鳥・その2

 奏には、幼い頃からずっと一緒の幼馴染がいた。

 奏が小学校三年生くらいの時に、彼――秋月玲は同じ校区内へと引っ越してきた。その時には既に父親は離婚し、今の母親と再婚していたので、彼は奏の家庭事情を詳しく知らない。奏自身も、ややこしいことまでは話していないのだ。

 逆に奏自身も、玲の詳しい家庭事情や転校前のことなどについては詳しく知らなかった。ごく普通のサラリーマン家庭で、以前は比較的都会に近いニュータウンに居を構えていたとは聞いていたが、それ以上のことを玲は話さなかったし、奏自身も聞かなかった。話したくないのか、単に話す必要もないと思ったからか……それは、奏にも分からない。

 学校で離れたクラスに在籍していた時や、互いに家にいる時、また別の友人と遊びに行く時など以外は、二人はほぼ一緒の時間を過ごす。

 そうやって約八年もの間――それだけの時を一緒に過ごしてきたのに、互いに深みにまでは決して踏み込まない。二人はそんな、深いようで浅い関係だった。

 もちろんその関係に不満などなかったし、この距離感がちょうどよいと……心地いいとさえ、奏は思っていた。秘密を共有するなどして、妙なところでつながりを持ってしまうのは、何か違う気がする。

 そう、思っていたはずなのに――……。


「奏、俺には好きな奴がいる」

 いつもと同じ感情の読みにくい無表情と、淡々とした低い声で、唐突に玲が語りだす。この状況は一体、どんな話の流れから導かれてきたものだったろうか。

 辺りから、お好み焼きの焼けるいい匂いが漂ってくる。そうだ、学校帰りに玲とお好み焼き屋に入ったのだった。

 それで確か、玲が今日の昼休みに上級生である女子生徒から告白されたという話になった。ルックスもよく、物静かで慎ましいと評判の彼女は、まさしく玲のような男にはぴったりだと誰もが思っていた。なのに、玲はそれを断ったのだ。

 あぁそうだ、と奏は改めて思い出す。

 それまでもずっと、様々な女子生徒に告白されては断り続けてきた玲。そんな彼に奏は先ほど、ついに長年の疑問をぶつけたのだ。

「玲はさぁ、恋愛とかに興味ないわけ?」

 二人前のお好み焼きの生地を鉄板に垂らし、上手く形を整えながら、玲は答えた。

「ないわけじゃないよ」

「じゃあ、何で告白をことごとく断るわけ?」

「……」

 ジュワァ……と、非常に食欲をそそる音が立つ。二枚のヘラで軽く生地を押さえ、手を止めると、玲は至極真面目に――ただし、その顔にも声にも大した変化はない――先ほどのセリフを口にしたのだった。

「奏、俺には好きな奴がいる」


 ――玲の口から、まさかそんなセリフが出てくると思っていなかった奏は、ぴたりとその動きを止める。当の玲は、何事もなかったかのような無表情で、いい具合に焼けたお好み焼きをくるりとひっくり返した。

 うっすらと焦げ目のついた生地に、青海苔やら鰹節やらをかけながら、玲は未だにポカンとした表情で固まる奏に向けて話を続けた。

「この話は、当然ながら誰にもしたことがない。話しちゃ、いけない秘密だから。本来なら、墓場にまで持っていかなくちゃいけないことなんだ。……奏、紅しょうがは大丈夫か」

 最後の問いに関しては、今までの話に脈絡が全くない(今焼いているお好み焼きの話でしかない)ので、素直に「大丈夫だ」と答えることができる。ただ……その前に話されたことには、なんと返すべきか迷ってしまった。

 ソースをかけ、あらかた仕上がったお好み焼きに、玲は紅しょうがを一つまみパラパラとかける。その鮮烈な紅は、遠い記憶にある母親の、艶やかな三日月型の唇を連想させた。

「……さて、そろそろかな」

 低く呟きながら、玲は出来上がったものをヘラで切り分けていく。ちょうど半分に切った生地を皿に取り分け、そのうちの一つとヘラを渡された。奏は形だけの礼を言いながら、おとなしく受け取る。

