月・その2
秋月玲には好きな人がいる。
一体どこからそんな情報が作成され、流れ出て行ったのかは知らないが、いつの間にやらそんな噂がまことしやかに囁かれるようになっていた。
「こないだ玲に振られて、『好きな人がいるのか』って尋ねてきたっていう、あの女が……松木梨生奈が、広めたんじゃないのか」
この噂を知った幼馴染の鳥海奏は、憤慨しながらそう言っていた。
「俺も昨日あいつに、お前のことについて尋ねられた。知らないって言っといたけど、その他にも真紘や……ひょっとしたら優羽にも、同じことを尋ねるかもしれない」
警戒した方がいい、と奏は言っていたが……しかし玲にはどうしても、そうは思えなかった。もちろん女は時に嫉妬深く恐ろしいこともあるとは聞いているが、あの時の様子からそのような企みはまったくといっていいほど垣間見えなかった。それに、あのように純粋な想いを向けてくれていた彼女が、そんなことをするとは思えない。――いや、もしかしたら『思いたくない』というほうが正しいのかもしれないが。
こんな噂が出来上がったのは、きっとそれほど急なことでもないのだろう。玲がこれまでずっと、頑なに女子からの告白を拒み続けた結果だ。梨生奈のことがなくても、いずれは発生していただろう。
玲自身、そのような噂に対しては別に興味がなかった。あくまで誰かの推測に過ぎないし、それがどんな人間とまでは――また、その性別がどうとまでは――広まっていないようだったから。
周りが興味を抱いているのはあくまで玲自身ではなく、頑なに誰かと恋愛関係になることを拒んできたはずの彼の心を、射止めたのは一体誰なのかということ。
それを、玲はちゃんと知っていたのだ。
だからこそ玲は、彼の本心を唯一知る奏が、噂の流れを制止しようとするのをあえて制したのだ。そのせいで余計に騒ぎ立てられるのは、玲の望むところではなかったから。
玲の好きな人のことを、どれだけ他人に推測されようが構わない。それは所詮、真実とは違うものだから。本当のことを知っているのは他でもない自分自身と、そして自分と同じく『叶わない恋をしている』という奏だけ。
あとは……他人が好き勝手詮索してくるのを、適当にあしらっていればいい。そして今まで通り、自分の想いを隠し続けるだけ。
ただ、それだけのこと。
「ねぇ、秋月くんの好きなタイプってどんな人なの?」
――あぁ、今日もまた、何も知らないクラスメイトが色めきたったような視線をこちらへ向ける。
自分は真紘のように感情豊かでもなければ、優羽や奏のように意図的な笑顔を作ることもできない。自分が他人から感情を隠し、その心を――秘密を守り通すためには、怖いほどのポーカーフェイスを貫き通すぐらいしか方法はないのだ。
大きくため息をつきたい衝動に駆られながらも、玲はいつもの無表情で――しかし、その切れ長の目にはほんの少し悪戯っぽい光を宿しながら――淡々と答えた。
「秘密」
◆◆◆
――次の授業は、確か科学だったと思うのだが。
いや、科学で間違いないはずだ。何故なら、現在片腕を拘束されている玲も、その腕を引く張本人である奏も、同じように科学の教科書を手にしているのだから。
けれど真紘のクラスを通りかかり、たまたま目の合った真紘と立ち話をしたあとの奏が、授業が始まるからと言って無理に玲を連れて行ったのは、明らかに科学室の方向ではなかった。
玲たちのクラスと真紘のクラス、そして優羽のクラスがあるのは全て三階であり、彼らが向かうべき科学室は二階にある。そのため、本来なら階段を降りなければならないはずなのだ。
なのに奏は――そして玲は、本来降りるべき階段を上に行った。
「ちょ、奏……っ。科学室は、そっちじゃないだろ」
「……」
構わず、奏は階段を上り続ける。音楽室や視聴覚室のある四階を抜けて、さらに伸びる古びた階段を上っていく。
四階の上、つまり五階には――もはや、屋上しかない。
普段屋上には鍵がかかっているので、入れないはずなのだが……そういえば、と玲は思い出す。少し前に奏が『屋上に入るための抜け道があるんだ』と自慢気に語っていたことを。
