水・その3

「おはよう、真紘ちゃん」

「あ、葵ちゃん。おはよう」

 進級とともに替えられた新しいクラスに、自身も周りも少しずつ慣れ始めてきた、ちょうどそんな頃。

 荷物を置いたばかりであろう彼の席に回り込み、いつものように呼びかければ、こちらを見上げた愛らしい童顔に満面の笑みが浮かんだ。

 白い肌に、くるりとした大きな黒い瞳、さくらんぼのように紅く色づいた唇。そして、さらりと流れる艶やかな黒髪。そんな容姿と、同世代の男子にしてはいささか小柄な体躯、そしてその名前から、彼――雪宮真紘はよく女の子と見紛われる。

 そんな彼は、一時期葵の義弟だったことがあり、そのこともあって二人は今でも仲がいい。男女の友情はありえないとよく言われるし、付き合っているのではないかと誤解されることも多い(まぁ、それを逆に利用している節もあるのだが)けれど、それでも葵は彼との関係を大切にしていたかったし、真紘もまたそう思ってくれていると信じていた。

「ね、真紘ちゃん。数学の宿題、やってきた?」

「やってきたけど……なに、葵ちゃん。また写させろとか言う気?」

 さすがは元義姉弟、こちらの意図を容易く読み取ったらしい。真紘はえー、とでも言いたげに顔をしかめた。

「お願い。あたしと真紘ちゃんの仲じゃない」

 葵はそんな彼の顔の前で手を合わせ、首を傾げてみせる。そうすると真紘はいつも、仕方ないなぁというように溜息をつき、表情を和らげるのだ。

 今日ももちろん、その例外には漏れず……真紘は小さく溜息を吐くと、苦笑しながら自分の鞄の中を探った。水色の薄いノートを取り出し、葵に差し出す。受け取った葵は、複雑そうな表情を浮かべる真紘に向けて、にっこりと笑ってみせた。

「ありがと、真紘ちゃん」

「まったく。その上目遣いは反則だって、色んな人が言ってるの知らない……わけないよね。葵ちゃんは、そういう子だった」

「何よぉ。人をまるで策士みたいに」

「事実じゃん」

 きっぱりと言い切られ、むぅ、と葵は軽く唇を尖らせた。

 自分の容姿がどれほどのものであるかとか、どう接すれば相手が自分の思い通りになるのかということは、大体把握しているし、理解しているつもりだ。だからこそ葵は異性にモテるし、同性からもさほど煙たがられずに済んでいるのである。

 そんな葵のことを一部の人は『魔性の女』などと呼ぶが、本人としては単に世渡り上手なだけだ、と訂正しておきたいところだったりする。

 それを訴えると、必ずと言っていいほど真紘は『いや、葵ちゃんは小悪魔でしょ』と断言し、話を終えてしまうのだが。

「とにかく。これ、借りるわね」

「数学は三限だから、それまでには返してよ」

「はいはい」

 真紘に借りたノートをひらりと振りながら、葵は自分の席に戻る。まぁ、言っても彼女の席は真紘の席の斜め後ろなので、至極近いのだが。

 ホームルームの時間にあらかた写してしまおうと、自分のノート――当然ながら、課題など全くやっていない――を取り出す。間もなくして、クラス担任が荷物を持ってやってきた。

 そこでふと、葵は斜め前の様子がおかしいことに気付いた。いまだ荷物が入れられていない机の引き出しには白く華奢な手が力なく置かれ、小さな頭が忙しなく左右にきょろきょろと動いている。明らかに挙動不審だ。

「どうしたの、真紘ちゃん」

 話し始めた担任にばれないよう、こっそり尋ねる。真紘は気まずそうな顔で振り向き、葵の姿を認めるや否や口を開閉させた。黒く大きな瞳が、落ち着きもなく泳いでいる。

「何か、あったの」

 先ほどより、声が自然に大きくなる。真紘はなおさら、気まずそうに瞳を泳がせた。

「そこ、うるさいぞ。俺の話より、大事なことでも話しているのか」

 葵の声が耳に届いたらしく、担任の鋭い声が飛んできた。他のクラスメイト達の視線も、自然とこちらへ集まってくる。葵がしまった、と顔をしかめると同時に、真紘の肩がびくりと小さく跳ねた。

「あ、その……」

「ごめんなさい、先生。雪宮くんの顔色が少し悪そうだったから、心配で」

 真紘が何か言う前に、葵が担任に向けて申し訳なさそうな表情で手を合わせてみせる。

「そ、そうだったか」

 その言葉の内容に納得したのか、彼女のあまりに可愛らしい仕草にやられたのか――おそらく後者であろうが――担任は割とあっさり引き下がってくれた。「雪宮、体調悪かったら保健室行けよ」という明らかに形だけの忠告を残し、そのまま何事もなかったかのようにホームルームを進めていく。クラスメイト達もそれ以上の興味を失くしたらしく、各々視線を戻していった。

 おずおずとこちらを振り返る真紘に向けて一つウインクをしてみせれば、女の子のようにふっくらと色づいた唇が『ありがとう』と音もなく言葉を紡ぐ。顔色はあまりよくないが、どこかホッとしたような表情だ。

