりの弱々しい呟きに、できるだけ優しい調子で答える。今自分が思うままの、正直な意見を。

「状況を見て、何をすべきか判断すればいいんじゃないかな。きっと……今がチャンスだ、って時が、どこかにあるはずだから」

 ――きっとそれは、自分自身にも言えること。

 ひた隠しにしていた真実の一部をいったん知ってしまったならば、もう全てを明るみにするしか選択肢はない。その状態で、今まで築いてきたものを台無しにしてしまわないように、慎重に行動しなければならないのだ。

 感情のままに焦って行動してしまえば、事態はさらに悪化するだけ。どんなことでも、うってつけな時期がきっとあるはず。それを間違えることなく見据え、タイミングを逃すことなく行動に起こすことができれば――……きっと何もかもが、うまくいく。

 逆に言うなら、そこを逃せば決して次はないということ。

 自分たちにできることと言えば、その時が来るまで、ひたすら辛抱強く待つこと。そして、その時を決して逃さないこと。

 ――お願い、伝わって。

 祈るような気持ちで優羽の言葉を待つ。

 やがて、いつも通りに戻った柔らかな声が、頭上からゆるりと降ってきた。

「……頑張ってみるよ。その時が来るまで」

「うん。あたしも、応援しているよ」

 顔を上げれば、こちらを見下ろす優しい色の瞳とぶつかる。元気づけるように朗らかな笑みを浮かべれば、いたわるように髪を梳かれた。その手つきと、先ほどより幾分か和らいだ表情に安心して、桜香はゆっくりと瞳を閉じる。

 優羽が微笑んだのが、気配と吐息で分かった。

 ゆっくりと明るくなっていく外の光を瞼に受け、抱き寄せてくれる優羽の温もりを肌で感じながら、桜香は徐々に意識を手放した。


    ◆◆◆


 行動を起こすタイミングは、きっとどこかにある。

 悩んでいる様子の優羽には、今思えばずいぶん偉そうなことを言ったものだと思う。もちろん、まったく同じことを自分に言い聞かせてもいたけれど……結局は、逃げているだけだったのかもしれない。

 間接的にとはいえ、真実を知ってしまった今となっては、梨生奈と顔を合わせることがただ怖くて。

 学校帰り、あの喫茶店の前を通るたびに、ドキドキと高鳴る胸の鼓動をやけにうるさく感じた。一歩足を踏み入れようとすれば、極度の緊張が全身を包む。

 そんなことが幾度も続き、結局桜香はおよそ一週間の間、行動を起こすことができないままでいた。


 しかし、そんなある日の土曜日――……。

「「あっ」」

 その日は学校で課外授業があり、昼ごろに学校が終わったので、桜香はいつもよりずっと早い時間に喫茶店の前を通りかかった。その時ちょうど、掃除道具を手にしたウェイトレス姿の梨生奈と鉢合わせしたのだ。

「……」

 何も言えないまま、桜香は立ち尽くす。

「桜香。久しぶりね」

 最近全然来てくれないから、どうしたのかなって気になってたのよ。

 何も知らないらしい様子の――まぁ、当然と言えば当然なのだが――梨生奈は、いつものように屈託ない微笑みを桜香へ向けてくる。桜香も笑みを返すが、それはどこかぎこちなかった。

「最近、忙しくて」

「……そう、なの」

 桜香を見た梨生奈は、一瞬だけ笑みを消す。有無を言わさぬような、ほんの少し低めの声で「待ってて」とだけ告げると、店内へ引っ込んだ。

 逃げ出したいのに、身体が動かない。

 結局ただ言われるがままに、桜香は梨生奈が戻ってくるのを待った。

「――お待たせ」

 どうやら、掃除道具を店内に片付けてきたらしい。戻ってきた梨生奈は、いつも通りの微笑みに戻っていた。先ほどの無表情や低い声が、まるで嘘のようだ。

「わたし、これから休憩なの。一緒に何か食べましょう。学校終わりだったら、あなたもご飯まだでしょう?」

「う、うん」

「じゃ、決定」

 腕を掴まれ、店内へ導かれる。梨生奈の手にほとんど力は入っていなかったけれど、抗いがたい強制力のようなものを感じた。

 ドキドキと、心臓が音を立てる。いざなってくる梨生奈はいつも通りのはずなのに――先ほどの表情を見たからだろうか。

 何故だかとても、怖くなった。

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