雪・その3
早退した翌日、葵は四限目から教室へやって来た。昨日のこともあるので、てっきり学校を休むものだと思っていた真紘は、思わず目を丸くする。
「葵ちゃん、もう大丈夫なの?」
「えぇ。もうすっかり元気よ。思ったより早く、体調が回復してよかったわ」
「そうじゃなくて」
笑顔を浮かべながらのらりくらりと追及をかわそうとする葵に、真紘は眉をひそめると、周りにできるだけ聞こえないように、声のトーンを落とした。
「昨日の……奏の、こと」
「……」
葵の美しい顔から、まるで波が引くかのように、その表情が一瞬にしてすっと消えた。そのあからさますぎる変化に、真紘は一瞬、心臓を冷たい手で掴まれたかのような感覚に陥る。
しかし、それはほんの一瞬のことだった。真紘のように長い付き合いでなければ、また彼女の顔を凝視していなければ決して気づかなかったであろう、それほどまでに短い時間。
葵は満面の笑みを浮かべ、明るい声で答えた。
「何のことかしら」
この話はもう終わりだと、葵が言っている気がした。これ以上のことについてはもう、触れる気もなければ触れさせる気もない、と。
気を抜けば口をついて出てきそうになる、好奇心や不安を喉元で次々と抑え、真紘もまた無理に笑みを作ってみせた。
「ううん。なんでもない。とにかく、葵ちゃんが元気になったならよかった」
さぁ、もうお昼だから、ご飯にしよう。
努めて弾むような声を出せば、葵も無邪気にこくりとうなずく。
きっといずれ、葵も自分に話してくれる日が来るだろう。
『時期が来たら、話すわ』
ずっと前に葵が言った言葉を、真紘は信じている。
彼女はどんな約束事も、ちゃんと守ってくれる。決して、裏切るような人間ではない。きっと、約束を果たしてくれる日が来るはずだ。
その日まで、真紘はいつまでも待つつもりだった。
たとえそれが何年も、何十年も後のことだったとしても。
◆◆◆
その日の帰り、葵とともに立ち寄った図書館で、真紘は近隣の女子高と思しきワンピース調の制服を着た、とある小柄な黒髪の女子生徒らしき後姿を目にした。
彼女が通っている(おそらくそうであろう)某女子高は、このあたりでも屈指のお嬢様学校だ。確か、図書館や病院などをはじめとした、学校付属の個別設備をいくつか持っているはず。
だからこそ、彼女の姿はどうにも異様に映った。地方のこの図書館よりも、某女子高にある付属図書館の方が格段に広く、本の品揃えもいい。他の設備もまた然り。そのため、某女子高の生徒たちをこの近隣で見かけることはまずなかった。
それだけでも、真紘の目には特別に映るのだが……。
「あら」
傍らの葵が、何かに気付いたように声を上げた。
「どうしたの」
尋ねてみると、葵は僅かに爪先立ちになり、つややかなピンクの唇を真紘の耳元へと寄せた。そのまま内緒話のように、こっそりと話す。
「確か、あの子は――……」
葵の口から語られた話の内容に、真紘が目を見開く。その時、ちょうどいいタイミングで女子生徒が振り返った。まだ中学生のようにも見える、あどけない童顔が印象的な少女だ。黒く大きな瞳に二人の姿を映すと、あっ、と声が聞こえてきそうなほど――いや、実際そう言っていたのかもしれないが――その童顔にありありとした驚愕の色を浮かべた。反応を見る限り、どうやら向こう
対処に迷い、とっさに葵と目配せし合っていると、予想外なことにあちらの方からアクションを起こしてきた。神妙な顔つきで近づいてくると、意を決したように顔を上げ、二人の顔を見比べる。
そして、どこか緊張したような、か細い声で彼女は言った。
「あの……お二方は、花村優羽くんのお友達ですよね。雪宮真紘さんと、泉水葵さん」
彼女が自分たちのフルネームを知っていたことに内心驚愕しながらも、二人そろって同時にうなずいてみせれば、少女はほんの少しだけホッとしたように表情を緩める。
それから膝丈までのスカートの裾を控えめにつまむと、気取ったように――それがお嬢様学校に通う彼女たちの、普段の挨拶なのだろう――深々と芝居がかった礼をしてみせた。
「申し遅れました。初めまして、あたしは風早桜香といいます。優羽くんの、いわゆるセックスフレンドというものです」
少女――風早桜香が恥じらいもなくさらりとそんな言葉を口にしたことに、真紘は思わず頬を染めた。葵の方も面食らったように、まじまじと桜香を見つめている。
しかし当人は自らの発言による効果をまるでわかっていないらしく、二人の反応を見てきょとんとしている。
「あの……どうか、なされました?」
「いや……」
「いいえ、なんでも……」
顔を見合わせ、引きつった苦笑を浮かべながら、真紘と葵はおそらく、互いに同じことを考えていた……と思う。
――この子にセックスフレンドなんてとんでもない言葉を教えたのは、確実にお前だろ、優羽。
『少し、お話したいことがあるんです。お時間、よろしいですか』
その後二人は、おっとりとした調子から急に真剣な顔つきになった桜香によって、そう引き止められた。このような展開になることを何となく予想していた二人は、おとなしく館内の四人掛けテーブルに隣同士で腰を下ろすと、先に野暮用を済ませたいという桜香を待つ。
「とんだ掘り出し物ね、真紘ちゃん」
葵が、悪戯っぽい目をこちらに向けて囁く。