 ヘラで一口サイズに切り分け、口に運びつつ、落ち着いてきた奏はとりあえず玲に続きを促そうと口を開いた。

「で?」

「……で、って?」

 ひと足先にお好み焼きを口にしていた玲が、小さく首をかしげる。何となくもどかしげに、奏は答えた。

「さっき、言ったじゃん。『好きな奴がいる』って」

「あぁ」

 やっぱり話さなきゃいけないか、と、諦めたように小さく溜息を吐く。

「自分から切り出したんだから、責任を持たなきゃ駄目だよ」

「……そうだな」

 穏やかな奏の声につられるかのように、玲は食べる手を止めると、少しずつ話し始めた。彼自身が抱えているという、その秘密を。

「俺には、仲の良い友人が二人いる。お前も、知ってると思うけど」

 そういえば、と奏は思い出す。

 高校に入学したばかりの頃から、玲は二人の少年と急激に仲良くなった。一年生の頃に同じクラスだったからとか、確かそんな理由だったと思う。三人全員クラスがバラバラになった今でも、一緒につるんでいるところを見ることが多い。

 一人は、一瞬女の子と見紛いそうなほどの、可愛らしい容姿をした小柄な少年――雪宮真紘。彼は一時期、葵と義姉弟になったことがあるらしい。その件については、父親から少しだけ聞いた。

 それからもう一人は、不特定多数の女子と寝ているとかいう下世話な噂が絶えない、軽薄そうな見た目の少年――花村優羽。葵もまた、彼と寝たことがあったりするのだろうか……。

「――奏?」

 心配そうな玲の声に、奏はハッと我に返る。そうだ……今は玲の話を聞いている時だというのに、自分は一体何を考えているというのだろう。

 こんな時に、葵を思い出してしまうだなんて……。

「ごめん、大丈夫だから。続けて?」

 無理に微笑んでみせると、玲は一瞬怪訝そうに眉をひそめたものの、再び話を続けるべく口を開いた。

「俺たち三人は、高校に入学してすぐに知り合った。お前とクラスが離れて一人だった俺に、声を掛けてきたのが優羽で……」

 そこまで聞いた時、奏は何となく悟った。との出会いを語る玲の表情が、彼の隠していたであろう真実を物語っていた。

 もしかして、玲が想いを寄せる相手とは――……。

 思わず口を挟もうとした奏を遮るように、玲は言葉を続ける。どこか切なげに瞳を揺らしながら、感情を押し殺すように、ただ淡々と。

「その時にはもう、優羽と真紘は互いに仲良くなってたみたいだから、そういう経緯で真紘とも友人同士になった。今は全員クラスが離れたけれど、それでもそれなりに仲は良い。お前も、見てるだろう」

 コクリ、と奏は無言でうなずいた。確かに玲は、教室以外ではよく二人と一緒にいる。三人で話しているところを見るたびに、本当に三人が仲良しであることがよくわかって、微笑ましい気持ちになったものだった。

「玲と二人は、ホントに仲がいいよね。こっちまで羨ましくなるくらい」

 そう口にすれば、玲は僅かに眉根を寄せた。切れ長の目に、隠しようもない痛みが浮かぶ。

「本当に、そう思うか?」

 普段より鋭さを増した、玲の低い声。奏は思わず身体を強張らせた。何も答えられずにいると、玲はこちらの答えなどまるで期待していないかのように、淡々と問いを重ねる。

「友人に――同性に恋をすることは、罪だと思わないか?」

 ある程度察していたはずのこととはいえ、玲の口から実際にその言葉を聞くと、やはり驚きを隠せない。

 奏は、突然心臓を鷲掴みにされたかのような気分になった。やたらと実感のこもった玲の言い方にも、『罪』というほの暗く残酷な、それでいてどこか魅力すら覚えてしまう、その言葉の響きにも。

「罪なんかじゃ、ないよ」

 気休めと分かっていながらも、そう口にしていた。玲が、驚いたように切れ長の目を大きく見開く。

 同性に恋をすること――確かに世間一般的には、受け入れられないものかもしれない。現在の日本の法律でも認められていないし、それを禁断とする宗教だって存在するくらいだ。気持ち悪いと解釈する人間も、この世にごまんといるだろう。

 けれど、それでも……。

「男が男に恋をして、なにが悪いって言うのさ」

 どこかの国では、同性同士でも結婚できるところだってある。つまり、そういうことに寛容な場所だって、確かに存在しているのだ。

「少なくとも俺は、軽蔑なんてしない」

 自分はそれよりもっと罪なことをしていると、自覚しているから。

 たとえどこに逃げたって、自分の恋が祝福されることなど、絶対にないと分かっているから――……。

 不意に、玲が泣きそうな顔になる。普段ほぼ表情を変えない彼が、それとわかるほどに感情を顔に出すのは、奏が知る限りでは初めてのことかも知れなかった。

 そんな彼に対し、奏はできるだけ優しく微笑んでみせる。分かっているからと、大丈夫だからと、表情で訴えかけるかのように。

「それで、どっちなの」

 雪宮真紘と、花村優羽。玲の心を掴んでいるのは、一体どっち?