奏はやがて鍵がかかった屋上の、入口から少し外れた所にある細い道を、玲の腕を掴んだままずんずんと早足で進んでいく。おそらくそこが、かつて奏の言っていた『抜け道』なのだ、と玲はすぐに納得した。
埃っぽく足場の悪い道を真っ直ぐに抜けていくと、やがて向こうの方から光が差し込んでいるのが見えた。おそらく、現在出ている太陽の光が漏れ出ているのだろう。
そこをくぐり、風化した階段を数段上ると、いとも簡単に屋上へと降り立つことができた。初めて見る風景に、玲は目をしばたたかせる。
こんな風景が、学校にあったのか……。
教室の窓から見るよりもずっと広い空が、頭上に広がる。頬に当たる風は心地よく、空気もいつもよりずっと美味しく感じる。それに、コンクリートの足場は案外悪くないし、日陰だってちゃんとある。案外この場所は快適かもしれない。
そんな感慨に浸る間もほとんどなく、奏は力なく玲の腕を放す。ようやく自由になった玲は、それでも逃げ出そうとはしないまま、本来なら現在使っているはずの科学の教科書を胸に抱えた。
奏は屋上の真ん中までとぼとぼと歩いていくと、うなだれるようにその場にしゃがみ込む。その一挙一動を、玲は息を詰めて見つめていた。
いつもおっとりと微笑み、どんな時でも柔らかな物腰だった奏。それでいて頑なにそのスタンスを崩さないところに、玲はいつも彼の芯の強さと、堂々とした態度を感じ取っていた。
その奏が――今まで誰にも、幼馴染であるはずの玲にさえ、弱さを見せなかった奏が、今現在彼の目の前で、憔悴しきった様子でうなだれている。そのことに玲は、どうしていいのかわからず、正直困惑していた。
ただ静かに、しゃがみ込む奏の側まで歩み寄り……彼の視線の高さに合わせて、同じようにしゃがみ込む。
そして玲は、辛抱強く待った。奏が、何かしらの行動を起こすことを。
かつて自身が優羽に対する狂おしいほどの想いと、その想い人である真紘のことについてひどく苦しんでいた時、奏が同じようにして気遣ってくれたように。
彼が抱えているものが何なのか、玲は詳しく知らない。
ただ……彼からは『叶わない恋をしている』とだけ聞かされていた。それはいっそ、不毛な恋とでも呼ぶべきほどのものなのだと。
本来ならばそれは、心に抱くことすらも、口にすることすらも『禁忌』なのだと――……。
「……幼いとき、」
十分ほど経った頃、ようやく奏はそれだけを口にした。玲はハッとして、その小さな、消え入りそうなほどの声に耳を凝らす。
うつむいたままなので、その表情は玲には見えない。けれどその肩が小刻みに震えていることや、コンクリートに落ちる雫などから、彼が泣いているのだということが分かった。
嗚咽を堪えながら、奏は少しずつ、絞りだすような声で話し出す。
「幼いとき……俺には、姉がいたんだ」
玲はわずかに目を見開いた。奏とは小学校時代からの付き合いだが、彼に兄弟がいたという話は聞いたことがなかったし、実際にそういった人間に会ったこともなかったからだ。
奏の家族は父親と母親だけで、兄弟はいなかったはずだ。あくまで玲の知る限りでは、だが。
「俺が小学校に入るとき、ちょうど両親が離婚した。父親に俺が、母親に姉が引き取られた。そのあと……そう、ちょうどお前と友達になった頃ぐらいに、うちの父親が再婚して、新しい母親が来たから……お前は俺のことを、あの両親の間に生まれた一人っ子なんだと思ってただろうけど」
そのとおりだ、と玲は思った。
奏の母親には、何度か会ったことがある。確かに奏にあまり似ていないとは思っていたものの、そのことについては誰も何も言わなかったし、そんな素振りも見せなかったから、まさか血が繋がっていないなんて知らなかった。
「それでも案外円満離婚だったから、離婚してからもちょくちょく父親と前の母親は友人として会ってた。もちろん俺も、姉も一緒に。だから俺も姉も、互いに知ってたんだ。自分には兄弟がいて、たまに会うあの子供がその兄弟なんだってことを」