掘り出し物、という表現自体はともかくとして、真紘も確かに今の状況については非常に『ついているな』と感じていた。
いくら身体の関係を持つ不特定多数の女子の一人とはいっても、あの少女はもはや優羽の関係者といっても過言ではない。自分や玲の知らない彼のことを、少しぐらいは聞き出すことが可能かもしれないと思ったからだ。
優羽はあまり、自分自身のことについては話そうとしない。仮に話したとしても、冗談に紛れさせるか、冗談に聞こえるように話すかのどちらかだ。
もっと平たく言えば、彼は本音を語らない。表向きは身近で人懐っこく、人望も厚いように見えるが……その心の奥底だけは、真紘や玲などの親しい人間にも、決して覗かせはしない。決して、さらけ出そうとはしない。
花村優羽とは、そんな少年だった。
きっと玲は、ある意味秘密主義な彼のそういうところに惹かれたのだ。
そう考えると、優羽のような性質を一切持たない真紘はひどく苦しい気持ちになった。
きっとどう足掻いたって、玲は自分のことを好きになってなどくれない。玲にとって特別なのは、ずっと優羽なのだ――……。
気持ちが沈みそうになって、思わずうつむき唇を噛む。
「真紘ちゃん……」
真紘の気持ちを察したのか、葵が気がかりそうに真紘の顔を覗き込む。
その時ちょうど、桜香が戻ってきた。
「ごめんなさい、お待たせして……あら」
二人が至近距離で顔を寄せ合っているのを見て、桜香がポッと恥ずかしそうに頬を染める。
「何だか、お邪魔みたいですね。あたし」
「え……あぁ」
「お構いなく」
桜香に気付いたらしい葵が、ごく自然な仕草で真紘から顔を離す。真紘も怖いくらい冷静な気持ちで、その様子を視界に留めていた。
二人は恋人同士というスタンスを演じながらも、互いに恋愛感情など欠片も持たないことをとっくに知っていたし、そういう関係にも決してなりえないと分かっていた。だからこそ、こんな風にやたらと冷静な対処ができるのかもしれない。
二人の淡々とした様子に、桜香はしばし驚いたように目をぱちくりとさせたが、恥ずかしがっているのだろうとでも解釈したのか、ふと知的なまなざしを浮かべ、こくりとうなずいた。
「ところで、風早さん……だっけ」
「はい?」
真紘が小首をかしげると、桜香も同じように小首を傾げてみせた。
そんな二人の姿を交互に見ながら、葵が小さく「あぁ、なるほどね」と呟き、うなずく。だがその声は、真紘には正しく届かなかった。
「葵ちゃん、なんか言った?」
「いいえ」
穏やかに、葵が微笑む。何か訳知り顔のようにも見えたが、今そのことは関係ないと思い直し、真紘は桜香に再び向き直った。
「俺たちに話したいことって、何?」
「はい、そのことなのですが」
桜香は改まったように真顔になると、もったいぶるようにゆっくりと歩を進める。そして、真紘の向かいの椅子を引き、そこに腰を下ろした。
「実は……お話ししたいというというより、こちらが聞きたいことって言った方が正しいんですけど」
「「聞きたいこと?」」
真紘と葵が同時に口にするのに、桜香が重々しくうなずく。
「はい。勝手なんですけど、優羽くんのことをいろいろ知りたいなって思っていまして。あたしはこの通り学校も違うし、普段の彼を何も知らないから」
真紘は思わず目をぱちくりとさせた。
つまり桜香も、自分と同じことを考えていたのだ。自分の知らない優羽のことを、自分とはまた違った付き合いをしている相手ならば知っているのではないか、と。
きっと真紘も桜香も、互いに相手の知らない優羽の姿を知っているのだろう。けれどたとえそれを合わせたとしても――互いの知る情報を交換したとしても、それでもきっと彼の本質はほとんど見えてこないのではないか……と真紘は考えた。
桜香がそれを聞いてくるということは、彼女も優羽の本心についてほとんど知らないということ。彼女はその手掛かりをつかみたくて、今回自分や葵に接触を図ったのだ。
普段は使用しないはずの、地方の図書館にわざわざ出向いてまで。
さて、どうしたものか……。
「あの……」
真紘が真剣な顔で何やら考え始めたことに不安を覚えたのか、桜香がおどおどと声を掛けてくる。
「真紘ちゃん」
「え、あ……ごめん。何?」
「何、じゃないわよ」
子供のようにぷくぅっと頬を膨らませた葵に、軽く頭をはたかれる。
「あなた、桜香ちゃんの話ちゃんと聞いてたわけ?」
「聞いてたよ。聞いてたからこそ考えてたんだ」
心外だ、というように真紘は答えた。
「俺が、風早さんにどんなことを教えられるか。そして……逆に、風早さんに教えて欲しいことも」
「あたしが……教えられることなんて、あるんでしょうか」
桜香が驚いたような顔で呟く。真紘は間髪入れずにうなずいた。
「俺や葵ちゃんが知っている優羽の姿と、君が知っている優羽の姿は、きっと違うと思うんだ」
「あたしたちじゃ、花村くんの夜のことなんて語れないものね」
苦笑気味に葵が続ける。つられたように桜香もクスクス、と笑った。
「確かにそうかもしれませんね。逆に、あたしじゃ平日の学校での優羽くんのことは語れませんし」
うんうん、と葵がうなずく。
「そういうことを語り合って、花村くんの本質が本当に見えるかはわからないけれど……何かの足掛かりには、なるかもしれないわ」
真紘ちゃんも、そう考えていたんでしょう?
