雪・その2

 真紘が友人であり、同性であるはずの玲や優羽に対する複雑な想いを抱きながらも、そのことをこれまで誰にも悟られることがなかったのは、彼がいわゆる『リア充』であるとの認識を周りから受けているからだった。

 真紘と玲、そして優羽はそれぞれ違うクラスに所属しているので、彼ら三人が学校内で絡んでいるのは主に朝と昼休み、そして放課後ぐらいのものだ。

 ではそれ以外の時間を、彼らはどのようにして過ごすのか。

 優羽は無論、言わずもがな。一人でいるどころか、むしろ隣に女子の姿がないことなどほぼ皆無に近いのだから。

 玲はもともと一匹狼のような所があるので、あまり交友関係が広いわけではない。だから真紘や優羽がいないときは、もっぱら幼馴染である鳥海奏と共に過ごしている。

 そして――真紘は人懐っこい性格なので、友人もそれなりに多い。だが不思議なことに、彼がいつも時間をともにする相手はいつも決まっていた。

「真紘ちゃん」

 真紘の席にやってきたのは、綺麗な顔立ちをした女子生徒。しなやかな身体つきと透明感のある白い肌、そして目鼻立ちのはっきりとした顔と、その周りを囲む色素の薄いふんわりとした髪。比喩でも何でもなく、本当に異国のお姫様によく似た容姿をした少女だった。

 そんな彼女はその場にいるだけでもひどく目立つし、嫌でも人目を引く。彼女が存在するだけで、その場所がパッと華やぐようでもあった。

 真紘は振り向くと、笑顔で彼女に応えた。

「葵ちゃん」

 葵と呼ばれた女子生徒――泉水葵はにっこりと、艶やかに笑った。それからもう一度、まるで念を押すかのように真紘を呼ぶ。

「ね、真紘ちゃん」

 葵が真紘のことをちゃん付けで呼ぶのは、二人が知り合ったときからずっとだった。初めは真紘も女の子みたいで嫌だと主張したのだが、

『だって、実際女の子みたいな名前じゃない。顔だって、男の子には見えないわよ』

 と、しれっと彼が気にしていることを言われてしまった。

 それからも改善する気はまるでないらしく、ずっと『真紘ちゃん』という呼び方を変えないため、真紘もとうとう諦めて放任することにしたのである。

 葵は笑顔のまま人差し指をぷっくりと色づいた唇に押し当てると、小首を傾げてみせた。その甘えたような仕草が、周りを翻弄する小悪魔を思わせる。

「英語の宿題、やってきた?」

「一応ね」

「答え合わせさせてもらってもいいかしら。今日、当たるみたいなのよね」

「いいけど……丸写しはなしだからね」

「分かってるわよ」

「どうだか」

 言いながら葵は、自分の席から真紘の席へと椅子を引っ張ってくる。そこに腰掛けると、真紘の席に自らのノートを開いた。

 中身を見た真紘が、目を丸くする。

「あれ、今日は珍しくやってきたんだ」

「言ったじゃない」

 やる時はやるのよ、と軽く胸を反らしてみせる葵に、真紘は苦笑した。

「相変わらずラブラブだね、あの二人」

「ホント。泉水さんは言わずもがなだけど、雪宮も結構イケメンだし……何気お似合いだよね」

 周りから聞こえるそんな会話を背に、二人は仲睦まじく話し込む。まるで本物・・の恋人同士のように。

 授業が始まるまでまだ少し時間があったので、真紘は英語のノートを眺める葵と雑談でもしようと口を開きかけた。

 と、そのとき。

 教室の外、つまり廊下を、玲が同じクラスの友人と並んで歩いているのを見つけた。移動教室なのであろうか、二人とも科学の教科書らしきものを手にしている。

 真紘は無意識に、玲の姿を目で追っていたのだが……偶然にも彼の席は廊下側に近かったため、通り過ぎようとする玲とばっちり目が合ってしまった。

「……よう、玲」

「おう」

 気まずさを必死に誤魔化すように、笑顔を作って玲に話し掛ければ、いつもの通りそっけない返事が返ってきた。別に真紘を嫌っているわけではなくて、彼はもとからこういう質なのだ。

 それから真紘は、玲の隣にいる、ひどく綺麗な顔をした男子生徒にも声をかけた。

「奏」

「真紘! 久しぶり」

 一瞬だけ目を大きく見開いた後、いつものおっとりした話しぶりと穏やかな笑顔で、男子生徒――鳥海奏は真紘に応じる。奏は玲のクラスメイトであり幼馴染でもあるので当然ながら仲がいいし、玲を通して真紘ともそれなりに仲がよかった。

