花・その2
ある日、優羽は個人的にどうにも引っかかる話を耳にした。
それは、優羽の想い人である雪宮真紘に関することだ。
この間の放課後、真紘は人気のない廊下で、女子生徒と二人きりになっていたという。しかも四六時中一緒にいるという、同じクラスの泉水葵ではない、別の女子生徒と。
しかも彼は、その女子生徒の頭を慈しむように撫でていたというのだ。とても切なそうな瞳を、彼女に対して向けながら。
また、その女子生徒はどうやら玲のクラスメイトであり、ついこの間彼に告白して玉砕したという彼女――松木梨生奈らしいということも、優羽は情報として掴んでいた。
真紘と梨生奈の間に、どのような会話があったのかは知らない。優羽自身も、本人に問い詰めようという気にはならなかった。
名目上彼女である葵になら、尋ねる権利があるだろう。けれど自分は、真紘にとって単なる友人の一人にすぎない。本来ならば、このような恋愛感情など、抱いていてはいけない立場だ。
では、梨生奈に聞けばいいのではないか……?
一瞬優羽は、そんなことを考えた。梨生奈とは昔少しだけ関係を持っていたことがあるため、接触を図ろうと思えば可能だ。
けれど……。
「梨生奈はどうも、俺のことを避けているらしいしなぁ……」
途方に暮れたように、優羽は独り呟く。
関係を切ってからというもの、梨生奈はあからさまに優羽のことを避けるようになっていた。自分に対してそういった気持ちがないというのは薄々感づいていたし、変な誤解を受けたくないのだろうということもまぁ理解できるが、それでもやはり傷つくものは傷つくわけで。
やはり彼女の気持ちを尊重するためにも、梨生奈には極力関わらない方がいいような気がする。
それに……彼らの会話の内容を聞いて、一体どうしようというのか。知ったところで、自分には所詮何もできないだろうし、余計に自分の心が傷つくだけかもしれないというのに。
真紘が何を想っていたのか、優羽は知らない。
けれど、その時彼が自らの想い人である玲のことを想っていたのであろうことだけは、少なからず悟っていた。
その時の状況を知ったところで――真紘の本当の想いを全て悟ったところで、結果優羽の心が傷つくことは目に見えている。
だったらいっそ、何も知らない方が賢明な気がした。たとえ今のような、ひどいモヤモヤがずっと心に燻り続けることになったとしても。
「結局、俺は悶々とするしかないわけかなぁ……」
優羽は諦めたように、がっくりと肩を落としたのだった。
◆◆◆
「はぁ、どうにも気分が乗らないなぁ」
もうすぐ昼休みが終わり、五限目の授業が始まろうとしているのだが、こんな重苦しい気分では勉強などする気になれない。
優羽はあまり真面目でないにしろ、授業にはそれなりに出ている。そのため、サボりというものはほとんどしたことがないし、それまでしようともあまり思っていなかった。
けれど……。
「今日ぐらい、たまにはフケたっていいかなぁ」
傍からは非常に不謹慎にも聞こえるような言葉を口にすると、優羽は教室に向けていた足をくるりと方向転換した。
『屋上は鍵がかかってるから誰も入れないって言われてるけど、実は知る人ぞ知る秘密の抜け道があるんだよ』
そんなことを教えてくれたのは、かつて関係を持ったことのある女子生徒の一人だったと、優羽は記憶している。
まぁ、それが誰であったとしても、別にどうだっていいのだけれど。
「えーと……確か、こっちだったかな」
屋上に続く五階への、古びた埃っぽい階段を上っていくと、案の定そこには解放された気配など微塵もない屋上の入り口がある。どこか入れる場所はないだろうかと辺りをきょろきょろしていると、入り口から少し外れたところから、細い光が漏れているのを見つけた。
不思議に思いながら覗いてみると、あちこち蜘蛛の巣の張った、細い通り道が続いていた。多分ここが、前に聞いた『抜け道』なのだろうと、優羽はすぐに理解する。
薄暗く足場の悪い道を、幾度か躓きながらも少しずつ進んでいくと、やがて眩しい光が目に当たる。眩しさに一瞬目を瞑り、再び開けば、外気に当たったことにより風化した階段が数段見えた。