先ほどまで考えていたことを葵にあっさりと言い当てられ、面食らいながらも真紘は反射的にうなずいた。
「そう……ですね」
桜香が納得したように小さくうなずく。それから顔を上げると、決心を固めたような意志の強い瞳で、真紘と葵の顔を順番に見ながら言った。
「じゃあ、あたしも優羽くんのこと、知ってること全部お話します。あたしが見ている優羽くんの姿と、あたしが彼についてどういう風に思っているのか……まぁ、言ってもほんの一部なんでしょうけれど」
「うん。俺も、君に優羽のこと知ってる限り話すよ」
――でも、優羽の好きな人のことについては、冷静な気持ちで答えられるかどうか分からないけれど……。
そう言おうとして、真紘は口をつぐむ。
自分は一体、何を言おうとしたのだろう。これでは……まるで、優羽に対して嫉妬しているみたいではないか。
「あの、雪宮くん?」
「真紘ちゃん」
二人に呼びかけられ、真紘はハッと我に返る。
「ごめん……何でもない」
「もう、しっかりして頂戴よね」
葵の茶化すようなその言葉に、桜香がおかしそうに笑う。真紘もまた、一緒になって笑った。
――葵はおそらく、自分が何を言おうとしたのか悟ったのだ。その上できっと、空気を変えるために冗談を口にしてくれた。
真紘は内心、葵に感謝した。
そんな彼の心情を知ってか知らずか、葵が机の上で頬杖をつき、目を細めながら桜香をじっと見つめる。桜香は自分が見られていることに居心地の悪さを感じているのか、おずおずと尋ねた。
「あの……泉水さん?」
「葵でいいわ」
「葵、さん……」
「なぁに?」
「あたしの顔に、何かついてますか」
葵は桜香から目を離さぬまま、笑みを深めて答える。
「似ているなぁ、って思って」
「「似ている?」」
真紘と桜香の声が揃う。それがおかしかったのか、葵は小さく声を上げて笑った。
「えぇ、似ているわ」
誰に、と尋ねるために口を開こうとした真紘よりも少し早く、葵はその答えとなる言葉を口にした。
「花村優羽の、好きな人に」
「……っ」
予想外の答えに、真紘は息を呑んだ。
似ている? 桜香が、優羽の好きな人――つまり、玲に?
桜香はどちらかというと表情豊かで、一見玲とは正反対に見える。だから一瞬、真紘はあれ? と思った。
けれど……。
先ほどから桜香が幾度か見せる真顔や、一度だけ見せた知的なまなざしを思い出す。もしかして……彼女は一見おっとりとしたお嬢様のように見えるけれど、本当は玲のように落ち着いた性格をしているのではないか?
そういうところが玲と重なると、葵は言っているのではないだろうか?
同調しようと口を開こうとしたところに、いつの間にやら立ち上がってこちらに――正確に言うと、葵の方に――身を乗り出していた桜香の、切羽詰まった声が重なった。
「ご存知なんですか? 優羽くんの、好きな人」
葵が小さくうなずく。
「えぇ……何となく、だけれど」
「そっか……だから、優羽くんは」
あたしを、選んだんだ。
そう呟いた桜香の黒い瞳に、一抹の寂しさが過ぎった。
「風早さん……」
「優羽くんには好きな人がいて、あたしはその人の身代わりにされているんだってことは何となく知ってました。でも……面と向かって言われちゃったら、やっぱりちょっと、ショックですね」
無理に笑おうとする桜香に、真紘はどうしようもない痛々しさを感じ、胸が苦しくなった。
彼女も、報われない恋をしているんだ。
「……報われないね」
真紘がポツリと口にすると、桜香は大きな目をさらに大きく見開く。それからゆっくりと哀しそうに表情をゆがめ、目を伏せた。
葵の方を見ると、彼女もまた自身の恋に想いを馳せているのか、両手を組んでうなだれていた。
ふぅ、と小さくため息をつくと、真紘もまた、決して振り向いてはくれない想い人のもとへと意識を巡らせた。
玲は今も、優羽のことを想っているのだろうか――……。
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