 だが……。

「「!」」

 真紘の傍らに視線を滑らせた奏が、一瞬不自然にその顔を強張らせた。真紘が彼の視線の先を振り向けば、そこにいて先ほどまで真紘と話をしていた葵もまた、奏を見て表情を強張らせている。

 周りから見ても、その姿は異様と呼ぶべきものだった。

「「……」」

 視線を絡めはするものの、二人はどちらも決して口を開こうとしない。……いや、開けない、と言った方が正しいのかもしれない。

 やがて奏が、すっと目をそらした。何事もなかったかのように玲のほうへ向き直ると、にっこりと笑う。

「行こう、玲。授業が始まっちゃうよ」

「あ、あぁ……そう、だな」

 玲も空気を呼んだようで、少々表情を引きつらせながらも答える。

 これ以上この場にいたくないとでも言うように、無理に玲の腕を引いて歩き出す奏。玲は戸惑いながらも決して抗いはせず、「じゃあな、真紘」とだけ声を掛けると、そのまま奏に引っ張られて行ってしまった。

「あっちの方向は、科学室とは正反対なのに」

 呟きながら、真紘は難しい表情で去り行く二人の姿をしばし見送っていたが、やがて緩慢な仕草で振り向くと、葵に声を掛けた。

「……葵ちゃん、授業始まるよ」

「え……えぇ」

 どこか上の空で、葵が答える。いつも色白であるその顔は、血の気を失って青白くなっていた。

「……今の見た? なんか、すっげぇ空気だったよな」

「泉水さんと鳥海くんって、仲悪いのかな」

「さぁ……。でも不思議だよね。二人とも同じぐらい整った顔してるんだから、並んだらきっと美男美女なのに」

「きっと色々あるんだって」

 クラスメイト達が好き勝手に話しているのを耳にしながら、どこか危なげな足取りで自分の席へと戻っていく葵の背中を、真紘は心配そうな表情で見送っていた。


    ◆◆◆


 結局その後、葵は体調不良で保健室へ行き、そのまま早退した。

 奏の話を持ち出したり、彼自身と顔を合わせたりすることを、葵は極端なまでに嫌っていた。それこそ、周りに誤魔化しがきかないほどに。

 一度理由を聞いたことがあったが、葵はその時も顔色を悪くし、気まずそうに目をそらした。それから長い睫毛を伏せ、ポツリと一言、

『……今はまだ、真紘ちゃんにも言えないの』

 と、暗い声で答えただけで、それ以上の事を教えてもらえたことはこれまで一度もなかった。

 何か、訳があるらしい。真紘の抱えている秘密とは比べものにならないような――それこそ、深い仲であるはずの真紘にも打ち明けられないような何かを、彼女はきっと抱えているのだろう。そしてそれはきっと、奏も同じだ。

 そういえば、と真紘は思う。

 あの時、初めて葵と奏が揃っているのを見たとき。真紘は思わず、息を呑んでしまった。

 そう。二人の容姿は、どちらも・・・・美しいと噂で――……。

「――あぁ、もう。わかんないや」

 そこまで思考を巡らせてはみたものの、いいかげん考えるのが面倒臭くなった真紘は、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。


 ――報われない恋をしている、と葵はかつて真紘に言った。

 だからこそ真紘は葵のことを仲間だと思ったし、葵もまた真紘を仲間だと認めてくれた。詳細は話してくれなかったけれど、それだけでも真紘は十分だと思った。

 自分のこの想いを、理解してくれる人がいると――それがわかっているだけでも、真紘にとっては十分救いになったから。

 きっと時期が来れば、葵が自分から話してくれるだろう。もし一生話す気がないというのなら、それでもいい。どちらにしろ、真紘には無理に詮索する気はなかった。

 それが、今の葵にとって最善のことであるというならば。

 葵が最善だと思うことであれば、真紘はどのようなことでも受け入れるつもりでいる。

 恋愛感情を抱いている訳でもないし、友達とも少し違うけれど、それでも真紘にとって葵が大切な存在であることに変わりはなかった。

 真紘の想いを唯一知る、理解者として。


 その日の放課後。

 葵が早退したため、いつもより早い時間ではあるけれど、玲や優羽のところへでも行こうか……と思いながら真紘が廊下を歩いていると、真紘の前に一人の女子生徒が現れた。

「雪宮真紘くん、だよね」

「ん? そうだけど……君は?」

「あ、ごめんね。自己紹介がまだだった」

 照れたようにぺろりと舌を出すと、女子生徒は「改めまして」と言いながら少々儀式めいたお辞儀をした。

「わたしの名前は、松木まつき梨生奈りおな。秋月君と同じクラスよ。よろしくね」

「松木さん、か。よろしく。……ところで、何か用?」

 もちろん彼女とは初対面であるし、向こうもわざわざ確認を取ったことから真紘のことはほぼ知らないらしい。いくら友人である玲と同じクラスだからといっても、一体自分に何の用があるというのだろう。

