鳥・その9

『行かないで。……愛しているのよ』

 ようやく覚悟を決め、葵から離れようとしたところだったのに。

 部屋から出ようとしたところを後ろから抱き着かれ、誘うかのように色っぽく囁かれれば、奏の理性はあっけなくプツリと音を立てて切れた。

 噛みつくように奪った唇は、これまで幾度も妄想したそれよりずっと肉厚で柔らかく。なめらかな白い肌は、幼い頃に触れたそれよりもずっとみずみずしく魅力的で――……豊満な葵の身体を、奏は夢中で貪った。

 もう一生手に入ることなどないと信じていた、彼女という存在。一生味わうことなどないと諦めていた、彼女と一つになる感覚。

 欲望に忠実になり、快楽に溺れることで、こんなにも満たされるのか。

 感情に素直になることで手に入れた、この充足感こそが、自分がこれまで求めていた『幸せ』だったのか。

 ――世間的に赦されることではないと、頭では分かっている。禁断の果実に手を出したのだと、重々理解はしている。

 けれど、どれほど後悔したところでもう遅い。自分は、そして彼女は、互いに手を取り合うことを決めたのだから。

 たとえ、破滅の未来が待っていたとしても。たとえ、将来的に神に罰されるようなことがあったとしても……それでも自分たちは二人で一緒に、暗闇の彼方へでも、どこまででも堕ちていくと、決めたのだから。


 これまでの空白を埋めるかのごとく、たっぷり葵と愛を囁き合った奏は、日付が変わった直後、ようやく帰宅した。

 本当はまだ求め足りなかったけれど、どうやら奏の中で残り少ない理性が働いたらしい。翌日学校があるということと、これ以上この場に留まっていては、いくらなんでも双方の親に迷惑がかかるだろう……と、不意にそんな考えが、脳裏をよぎったのだ。

 あるいは、これからはいつでも逢えるのだ、という安心感がそうさせたのかもしれない。葵も同じことを考えたのか、了承してくれた。

 帰宅するなり、事情を何一つ知らない母親――無論、現在一緒に暮らす義母のことだ――には、当然の如く怒られた。こんな時間まで一体どこをほっつき歩いていたの、と。

 一方の父親は、ただその隣で穏やかな笑みを浮かべているだけだった。母親の手前、何も言葉を発しはしなかったけれど……一つの判断を下した結果、憑き物が落ちたかのごとくすっきりした表情で戻ってきた奏を見て、何か思うところがあったのかもしれない。

 ひとしきり説教を受けた後、既に葵の家でシャワーを借りていた奏は、すぐさま自室に戻りベッドにもぐりこんだ。ひんやりとした布団の中は、奏の体温により徐々に温かくなっていく。

 自分の心のようだ、と奏は思った。

 凝り固まり、ひんやりと冷たかったそれは、葵という存在の介入により、徐々に温かさを取り戻していく。

 葵も同じ気持ちだったらいいな、と、柄にもないようなことを思いながら、奏は十数年ぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。


    ◆◆◆


 翌々日。

 奏は学校へ向かう足で、近くの公園へふらりと立ち寄った。昨日からここで葵と待ち合わせ、一緒に学校へ行っているのだ。

 先に来ていたのか、ベンチにぼんやりと腰かけていた葵のもとへ、奏は逸る気持ちを押さえながらゆっくりと近づいた。

 顔を上げ、奏を視界にとらえた葵は、屈託のない笑みを浮かべた。それは固く閉ざされた花の蕾がそっと綻ぶようで、自分と同じ顔立ちだとはわかっていても、思わず見惚れてしまう。

 「早いね」と声を掛ければ、葵は何でもない事のようにさらりと答えた。

「奏に、早く逢いたくて」

 奏こそ、いつもより早いんじゃない? あたし、ここに来てからそんなに待ってないわよ?

 奏は思わず吹き出してしまっていた。「何よぉ」と頬を膨らませる彼女を、改めて愛おしく思う。

「俺も、葵に早く逢いたかったんだ」

 笑みを浮かべながら、意趣返しのようにそう答えれば、葵の頬がほんのり朱く染まる。差し出した手に重ねられた、ほっそりとした白い手を口元に運ぶと、一つ口づけを落とした。


 外で手を取り合うのははばかられるからと、少しだけ距離を取りつつも、互いに歩幅を合わせながら、学校までの道をゆっくりと歩いていく。日曜日の触れ合いと比べればやはり物足りなさはあるものの、すぐ近くに葵がいるというその事実だけで、大きな進歩だと奏は思う。

 学校近くにある某女子高の大きな校舎が見えてくると、そこには見覚えのある姿があった。心に生まれたもやもやとした感情そのままに、奏は僅かに顔をしかめる。

「……松木。何でお前がここに」

「朝っぱらからずいぶんな言いぐさね、鳥海くん」

 彼女――松木梨生奈は、かつて奏の幼馴染である玲に告白し、玉砕した女だ。その後こともあろうに、彼女は玲に関する噂を広め、そのくせ自分は何も知らないという顔でしらを切り続けている。奏にとって唯一無二の友人を、無粋にも傷つけるような真似をした……そういう意味では、もはや天敵ともいうべき存在だ。

