水・その4
それは、偶然知ってしまったことで……あまりにも残酷に突きつけられた、現実の一つだった。
決して知りたくなかったし、そんなことが現実になるなんて考えもしなかった……いや、考えたくなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
いくらそう遠くない場所とはいえ、葵の現在住む家――泉水家は、鳥海家よりも四、五駅ほど離れた町にある。高校なんて他にいくらでもあったし、別にどこでも選べたのだ。彼にとっても、同じはず。
それなのにどうして、よりによって……進学した先の高校に、これまでずっと頑なに避け続けていたはずの――避けられ続けていたはずの、あなたがいるの?
クラスが違うことだけが唯一の救いだったけれど……それでも同じ学校にいる限り、評判なんてこの耳にいくらでも入ってくるものだ。
白くきめ細かい肌と、スラリとした理想的な体躯。色素の薄い髪をキラキラと靡かせ、色づいた薄い唇を上品に緩めて穏やかに笑う。一つ一つの仕草すらも見惚れてしまうほどに、整った容姿の男子生徒――通称『白馬の王子様』と呼ばれている、その人が誰なのかくらい、葵にだってわかっていた。
そして、そんな彼と同じ血を持つ自分もまた、同じようにこの学校の有名人になっているということも――……。
奏もきっと、噂を聞いているはず。薄々、感づいてはいるはずだ。
それで、辛い思いをしているかもしれない。いくら間接的であっても、自分は奏をいまだに苦しめている。
だからと言って、女手一つでこれまで葵を育て、この高校の学費を出してくれている母親を裏切るわけにもいかない。
結局、自分にできることといったら――……奏をこれまで以上に避け、頑なにその姿を見せないようにすることだけだろう。奏を傷つけないために。そして何より、自分が傷つかないために。
そう、思ったから。
だからあの日、互いに秘密を共有し合った相手である真紘に協力を要請したのだ。
鳥海奏を避けてくれ、と。
詳しいことは、まだ話せない――そう葵が言えば、真紘はそれ以上何も聞くことなくうなずいてくれた。今でも、何の疑問をも顔に出すことなく、葵が一方的に取り交わした約束を一途に守ってくれている。
全てを打ち明けてくれた真紘に対し、自分は卑怯にもほとんどのことを秘密にしてしまっているのに……それでも、『いつか話してくれる時が来るまで待つよ』と、真紘は笑ってくれた。
そんな真紘のことを、ありがたいと思うと同時に……やっぱり心から、申し訳ないという気持ちを拭うことはできなかった。
だからこそ、葵は決意したのだ。真紘が苦しんでいるときには、何があっても彼の支えになろうと。彼の歪な恋心を、全力で守ろうと。
それが、秘密を共有し、互いに契約を取り交わしあった者の、精一杯の務めだと信じて。
――それが、どうしてこんなことになるのか。
ある時、いつものように真紘と教室で他愛もない雑談をしているときに、その事件――周りから見れば大したことなどないのかもしれないが、葵にとっては十分事件に値する出来事だ――は起こった。
「……よう、玲」
「おう」
突然廊下側に向かってかけられた、どこか固い真紘の声に顔を上げれば、そこには真紘の友人であり想い人でもある秋月玲が立っていた。真紘の口から聞く通り、いつでも無表情がデフォルトらしく、笑み一つ零すことなくクールに真紘の声掛けに応えている。
そして――……。
「奏」
「真紘! 久しぶり」
驚いたような、それでいて穏やかな声。
今一番聞きたくなかった、けれど聞きたくて仕方のなかった、今や双子の弟として見ることなどできなくなってしまった……そんな、恋焦がれ続けてきた彼の、懐かしい声。
それだけで、思わず涙が出そうになってしまう。
彼は今、そこにいる。
いや、同じ学校にいるならば――しかも同じクラスであり幼馴染である秋月玲がこの場にいるならば、彼もまたその傍らにいるのは当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど。
なのに、こんな偶然って!
