風・その8

「今日はありがとう、優羽くん。楽しかったよ」

「よかった。桜香が楽しんでくれたなら、俺も嬉しいよ」

 日曜の夕方、桜香は隣に並ぶ少年――優羽と手を繋ぎながら、そんな会話をする。手から伝わってくる優羽の温もりをしみじみと感じていれば、やがて自宅である大きな屋敷が見えてきた。

 そろそろ日も暮れようとしているが、いつもならこれくらいの時間から優羽に会うのが日常だったから、この時間に別れるのは初めてだ。と同時に、ほんの少しだけ寂しいと思ってしまう自分がいて、何だか新鮮だった。

 これまでこんな風に、昼間から優羽と会うことなんて……ましてや出掛けることなんてほとんどなかったので、今日は本当に楽しかったし、心の底から嬉しかった。

 今日出掛けたのは、何の変哲もない動物園とレストラン。一日ずっと手を繋いでくれていたり、こちらに向けて「可愛いな」って笑いかけてくれたりしたのが、本当に……まるで、恋人同士みたいだった。

 もしかしたら、ずっと夢見ていたことだったのかもしれない。

「ごめんな」

 自宅の前で立ち止まり、そっと手を離した優羽が、吐息交じりに呟いた。何が? と問えば、無言で見つめられる。

 髪を撫でられ、思わず反射的に目を閉じてしまった。

「自分の気持ちが、はっきりと分かるまでは……こんな触れ方しか、できないけど」

 でも、ちゃんと答えを出すから。

「だから……待ってて」

 直後、額に感じた柔らかな感触。チュッ、と小さなリップ音を立てた後に離れた優羽は、柔らかに微笑んでいた。

 答えるように、桜香も優羽に対して笑みを向ける。

「ありがとう」

 ――これまでは、身体だけの関係だった。必要な時にだけ身体を貸し出して、都合のいい女に成り下がっている……そう言われても仕方ないくらい、桜香はこれまで優羽の求めに従順だった。

 だけど、今は。

「あたしと、向かい合う気になってくれたんだよね」

 そう思って、いいんだよね。

 小さく首を傾げて問えば、優羽はどこか照れたようにはにかみながら、こくりとうなずいてくれた。

 じゃあな、という言葉と共に軽く桜香の頭を撫でると、優羽は桜香を残して広大な屋敷を後にする。遠ざかっていく広い背中には、これまでのような悲壮や不安などといったマイナス感情はなかった。

 そっと、先ほど口づけられた額に手を伸ばす。

 もう、優羽が自分を抱くことはない。この身体が、叶わぬ恋に焦がれた優羽の慰めになることは、もう二度とないのだ。

 自分だけじゃない……関係を持っていた他の女の子とも、セフレ関係を解消したらしいと風の噂で――正確には、彼と同じ学校に通う梨生奈を通してだが――聞いた。

 それでも、こうやって優羽が会ってくれるのは。

 セフレじゃなくなっても、繋がりを続けたいと思ってくれたのは。

「諦めなくて、いいのかな」

 ねぇ、優羽くん?

 とっくに見えなくなってしまったその背中に、決して返ってくるはずもない――希望的観測にも似た問いを、かけた。


    ◆◆◆


 いつもの通学路を通って行けば、いつもの光景が桜香を迎える。

 それは某高校の制服を身に纏った仲良し三人組だったり、仲睦まじそうに手をつないで歩く綺麗な容姿の男女だったり……学校に着くまで隣を歩いてくれる、違う学校の親友だったり。