壊れはしないだろうかと、優羽らしくもなく内心びくびくしながら、恐る恐るというように階段に足を乗せる。見た目はボロボロだが案外丈夫だったそれを無事上りきると、広い空とコンクリートの床、そして薄いグレーの手すりが目の前に見えた。
そしてそこにはもう一つ、あるはずのない影が……。
「……先客かな」
誰にともなく呟けば、その影――見たところ、女子生徒のようだ――がゆっくりとこちらへ振り向いた。ひどく整ったその容姿は、太陽の光を背に受けたことでさらに幻想的に映る。優羽が思わず言葉を失いそうになる中、ぷっくりとした唇にどこか挑発的な弧を描き、女子生徒は口を開いた。
「あら、あなたは……真紘ちゃんのお友達の」
「……花村優羽」
自己紹介をしながら、どうやら真紘の知り合いらしい目の前の彼女の姿をまじまじと見つめる。別に一目惚れをしたとかそういうわけではないけれど、一瞬それと錯覚してしまうぐらいに、ひどく呼吸がしづらい。掠れた声が、唇から洩れた。
「君は……」
「あたしは泉水葵。知ってるかどうかは分からないけれど、一応、真紘ちゃんとはそれなりに交流があるのよ」
聞き覚えのある名前に、あぁ、と優羽は納得したような声を上げる。
学年一の……いや、学校一の美少女と噂されるその名は優羽も当然耳にしたことがあったし、真紘と四六時中一緒にいるという話も聞いていた。実際に二人が一緒にいるところも、幾度か目にしたことがある。
しかしこうして姿をきちんと目の当たりにしたのは、そういえば初めてだった。ましてやこんな風に、まともに口をきくことがあるなんて……。
泉水葵、と彼女の名前をおうむ返しのように繰り返せば、彼女――葵は満足したような笑みを見せた。
それにしても、彼女はどうしてここにいるのだろう。自分と同じように、彼女もまた、何かに苦しんだ結果として授業をすっぽかしているのだろうか。
短めのスカートから伸びる、白く華奢な足に視線を落とす。ローファーを履いた足の傍らに、恐らく申し訳程度の道具しか入っていないのであろう、ひしゃげた鞄が転がっていた。
「……泉水、」
「葵、でいいわ」
うわ言のように名を呼べば、間髪入れずにそう返され、優羽は内心動揺した。先ほどまで尋ねようと思って頭に残していたはずの問いも、その瞬間に全て吹き飛んでしまう。
女の下の名を呼ぶことなど、とっくに慣れたと思っていたのに。何となく彼女には、そういったものが似合わないような気がした。
今まで自分がこの腕に抱いてきた数多の女子とは、どこか一線を画したような……そう。まるで、届かない存在のような。
性別どころか、その根本的なタイプ自体、二人は全くもって違うはずなのに。それなのに、そういうところが何となく真紘を思い起こさせて……。
「真紘ちゃんのこと、考えているのね」
葵は少し笑った。一瞬その姿が
図星だよ、と答える代わりとして、優羽は自嘲気味に笑みを漏らした。
「わかってるんだろ。……俺が、真紘のことをどう思っているのか」
「えぇ、なんとなく」
葵が緩慢にうなずく。優羽から視線をそらすと、どこか焦点の合わない目を遠くに飛ばし、彼女は寂しげに微笑んだ。
「真紘ちゃんが、別の人に向けている感情を……あなたは、真紘ちゃんに対して向けているのよね」
辛いわね、と言って、彼女は視線を落とした。それは傍から見れば単に優羽への、そしてこの場にいない真紘への深い同情として投げかけられた言葉のようだが、優羽には不思議とそうは聞こえなかった。
優羽は昔から勘がいい。だからこの時も、おぼろげにではあるが察してしまっていた。
きっと彼女も、誰かに恋をしているのだ。
それも、ひどく不毛な恋を。
その相手が誰なのか、そしてどのような事情があるのか……その辺のことを、優羽が知る由はない。わざわざ勘ぐる気もなければ、詮索する気もさらさらない。ただ、本人が語りたいというのならば、思う存分語らせてあげればそれでいい――……。
そこまで考えて、そういえば、と優羽はふと思う。
真紘は、このことを知っているのだろうか?