 そう疑問に思っていると、女子生徒――松木梨生奈は迷うように辺りをキョロキョロしながら、恐る恐る口を開いた。

「あの……いつも一緒にいる女の子は、今日はいないの?」

「あぁ、葵ちゃんのこと? 彼女なら早退したから、今日は俺一人だよ」

 安心させるように笑顔を作ってそう答えると、梨生奈はホッとしたように強張っていた身体の力を少し抜いた。

「じゃあ、これから少し時間ある? ちょっと、お話したいことがあるの」

「話?」

「うん」

 言いながら、もう一度辺りをうかがうようにキョロキョロと視線を彷徨わせる。幸い、現在この辺りには真紘と梨生奈の二人だけしかいなかった。そのことにもう一度ホッと息をつくと、梨生奈はそれでも警戒するように声をひそめ、真紘に向けてこう尋ねてきた。

「あのね……雪宮くんって、秋月くんと仲いいでしょ」

「玲と? うん、まぁ……」

「じゃあ、秋月くんに好きな人がいるって話とか……それが誰かとか、そういう話って聞いたことある?」

 瞬間、真紘は身体を強張らせた。

 もちろん普段から彼とは――無論、優羽を交えても――そんな話をした事はない。何となく彼らの中で、そういった色恋の話は腫れ物を扱うように避けられてきたからだ(優羽の女にだらしないというネタ話は別として)。

 けれど、玲に好きな人がいるのかという問いには――また、それが誰であるかという問いには――真紘はおそらく自身満々に、確信を持って答えることができるだろう。実際、真紘は今すぐ叫びだしたくてたまらなかった。

 玲の想い人は、同じ男で……そして、友人で。

 そしてきっと、彼らは両想いなんだと。互いの恋心にいまだ気付いていないだけで、彼ら二人は繋がっているんだと。

 いったんそう考えてしまえば、そのまま全てぶちまけてしまいたいような衝動に駆られる。それを知りたがっている、目の前の女子生徒――梨生奈に対して、今すぐ暴露してやろうかとも一瞬考えた。

 けど……。

「……俺は、玲とそういう話しないから。もちろん、優羽とも」

 視線を落とし、暗い声でそう答えていた。

 梨生奈は落胆したように、そっか……とだけ呟いた。けれどまだ、どこか諦めきれない様子で真紘に詰め寄ると、真剣な声で

「秋月くんに好きな人がいるとしたら、それは誰だと思う?」

 と尋ねる。

 それでも真紘はきっぱりと、

「わかんないよ。玲がそういうことに興味あるなんて、むしろ初耳」

 と、ひどくひんやりとした響きで即答した。

「俺よりも、奏の方が知ってると思うよ。玲と同じクラスだし」

「でも、鳥海くんは教えてくれなかったもん……」

「じゃあ、諦めた方がいいかもよ。第一、人の好きな人を知ったところで、君は何をするつもりなの。嫌がらせ? そういうことに加担する気は、残念ながらないから」

「……っ」

 梨生奈は悔しそうに、それでいてどこか哀しそうに、ぐっと唇を噛んだ。それから絞りだすような声で、

「ごめんね。わたしはただ……どうしても、秋月くんが誰を想っているのか、知りたかったの。それだけのつもり、だった」

 とだけ言った。

 その悲痛な声を聞いていると、だんだん可哀想になってきた。真紘だって、好きな人がどんな人間を見ているのかを知りたいと思う気持ちは、十分すぎるほど理解できるのに。

「こっちこそ、突き放すようなこと言ってごめん」

 真紘もまた、梨生奈に対して謝っていた。彼女は目に涙を浮かべながらも、微笑みながらふるふると首を横に振る。

「ううん。よく考えてみれば、こういうこと聞いちゃうわたしのほうが非常識なんだもんね。雪宮くんが気を悪くしても、おかしくない」

 真紘も力なく首を横に振る。

 真紘が嫌な気分になったのは、彼女が原因なのではない。自分の心に燻る、あってはならないはずの想いが、真紘を意地悪な気持ちにしただけのことだった。

 全て、自分が招いたこと。

 なのに自分は、何の関係もないはずの梨生奈に対して、八つ当たりまがいのことをしてしまったのだ。

 うつむきながら身体を小刻みに震わせる梨生奈の、自分よりも少し下に位置するその頭を、真紘はぽふぽふと軽く叩いた。彼女は一瞬身を竦ませたが、そのどこか暖かく優しい感触にほだされたのか、それ以降はされるがままになる。

 真紘はその瞳に痛みと苦しみを、そしてその手には同情と哀れみを宿しながら、梨生奈が落ち着いて自分から動くまでずっと、彼女の頭をぽふぽふ叩き続けていたのだった。

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