花・その1
寂しさを紛らわすため、でもあったかもしれない。
今となっては直接の原因もほとんど忘れかけているものの、何が理由であろうが、とにかく何かに頼りたかったことは事実だった。できるだけ、何も考えたくなどなかったのだ。
花村優羽はほぼ毎日のように遊び歩いては、それこそ花の蜜を求める蝶のように、花から花へと――女から女へと次々に渡り歩き、毎回違う身体を腕に抱くという日常を送っていた。
こんな毎日を送る息子を、両親はもはやいつものことだと放任している。別に愛されていないとか、そういうわけではないけれど……それでもなんとなく寂しい気持ちになってしまうのは、仕方がないことだと思う。
何をしても、満たされない……。
自分の部屋ではない場所で、ダブルベッドに横たわっていた優羽は、傍らにいる柔らかく温かで華奢な身体に腕を回すと、どこか苦しげに……溢れ出そうになる想いを必死で押さえ込むかのように、ぐっと唇を噛んだ。
「――どうしたの、優羽くん」
異変に気付いたのだろうか、優羽に抱かれている少女――
その健気な姿が
「なんでもないよ、桜香」
薄桃色の枕にゆったりと広がる桜香の柔らかな黒髪を、慈しむように梳いてやる。剥き出しになった耳たぶを軽く食んでやると、桜香は「ひゃ」という可愛らしい声を上げた。
「ねぇ……もう少し、一緒にいてくれる?」
桜香の上気した頬にひんやりとした己の手を添え、至近距離でそう囁けば、桜香は潤んだ瞳をこちらに向け、こくりと頷いた。
◆◆◆
翌日。
いつも以上に人肌が恋しかったのか、結局昨日は一晩中桜香を手放さなかった。桜香もそれを受け入れてくれていたから、すっかり甘えてしまったけれど……彼女に酷い負担をかけさせてしまったかもしれないと、今さらながら反省する。
欠伸をかみ殺しながら、ともかく授業が始まるまでにはぼうっとしている頭を元に戻さないと……と、優羽はぼんやり考えていた。
すると、いきなり後ろからドンッ、という衝撃がきた。いつにもましてフラフラしている優羽は、危うく倒れそうになるところだった。
目を丸くして振り返ってみれば、そこには友人である真紘が、その女顔――と言うと、気にしているらしく本人はたいそう拗ねてしまうのだが――にニヤニヤと嫌味たらしい笑みを浮かべて立っていた。
「いつもの仕返しだよ、バーカ」
へへん、とガキ大将の如く笑う真紘に、優羽は恨めしげな視線を向けながらむぅ、と唇を尖らせてみせる。
「俺はいつも、もっと優しく突進してあげてんじゃんか」
「突進の時点で優しくねぇだろが」
いつの間にいたのか、真紘の反対側に無表情――もとい、玲が現れる。何だよー、と言いながら、優羽はいつも通り、玲の肩に絡みつくようにして腕を置いてやった。
玲の身体が強張ったことにも、真紘の眉間が苦しそうに寄ったことにも、気付いていながら知らないフリをする。
何もかもを誤魔化すように、優羽は大きな欠伸を一つした。
「っていうかもうね、今日は眠いの……ホンットに」
「また昨日も、女の子の所に行ってたんだろ? まったく……優羽は相変わらずなんだから」
「ちょ、真紘ぉ、何で分かるの」
「それほどお前の行動パターンは読みやすいってことだろ」
「玲まで、酷いなぁ。俺は毎日女を抱いてる訳じゃないもん。せいぜい週五ぐらいだもん」
「「十分だろうが」」
「ユニゾンされるのは何気傷つくんだけど!!」
三人で過ごす時間は、優羽にとって何より落ち着くひとときだ。こんな時間がずっと続けばいいと、心から思っている。
けれど、優羽は分かっていた。この時間は、自分も含めた三人の本心をそれぞれ押さえ込むことで成り立っているのだと。
自分たち三人がそれぞれ胸に閉まっている感情の、どれか一つでも明るみに出てしまえば、この関係はたちまち崩れ去ってしまう。このままでいて欲しいと、誰もがどれだけ願ったとしても……きっといずれ、そんな日は来てしまうのだろう。
自分たちは、ただの友人同士であったはずなのに。周りから仲良し三人組と呼ばれているように、清い関係性でしか繋がっていなかったはずなのに。
なのにどうして、こんなことになってしまったのか。
自問するも、当然明確な答えなど返ってくるはずはない。
どんどん暗がりに引きずり込まれていく感情を無理に忘れようとするように、優羽はひときわ大きな声で、無邪気に笑ってみせた。
◆◆◆
「もしもし、昨日はありがとう。大丈夫だった?」
自室のベッドに横たわりながら、優羽は昨日一晩中自分のわがままを聞いてくれた優しい少女――桜香に電話を掛けていた。
『平気だよ。こっちこそ、気遣ってくれてありがとう』
受話器の向こうから聞こえてくる声は、明るい。彼女とは何度か関係を持っているけれど、その声や笑顔にはたびたび癒しをもらっていた。
多分、自惚れとかじゃなくて、彼女は自分に好意を持ってくれている。本音を言えば優羽自身も、彼女に対してはわりと好意的な感情を持っていた。