真紘自身と同じように、彼女が恋をしているらしいことは、もしかしたら知っているかもしれない。けれど、彼女は自分の話を、真紘に対して事細かに聞かせているのだろうか?
……いや、聞くまでもない。恐らく答えはNOだ。
葵はおそらく、自分のことを誰にも言っていない。この先もきっと、表沙汰にするつもりは――それこそ、よっぽどのことでもない限りは――さらさらないのだろう。
「葵にも、想いを寄せている相手がいるのか」
明確な答えが返ってこないだろうことを知りながらも、優羽はどうしても確かめずにいられなかった。単に、同類が欲しいだけなのかもしれない。仲間を集めることで自分の想いを少しでも正当化して、安心したいだけなのかもしれない。
葵はその瞬間、ひどく寂しげな笑みを見せた。それは言葉にするまでもなく、優羽の問いに対する答えを如実に物語っていた。
小さく息を吸い、葵は答える。それは先ほどまでのはっきりとした物言いからは想像できないほどに、弱々しく消え入りそうな声だった。
「……あたしは、
一見解読不能なその遠回しの言葉には、葵がこれまで抱えてきたのであろう苦悩が――彼女の想いのすべてが、込められているようだった。
必死に絞り出すような言葉と、震える吐息を吐きだした後、葵は長い睫毛を伏せた。まるで自分の中からさまざまなものをシャットアウトし、必死に自身を守ろうとするかのように。
「そうか」
優羽はそれだけ答えた。それ以上彼女には答える気がないようだったし、優羽自身もそれ以上聞く気はなかったからだ。
話は済んだとばかりに、優羽はくるりと葵から背を向ける。屋上から立ち去ろうとする優羽の背に、葵は言葉を投げかけた。
「もう、これっきりかしら」
もう一度、話す機会が欲しい――そういうことだろうか。
その真意はともかくとして、葵の口から出た予想外の言葉に、優羽は思わず目を見開いた。
地面に広がるコンクリートに視線を落とすと、振り向かないまま優羽は苦笑気味に、茶化すように答える。
「何、君も俺のセフレになりたいの」
君みたいな極上の女なら、俺も大歓迎だけどね?
幾度繰り返したか分からない口説き文句――それでも今回は、本心からのものだが――を口にすると、ハッ、と小馬鹿にするような吐息交じりの声が返ってきた。
「冗談」
半ば予想通りの反応に、優羽はわざとらしく、そりゃ残念、と肩をすくめてみせる。そのまま優羽は、再び立ち去ろうと足を一歩前に出した。
が……。
でも、と囁くように聞こえてきた声に、優羽は足を止める。振り向くと、葵は穏やかに微笑みながらこちらを見ていた。背に太陽の光を受けていることもあって、その姿は神々しく、例えるならば地上に舞い降りてきた女神のようでもある。
葵はそのまま小首を傾げ、にっこりと笑ってみせた。
「話し相手になら、なってあげてもいいわよ」
フッ、と優羽は小さく笑う。
「話し相手、か」
まぁ、それもたまには悪くない。
優羽が持つ『女子とのつながり』は、大抵が『身体のつながり』だった。……いや、むしろそれだけ、と言った方が正しいかもしれない。『話し相手』として女子とかかわりを持つのはもちろん初めてだし、提案することもされることもこれまでなかった。
だからこそ優羽は、面白いと思った。
それに……葵とならば、身体ではない関係性を続けることも、きっと不可能ではないだろう。
むしろ、そうなる想像ができない。
自分の脳内に突如現れた、その『決してありえない』想像をまるで一蹴するように、優羽はもう一度笑った。
「いいよ。じゃあまた今度、もう一度話そうか」
「ありがとう」
心から嬉しそうに、屈託なく笑う葵に、優羽もつられて笑みを返す。
予期せず生まれた奇妙な友情とも呼ぶべき関係性に、それまで重苦しかったはずの優羽の気分はいつしか浮上していたのだった。
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