 本当は、そんなことなど聞くまでもなく分かっていた。

 先ほど二人について話していた時の、玲の表情の差。それを見れば、彼にとって相手が大切な友人であるのか、それ以上の感情を抱く相手であるのかなど一目瞭然だ。

 それでも敢えて、奏は尋ねたのだ。ただ……彼本人の口から、真実を聞きたかったから。

 玲は泣きそうな表情を崩さず、優しい表情と声色の奏に問われるがまま、とつとつと答えた。まるで、これまで心に溜めてきた黒い膿を、全て吐き出そうとするみたいに。

「俺が好きなのは、優羽だよ」

 ――そう、そこまでは予想通り。奏が考えていたシナリオそのものだったと言っても、過言ではない。

 けれど玲はさらに、奏の予想を大きく覆す真実を口にしたのだった。

「けど……優羽が好きなのは、真紘なんだ」

 奏は一瞬、自分の耳を疑った。

 つまり――仮に『同性を好きになる』ということが罪だとするならば、その罪を犯しているのは玲だけではなかったということだ。

 それだけじゃない、と玲はさらに続ける。それだけで済んでいたのならば、まだマシだった、と。

 最終通告でもするかのように、ひときわ低い声で、呟くように玲は告げた。世にも残酷ともいうべき真実を如実に表す、その言葉を。

「真紘には、好きな奴がいる。けれどそれは、優羽じゃない――……」

 真紘が想いを寄せているのが、異性なのか同性なのか。それはきっと、本人にしか分からないことだろう。現に玲も、それが誰かまでは知らないというのだから。

 けれど玲は、きっと何らかのきっかけで知ってしまったのだろう。その人物が、優羽ではないということを。

 玲の優羽に対する想いが、決して報われないのと同じように。優羽の想いもまた、決して報われるものではないのだということを――……。

「お前も、つくづく辛い恋をしているものだね」

 玲の告白を全て聞いた後、ふと口を突いて出た奏の言葉に、玲が思わずといったように顔を上げる。その表情には明らかな驚きと、わずかな期待のようなものがあった。

「お前って……奏、まさか」

 まさかお前も、同じような想いを抱いているのか?

 切れ長の目の奥に光る、濡れた漆黒の瞳が、縋るような光を湛えてこちらを見つめる。自嘲の意味を込めて、奏はクスリと笑った。

「そうだよ」

 俺もまた、報われない恋をしている。お前と、同じだ。

 それはきっと、誰にも祝福されることなどないであろう、いわゆる『禁忌』というやつで。これまで、他の誰にも――父親を除けば、の話だが――打ち明けることのなかった本心。

 そう告げれば、玲は一瞬大きく目を見開いた。それから花の蕾が綻ぶように、ゆっくりと儚げに微笑む。そして、しみじみとこう言った。

「打ち明けた相手が、お前でよかった」

 一番最初の相談相手に指名して、正解だったよ。

 そう言ってにこやかに笑う玲に応えるように、奏もまた、柔らかな微笑みを見せた。

「ありがとう」

 しばし二人で微笑みながら、すっかり冷め切ったお好み焼きをそれぞれ口に運ぶ。冷たいな、と言い合いながら、また笑った。

 ――この友人には、いずれ話さなければならない時がくる。

 その時には……包み隠さず打ち明けられるだろうか。胸の内でとぐろを巻く、この醜くも清らかな、『禁忌』という名の愛情のことを。

 そして、その全てが、一体誰に向いているのかを。自分にとってその相手が、どういう立場の人間であるのかを。

 どこかすっきりしたような表情を浮かべた友人を見ながら、奏は心の片隅で一人願う。卑しいことと知りながらも、そうせずにはいられなかった。

 いずれは彼にも、あわよくば自分にも、救いの手が現れる日が来ますように、と――……。

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