 そんな梨生奈――最近、何故かことあるごとに顔を合わせるようになった――を無言でじろりと睨んでいると、不意に葵が親しげな声を上げた。

「あら、桜香ちゃんじゃない」

 どうやら葵は梨生奈ではなく、その隣にいる女の子に声を掛けたらしい。梨生奈の隣にいる、某女子高の制服を着た清楚そうな黒髪の少女は、葵に対してぺこりと一礼した。

「葵さん。お久しぶりです」

 桜香と呼ばれたその少女は、どうやら葵と知り合いらしい。そして……学校が違うにもかかわらず一緒にいるところからして、どうやら梨生奈とも何らかの関係があるようだ。

 まぁ、葵はともかく、こんな奴の交友関係なんて別にどうだっていいけれど……。

 葵と桜香が何やら親しげに会話を始めたところで、梨生奈が無遠慮に葵の姿を目にし、ニヤリと嫌な笑みを浮かべた。

「ふぅん……珍しいじゃん。『王子』と『姫』が一緒にご登校だなんて」

 今日の校内はきっと、この話題で持ちきりになるでしょうね?

「うるさい」

 不機嫌な顔を隠しもしないまま、低い声で呟けば、「相変わらずわたしに手厳しいのねぇ」と笑う。こちらの敵意をまるで意にも介していないかのような反応に苛立っていると、いつの間にやら話を終えていたらしい葵と桜香が、どこかキョトンとした顔で二人を見ていた。

「二人とも、仲がいいのね」

「お二人とも、仲がよろしいのですね」

 ほぼ同時に口にされた一言に、奏は盛大に顔をしかめる。そんなわけない、と言おうとしたところに、梨生奈が能天気に答えた。

「そうなのよ。わたしたち、仲良しなの」

 ね? と小首を傾げながら見上げてくるのに、チッ、と小さく舌打ちをする。そんな奏に構うことなく、「あ、でも」と梨生奈はどこか申し訳なさそうに付け加えた。

「でも全然恋愛的なことはないから、安心して。姫……いえ、葵さん」

「大丈夫よ」

 まるで気にした様子もなく、葵は笑う。昔から変わらない、いつも通りの妖艶な――どこか感情の読めない、魅力的なあの笑み。

「あたしは、奏を一生繋ぎとめておくだけの自信があるから」

 自信満々なその言葉に、奏は驚く。

 確かに自分は、葵以外の女を見る気など一生ないけれど――……。

「朝から惚気? まったく、羨ましいわ。ねぇ、桜香?」

「そうだね。何だか、見せつけられた感じ」

 梨生奈と桜香がわざとらしく溜息を吐くのも、奏はもはや意に介さない。悪戯っぽく笑う葵の姿に、ただ釘付けられるだけだ。

 現在の奏には、葵以外の女性がほとんど見えていないし、きっとこれからも一生気にすることはないだろう。


 某女子高で桜香と別れ、また「お二人の邪魔をしちゃ悪いから」と言って先に行ってしまった梨生奈を見送った後、二人は変わらずゆっくりとした足取りで学校へ向かった。

 校舎にたどり着き、校門をくぐりしばらく進むと、ざわざわと騒がしい生徒たちの中に覚えのある三人の姿を見つける。これまでずっとぎくしゃくしていた関係は、どうやら元通りになったらしい。どうなったのかは知らないけれど、あとで玲にいきさつを聞こうと頭の片隅で思いながら、奏たちは三人のところに近づいた。

「仲直りしたのね、お三人方」

「相変わらず騒がしいことで」

 順番に声を掛ければ、振り向いた三人は不思議そうな表情で二人を見る。これまでのことがあるから、まぁ当然と言えば当然だろう。

「葵ちゃん。……奏とは、もういいの?」

「前は、互いにものすごい剣幕で睨み合ってたのに」

 何となく気恥ずかしい気持ちになって、葵と一瞬視線を交錯させる。それからまるで示し合せたかのように、二人してぷいっとそっぽを向いた。どうやら気心の知れた人間がいる前では、先ほど梨生奈たちの前で惚気たようには振る舞えないらしい。

「別に、謀ったわけじゃないわ。あたしはただ、真紘ちゃんに声を掛けたくて近づいただけだもの」

「俺も、玲に挨拶しようと思って近づいただけだよ。別に、一緒に来たとかそういうわけじゃない」

 我ながら、あまりに分かりやすい反応だと思う。

 優羽にはとうに見透かされていたようだが、真紘や玲は案外鈍いらしく、心配そうな、深刻そうな声がかかった。

「そっか……勘違いしちゃってごめんね」

「俺も、余計なこと言ってごめん」

 思わず苦笑が零れる。ほぼ同時に、隣からも似たような声が漏れた。

「いいのよ。別に、気にしていないわ」

「今更じゃないか。君たちが気に病むことはないよ」

 言いながらもやっぱり気恥ずかしくて、相変わらずそっぽを向きあう。合図するように伸ばした小指で葵の手に触れれば、同じように華奢な小指がそっと絡まってきた。

 ――いずれは、玲にもこのことを打ち明けよう。今はまだやっぱり素直になりきれないから、こんな反応しかできないけれど。

 真紘はおそらく、ほとぼりが冷めた頃に葵から話を聞くだろう。

 優羽には……きっと今更、打ち明ける必要もない。

 そっと彼の方に視線をやれば、案の定どこか訳知り顔で自分たちの方を見ている。ゆるりと弧を描く唇は、まるで全て分かっているとでも言いたげに綻んでいる。

 その目線は、自分たちの絡めあった小指の方に落ちていた。

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