けど……。
そう口にしたとき、奏の身体は先ほどよりずっと小刻みに震え始めた。頭を抱え、太陽の光を受けて金色に輝く髪の毛を掻き毟るように両手で掴む。その様子はまるで、罪を咎められ恐怖に震える犯罪者のようにも見えた。
「まさか俺が、その姉に……自分と同じ血を持つ彼女に、心惹かれる日が来るなんて思ってなかった。まさか彼女を姉でなく、一人の女としてしか見られなくなってしまう日が来るなんて」
奏がかつて『禁忌』と語ったのは、つまりそういうことだったのだ。
実の姉に恋愛感情を抱いてしまうことは、きっと同性を好きになることよりも罪深く、決してあってはならないことだから。
「どれだけ押さえつけようと思っても、彼女に対する家族愛を越えた想いは……どうしようもない愛おしさは、日に日に募るばかりで。もうどうしていいか、分からなくなって……なんで彼女は姉なんだろう、同じ両親の間に生まれた、血を分けた自分の姉弟なんだろう……って、神様を恨んだこともあった」
きっと離れて暮らしていたからこそ、奏の中にはその想いが如実に表れるようになってしまったのだろう。姉弟でありながら、当たり前のように姉弟として、同じ屋根の下で暮らすことができなかったから。
震える息を吐きながら、奏が苦しげに続ける。
「俺は無意識に、たまに会う彼女に対して冷たく当たるようになった。そのたびに彼女は、哀しげな目を俺に向けた。それが辛くて、また冷たく当たった。その繰り返しで……それからいつしか、俺は彼女を避けるようになった。一緒にいたら、また彼女を傷つけそうな気がしたし……さらに、彼女を愛してしまうと思ったから。なのに……それまで違う街の学校に通っていたはずの彼女が、まさか同じ高校にいたなんて」
奏は脱力するように息をつくと、また力なくうなだれた。同時に、玲は先ほど起こったことの全てを悟る。
奏の様子がおかしくなったのは、二人がたまたま真紘のクラスを通りかかった時のことだが、真紘と話していた時の奏はまだいつも通りだった。
そう、彼が本格的に取り乱したのは……真紘から視線を外し、偶然にもその傍らにいた少女に目をやった時。
彼女――泉水葵は真紘と同じクラスで、真紘と仲良くしているらしいと噂の美少女だ。玲も、真紘を通じて何度か話をしたことがある。
奏と同じく、彼女の容姿もまた、ひどく美しいと学校中の評判だ。異国のお姫様が物語の世界からそのまま出てきたような、まるで絵に描いたような精巧な容姿。
その特徴に、奏と似たものが多いということは、玲も確かに前から思っていた。美人はみんな特徴が似るものなのだろうと、あまり気に留めていなかったのだが。
けれど、改めて並んだ彼女と奏の姿を見た時、玲は思わず息を止めた。
だって二人の姿は、あまりにも――……。
「自分と
今の奏にはあまりにも酷な質問だろうと思ったものの、玲はどうしても尋ねずにいられなかった。
奏は体勢を変えぬまま、ひどく弱々しく、掠れた声で答えた。
「もしかしたら……とは思ってた。でも、実際に目の当たりにした事はなかったから、まさかとも思ってた。……そんなわけないって、絶対違うって、信じたかったんだ」
それが甘い見通しだとは、分かっていても……。
唸りに近い声でそう吐き出したあと、奏はさらに縮こまろうとする。そんな彼の身体を、玲はふわりと抱き締めた。
このようなことで、彼の苦しみが解き放たれるとはもちろん思っていない。それでも、どうしても玲は、苦しむ彼に対して何かしてあげられずにはいられなかった。
奏の柔らかな髪を撫で、震える丸くなった背中を、まるで眠りにつこうとする赤ん坊をあやすように、玲なりの優しさを込めて、幾度も叩く。
やがて奏はホッとしたのか、抑えていた嗚咽とともに、声を上げて泣き出し始めた。まるで、心に溜めてきたありったけの思いを、全て吐き出してしまうかのように。
玲は奏の気が済むまでずっと、彼の身体を抱き締めていた。
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