神様は、どうしてこうも残酷なのだろうか。相反し合っている、そんな二人をどうして頑なに引き合わせようとするのだろうか。引き合わせたところで、堂々巡りなのはわかっているだろうに……。
そちらを見てはいけない。見たくない。彼の姿を目にして、この想いを増大させることだけはごめんだ。
いや。だけど、一目だけならいいんじゃないのか。彼に気付かれなければ、迷惑にならなければ。その姿を、一瞬この目に留めるだけならば。
見てはいけない、だけど少しぐらいなら……そんな二つの想いと内心で葛藤しながら、それでも誘惑に抗いきれず、玲の方からほんの少しだけ視線を隣にずらした、その時。
「「!」」
自分の表情が、一気に強張っていくのを感じる。視線の先にいる奏もまた、葵の姿をその視界に留め、同じように表情を硬くしていた。
「「……」」
声が出ない。目を、逸らすことさえもできない。何か行動に移さなければと思えば思うほど、身体の芯までどんどん冷えていってしまう。
奏もまた、同じように黙っている。眉根を寄せて、どこかつらそうな表情で、けれど決して視線を逸らそうとはせず、ただこちらをじっと見ている。
時間が、止まったみたいだ。自分と同じ、その色素の薄い瞳に、吸い込まれていってしまいそうになる。
それは、今にも覗きこめそうな気がするほどに透明で、澄んだ色をしているというのに。
なのに、水面のような瞳の奥は……彼が今、何を想っているのかということだけは、双子の片割れであるはずの自分にも、どうしてもわからなくて。
ねぇ。あなたは今、何を想っているの?
あたしの姿を、その視界に留め続けて……あなたは今、あたしに対してどんな感情を抱いているというの?
尋ねたいけれど、尋ねられない。無理にでも口を開けばきっと、溢れそうなこの想いまでをも、余計に彼へと伝えてしまうだろう。
「……っ」
止まっていた時間の流れを再び動かしたのは、奏だった。一瞬だけ口惜しそうに唇を噛んだかと思うと、すっと目を逸らす。そして何事もなかったかのように玲のほうへ向き直ると、にっこりと笑った。
「行こう、玲。授業が始まっちゃうよ」
「あ、あぁ……そう、だな」
これ以上この場に――葵の目の届く場所には、いたくないのだろう。奏は少々無理矢理に玲の手を引くと、足早に廊下を歩き去っていった。玲は戸惑いながらも決して抗いはせず、「じゃあな、真紘」とだけ声を掛けると、そのまま奏に引っ張られて行ってしまう。
「あっちの方向は、科学室とは正反対なのに」
真紘が去りゆく二人を眺めながら発したそんな呟きを、葵は焦点をずらすこともできないまま、茫然と聞いていた。
頭が、くらくらする。
理由など知らずとも、とうに分かっていたことのはずなのに。自分は、奏に嫌われているんだって。他でもない、自分の存在こそが、奏を苦しめているんだって。
なのに――……彼が葵から目を逸らし、まるで逃げるように去っていったあの瞬間、一気に現実という真っ暗な闇の底に突き落とされたような気分になって。
自分に対してどんな感情を抱いているのだろうとか、もしかしたら少しくらいは肯定的に考えてくれていたりはしないだろうかとか……そんなありもしない妄想で頭をいっぱいにしていた自分が、そんなことを一瞬でも考えていた自分が、ひどく馬鹿らしく思えて。
――何だ。やっぱり自分は、奏に嫌われているのではないか。
どれだけこちらが恋い焦がれ、彼を求めたところで、近づくことすら……その視界に姿をとどめることすら、許されないのではないか。
「……葵ちゃん、授業始まるよ」
「え……えぇ」
真紘の心配そうな問いかけに、何とかそれだけを返す。息も絶え絶えで、正直立っているのもつらいくらいだ。
「……今の見た? なんか、すっげぇ空気だったよな」
「泉水さんと鳥海くんって、仲悪いのかな」
「さぁ……。でも不思議だよね。二人とも同じぐらい整った顔してるんだから、並んだらきっと美男美女なのに」
「きっと色々あるんだって」