けれどそれは、恋愛感情じゃない……。
「ごめんね……」
好きになれなくて、ごめんね。
気付けば、弱々しい声が漏れていた。彼のそんな声を聞いたのは初めてだったのだろう、桜香が息を呑むような音が聞こえてくる。
『大丈夫だよ』
風がその頬を撫でるような、優しい声が優羽の耳に届いた。
『優羽くんが他の人を好きなのは知ってる。その人が振り向いてくれないから寂しくて、あたしや他の女の子を慰めにしているんだよね。そうでもしなきゃ、優羽くんは苦しくて仕方ないんだよね』
優羽は両目を閉じ、その上に手のひらを乗せながら、彼女の言葉を聞いていた。時折相槌を打ってみるものの、その声は情けないくらい掠れてしまったものになっている。
変わらぬ穏やかなトーンで、声は――桜香は続けた。
『あたしは、それでもいいと思ってるの。それで優羽くんの苦しみが、少しでもまぎれるなら。少しでも、優羽くんが笑顔になってくれるなら、それで』
「……ありがとう」
ホッとした優羽は、先ほどより多少はマシになった声で囁いた。クスッ、と桜香が笑ったのが分かる。
『今日は、他の人のところへ行ってるの?』
「いや……どこにも行ってない。家にいる」
『あたし、今日も付き合おうか?』
「疲れたから、今日はもう寝る。二日も桜香を拘束するわけにはいかないし……それに今日は、一人になりたいんだ」
『寂しがり屋の優羽くんにしては、珍しいね』
「……なかなか、言うようになったじゃん」
『ふふ。……じゃあ、もう切るね。お休み、優羽くん。いい夢を』
「ありがとう。お休み、桜香」
電話を切り、どこかに放り投げる。柔らかなベッドの枕もとの辺りで、それはぽうんと跳ねた。その様子を見届けた優羽はごろりと身体の向きを変え、うつ伏せになった。
軽く目を閉じ、思考を断ち切ろうと試みるものの、考えたくもないはずの余計な想いが、脳裏に浮かんでは消える。それは普段なら隠し通せているはずの、行き場のない、どうしようもなく遠く馬鹿げた想い。
今のままでいられるなら、きっとそれは幸せなのだろう。
――表向きは。
傍観者がどれほど『幸せそう』と思っても、当の本人たちがそうでなければ意味がない。幸せはあくまで人が測るものではなくて、当人達が測るべきものなのだ。
優羽は深くため息をついた。もう一度ごろりと身体の向きを変え、今度は仰向けになる。見慣れた自室の天井が、目の前に空しく広がった。
優羽には昔から、人より勘の鋭いところがあった。別にエスパーというわけではないけれど、人の顔色や瞳を少し見るだけで、その人が何を考えているのかが大体分かってしまう。そしてそれは、どういうわけだか十中八九的中していた。
だからこそ、と言うべきか。優羽はいつも、知らなくていいことまで悟ってしまうことが多かった。
そして、今回も……。
友人であったはずの雪宮真紘は、同じく友人であったはずの――しかも同性の――秋月玲に、恋愛感情を抱いている。
それなのに、どうも玲は優羽に想いを寄せているらしい。もちろん初めは酷い自惚れだと思ったものの、日々を重ねていくうちにそれは徐々に確信へと変わっていった。
玲のことは、嫌いなわけじゃない。むしろ彼に対しても好意的なものは抱いているし、大切な存在ではある。けれどきっとその思いは、恋愛感情になど一生かかってもならない。
玲を見つめる真紘の切なげな瞳と、辛そうに寄る眉。自分を見つめる玲の、狂おしそうな思いが宿った瞳。
そして、自分は――……。
「ごめんな、真紘……」
いつも腕に抱く女の子よりもずっと無機質で、ひどくひんやりとした枕を強く抱き締めながら、優羽は呟く。
優羽自身にも、想いを寄せる相手がいた。決して手には入らない、本来ならばこんな感情を抱いてはいけないはずの、たった一人の相手。その面影を追うように、また打ち消そうとするかのように、優羽はほぼ毎日のようにフラフラと出歩いては、次々と違う相手をその腕に抱いていた。
本当に手に入れたいものはきっと、一生かかってもこの腕に抱くことができないから……。
無理に手に入れればいい、ともう一人の自分が囁く。それはできない、と優羽は強く首を振った。
「あいつを、傷つけたくないんだ」
あいつには――真紘には、いつでも笑っていて欲しいから。
シミ一つない綺麗な童顔と、女のように華奢な身体。くるくるとよく動く瞳は、周りの光を受けてキラリと光る。無邪気に笑う真紘の姿は、優羽にとって眩しく映るものだった。
自分とは違う、純真無垢な真紘。
だからこそ、傷つけたくない。ずっとずっと、笑っていて欲しい。
だけど……。
「あーあ、ホントに……報われないよな、俺たちは」
呟いた言葉は誰にも届かないまま、無機質な天井へと吸い込まれるようにして消えていった。
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