 それらを見るたびに、桜香は「あぁ、幸せだな」と思う。

 時折彼らがこちらの存在に気付き、気安そうに声を掛けてくれたら、もっと「幸せだな」と思う。

 学校は違うけど、どこかで絆があるように感じて。

 某女子高に行ってからも、桜香は無意識に笑うことが増えた。つまらない材料でしかなかった授業も、行事も、楽しめるようになった。

「風早さん、最近楽しそうだね」

 声を掛けてくるクラスメイトに、桜香はお嬢様然とした――それでいて、年相応の無邪気な笑みで答える。

「うん、だって楽しいから」


 ――放課後、クラスメイト達に別れを告げた桜香は、すっかり常連となったいつものカフェへ足を運ぶ。

「いらっしゃい」

 そこには、ウエイトレス姿の親友・梨生奈がいて……。

「……あれ?」

 今日梨生奈が案内してくれた席は、いつもの二人掛けの席ではなく、何故か四人掛けの席だった。そのうちの二つに座っていた先客たちの姿に、桜香は目をぱちくりとさせる。

「こんにちは、風早さん」

「久しぶり、桜香ちゃん」

「雪宮くんと、葵さん……」

 先客だった少年と少女――かつて図書館で顔を合わせた二人こと、雪宮真紘と泉水葵は、揃ってにこやかに手を振ってきた。

「今日は、みんなで一緒にお茶しましょうって誘ったの。あなたたち三人が、知り合いだって聞いてね」

 言いながら二人の向かいの椅子に腰かける梨生奈に倣い、桜香もその隣の椅子を引いた。

 改めて四人で向かい合うと、なんだか今の状況が非常におかしなものに見えてしまった。桜香が思わず吹き出してしまえば、他の三人も顔を見合わせ、照れたように笑い合う。

「とりあえず……もう、注文は決まったかしら?」

 梨生奈がウエイトレスらしからぬ問いを掛けてきたので、桜香はいつものようにハニーラテを頼んだ。真紘は甘めのホットミルクを、葵はカフェオレを、それぞれ告げる。

「じゃあ、オーダー取ってくるわね」

 梨生奈は立ち上がり、そそくさとカウンターの方へ小走りに駆けて行く。その後ろ姿を見つめながら、真紘はポツリと呟いた。

「何だか松木さんって、あぁいうの似合うよね」

「似合いますよね。あたしも、出会った時からそう思ってたんですよ」

「それって、初対面からウエイトレスだからじゃない?」

 葵に突っ込まれ、桜香は思わず照れ笑いを浮かべてしまう。

「確かに、そうですね」

 えへへ、と笑うと、二人もつられたように笑った。「風早さんって面白いね」と真紘に言われてしまったが、果たしてそれは褒め言葉なのだろうか。

 ……とりあえず、褒め言葉として受け取っておくことにした。

「――お待たせ」

 十分ほどして、オーダーが運ばれてくる。三人分の注文と梨生奈のものらしきベルガモットオレンジティー、そして何故かワッフルのようなものを次々とテーブルに置いていく。

「松木さん、これは?」

 真紘が問えば、梨生奈は艶やかに微笑んだ。

「サービスです」

 あたかもウエイトレスのような口調に、思わず吹き出してしまう。「すっかり板についているわねぇ」と、葵は褒め言葉なのだか嫌味なのだか分からないことを言った。

 梨生奈が再び桜香の隣の席に座ると、特に合図もないまま四人は注文した品に手を付ける。梨生奈いわく『サービス』だというワッフルは柔らかく、さっぱりとした甘さが口の中に広がって美味しかった。

 四人で飲み物とワッフルをつまみながら、他愛のない話をした。梨生奈たち三人が通う某高校の話がほとんどだったが、聞いているだけでも楽しいものばかりだった。

 真紘は主に、同じ学校に通っているという二人の親友の話をしてくれた。一人がクールな性格で、もう一人はチャラ男気質――おそらく、優羽のことだろう――なのだという。葵や梨生奈もそのことは知っているらしく、「近頃、本当にうるさいのよ」と呆れたように笑っていた。

「確かに、通学路でよく見かけますね」

「うるさいでしょう」

「楽しそうです」

「うん、だって楽しいもん」

 そう語る真紘の表情からは、心の底から充実した毎日を送っていることがうかがえた。図書館で見た悲壮な表情など、微塵も感じない。

 そして葵は、主に同じ学校の恋人の話をしていた。きっと、通学路で見かける綺麗な男の子のことなのだろう。葵は彼といかに気が合うのか、彼がいかに魅力的なのかを、熱っぽく語ってくれた。

「アツアツだよねぇ、葵ちゃんと奏」

「ホント、見ているだけで胸焼けがしそうになるわ」

「でも、仲良さそうで羨ましいです」

 クスクス、と笑えば、梨生奈がチラリと意地悪そうな表情でこちらを見た。

「桜香も、最近花村と仲良くやってるみたいじゃない?」

 その言葉に、カァッと顔が熱くなる。

「え? じゃあ最近優羽とよく会ってる彼女って君なの?」

「あら、それは初耳ねぇ」

 ニヤニヤとしながら見つめてくる二人にまで追いつめられ、桜香の顔はさらに熱くなってしまう。

 その後結局桜香は、他の三人に問い詰められる形で、最近の優羽との事情を話させられる羽目になってしまった。

 今度優羽に会ったら、謝らなくちゃいけないな、と桜香は漠然と思った。


「――あら、もうこんな時間」

「もうそろそろ、お開きにしましょうか」

 すっかり空になった全員分の食器を、梨生奈が隣に控えていたらしいお盆に乗せていく。それを合図とするように、他の三人も立ちあがった。

 「お会計はこちらよ」と言いながら歩いていく梨生奈に着いて、出口へと向かう。

 会計を済ませ、店を出る前に、真紘は見送ってくれている梨生奈に振り返りながら笑顔で言った。

「今日は、とっても楽しかったよ。ありがとう」

「えぇ、楽しかったわ」

 同意するように、葵が続ける。

「ねぇ松木さん、また来てもいいかしら」

「いつでもどうぞ。歓迎するわ。ねぇ、桜香」

「はい。あたしたちも楽しかったですし」

 梨生奈と顔を見合わせながら、にっこりと笑う。真紘と葵も、心底楽しそうに笑みを返してくれた。

 「また来るね」と言い置き、三人は店を出る。

 その後、帰る方向が異なる葵と真紘の二人とは別れ、桜香は一人で帰路に着いた。日の暮れかけた空の下を、軽い足取りで歩いていく。

 自分でも気づかないうちに、桜香は鼻歌を歌っていたらしかった。

 それに気づいたらしい使用人に、帰宅するやいなや「お嬢様、いつもよりご機嫌そうですね」とキョトンとしたような表情で言われてしまうのは、また別の話だ。

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