クラスメイト達が周りでこそこそと好き勝手に話しているのを、まるで他人事のように聞き流しながら、葵はフラフラの状態で自分の席へと戻っていくのだった。
◆◆◆
――ガタンッ。
どこかで大きな物音がした、と認識した時には既に、葵の視界は真っ暗になっていた。とたんにざわつく教室と、口々に発される自分の名前が、どこか遠くに聞こえる。
『泉水! 大丈夫か!?』
『葵ちゃん!』
意識を失う前に、かろうじて耳に届いたのは、現在授業をしている教科担任と……おそらく、真紘のものであろう声。
その後の記憶は全くないけれど、次に目を覚ました時には保健室のベッドで横になっていたから、きっと誰かがここまで運んでくれたのだろう。
「あまりに真っ青な顔だったから、驚いちゃったわ」
隣で様子を見てくれていたらしい保健室の先生が、そう言って苦笑を浮かべながら飲み物を渡してくれるのを、起き上がった葵は素直に受け取る。
時計を見ると、午後の授業がとっくに始まっていた。倒れたのは確か、四限目の授業中だから……かなり長い時間、ここで眠っていたということか。
ふと視線をずらせば、枕元に自分のものと思しき荷物が置かれている。彼女の視線の先に気付いたらしい保健室の先生は、葵が使っているベッドの傍らにある丸椅子に腰かけながら言った。
「担任の先生に、荷物を持ってきてもらったの。今日はもう、帰ってゆっくり休んだ方がいいわ」
何があったかは分からないけれど……どうやら、体調が悪いだけじゃないみたいね?
顔を覗きこむようにして尋ねられ、ドキリとする。さすがは保険医、生徒の体調の変化をよく見ているものだ……と、葵は妙なところで感心した。
「先生でよかったら、いつでも相談に乗るけど……どうする?」
「ありがとうございます」
気遣う言葉を掛けてくれる先生に、笑みを作って応える。
言葉通り『ありがとう』という感謝と……この人にさえも全てを打ち明けられない、そんなあまりにも不毛な恋をしていることへの、心からの『ごめんなさい』という意味を込めて。
「……そう簡単に、打ち明けられるものではないようね」
この人は、エスパーか何かなのかと一瞬疑いたくなる。……いや。それとも、それほどまでに今の自分は分かりやすいのか?
言葉にせずとも、こちらの想いを汲み取ってくれる――そんな人は、きっと数少ない。何せ、双子の片割れであるはずの彼とすら、自分はきちんと通じ合えていないのだ。
気づけば、掛けられた白い薄布団をぎゅっと握りしめていた。自らの細く頼りなげな白い両手が、小刻みに震えているのが分かる。
「……こういう時、どうしたらいいのかわからないの」
口をついて出た、消え入るような呟きが届いたのか、保健室の先生はうつむく葵の頭にそっと手を乗せた。色素の薄い、指通りの良い髪が、女性らしい手に軽く絡む。
彼女の頭を梳くように撫でながら、保健室の先生はフッと寂しげに瞳を翳らせた。
「一人でむやみに抱え込むよりも、誰かに思い切って全てを打ち明けてみる方が、私はいいと思うわ。そうすることで、これまで見えなかったことが一気に見えてくることだって、あるかもしれないもの」
「……」
「相応の勇気が必要なのは、分かるけれどね。……決心がついたら、またいつでもいらっしゃい。いくらでも、聞いてあげるから」
ポン、と弾むように軽く頭を叩いたかと思うと、保健室の先生はそっと椅子から立ち上がった。傍らの荷物を持つと、葵にベッドから降りるよう促す。
「一人で帰れる? お迎え、来てもらおうか?」という明るく、どこか心配そうな声掛けに、「大丈夫です」と笑みを浮かべながら答える。何となく、先ほどよりも自然に笑うことができているような気がした。
保健室の先生は、そのまま玄関まで一緒に来てくれた。「お大事に」という言葉を残して去っていこうとする彼女に、呼びかけるように「ありがとう」と告げる。
その時彼女が見せた、柔らかで力強い笑みが、強く印象に残った。
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