 そしてホームルームが終了し、いつもの通り授業が始まる。一限目は現代文で、担任と入れ替わりにスマートな体型の女性教師が入ってきた。

「じゃあ、始めましょうか」

 色素の薄いボブカットの髪をふんわりと揺らしながら微笑む彼女は、全体的におっとりとした柔らかな雰囲気を纏っていて、教室の雰囲気を一気に和らげる。強張っていた葵の心も、少しだけ癒された。

 いつも通り形だけのあいさつを終え、教科書やノートなどの一式を取り出す。その中に葵はこっそりと数学のノートを忍ばせ、教壇に立つ女性教師にばれないように続きを写していった。

 真紘のことはもちろん気になったものの、直接尋ねるのはなんとなく躊躇われた。言ってもいいと判断したことなら、真紘がいずれ自分から口にしてくれるだろうと思ったからだ。

 それに――……。

 ふと突きつけられた現実に、葵は思わず瞳を翳らせた。

 そう。自分にだって、真紘にまだ打ち明けられていないことがあるのだ。

 それなのに、真紘に全てを聞きだすなんてことが、どうしてできるだろう。そんなの、どう考えてもフェアじゃない。

 小さく溜息を吐き、葵は数学の続きに取り掛かる。時折増えていく板書を写しながらも、わりとスムーズにそれは進んだ。


「――真紘ちゃん。これ、ありがとう」

 現代文の授業が終わり、数学の課題もどうにか写し終えた葵は、真紘の席に回り込むと、何やら考え込んでいる様子の真紘の前に借りていたノートを差し出した。

 気づいたらしい真紘が、ハッとした様子で顔を上げる。

「葵ちゃん……」

 どこか縋るような響きをもった弱々しい声に、葵はドキリとした。恐る恐る、口を開く。

「どうしたの、真紘ちゃん。調子悪い?」

 きっと、まだ核心に触れてはいけない……。

 直感的にそう思った葵は、わざと遠まわしに尋ねた。

「ううん」

 真紘は力なく首を横に振る。白い顔に浮かんだ笑みは、普段の屈託のないものではなく、無理やり作っているかのように見えた。

「なんでもない」

 少し震えた唇は、明らかな拒絶を紡ぐ。これ以上聞いても、きっと真紘は何も言おうとしないだろう。

「……そう」

 本格的に具合が悪くなったら、保健室にでも行くといいわ。

 もちろん根本的な解決になるわけはないと分かっていたが、今の真紘に対して、葵はそう告げることしかできなかった。


    ◆◆◆


「何でなんですかっ。雪宮先輩、別に付き合ってる人がいるわけじゃないんでしょう? あたし、知ってるんですよ」

「いや、その」

「お友達からで構いませんから。だから……」

 人気のない踊り場で響く男女の――というか、ほとんどヒステリックに叫んでいる女の――声を壁越しに聞いた葵は、やはりそういうことだったか、と溜息を吐いた。


 ――昼休みが始まるやいなや、いつもなら一緒に弁当を食べるはずの真紘は、昼食もそこそこに教室を出て行ってしまった。

 もしかしてこれは、今朝の件と何か関係があるのではないか……?

 ふとそんな考えに辿り着いた葵は、斜め前の席へ足を進めると、身辺をこっそり調査し始めた。

 そこで、見つけてしまったのだ。出しっぱなしの教科書の間にこっそりと挟まっていた、四つ折りにされた一枚の紙を。

 中身を見た葵は、すぐに真紘を追って教室を出た。紙――もとい誰かからのラブレターに書かれていた、彼が呼び出されているはずの場所を頼りに、早足で廊下を進んでいく。

 そして――辿り着くや否や、葵の耳に届いたのだ。

「何でなんですかっ、雪宮先輩!」

 そうヒステリックに叫ぶ、一人の女子生徒の声が。


 感情の波を押さえられずにいるのであろう女子生徒の叫びを、真紘はしばらく何も言わないまま、ただ黙って聞いていた。

 だが――……やがて決意を固めたのか、小さな声でポツリと告げた。

「俺には、他に好きな人がいるんだ」

 女子生徒の、息を呑む声が聞こえた。けれどそれは一瞬で、すぐにまたヒステリックな金切り声が耳をつんざく。

「誰ですっ!?」

「それは……」

 答えあぐねるように真紘は黙り込む。そんな彼に助け船を出すように、葵はわざと後ろから姿を現すと、うつむく真紘に明るく声を掛けた。

「真紘ちゃん、こんなところにいたのね。探したわ」

「葵、ちゃん……」

 驚いたような、けれどどこかホッとしたような表情の真紘と、邪魔をされて悔しいのか露骨に嫌な顔を隠しもしない女子生徒。そんな二人を交互に見比べながら、葵はオーバーリアクションを取ってみせた。

「あらぁ、お邪魔だったかしら? もしかして告白?」

「誰なんです、あなたは」

 突然現れた葵を――上級生であり、容姿レベル的にも自らより上位にいるであろう人間を、女子生徒は怯むことなくじろりと睨みつける。そんな彼女に向けて、葵はにっこりと笑った。

「ごめんなさいね。彼、あたしと付き合っているから」

 え、と小さく声を上げる真紘に、「いいから、話を合わせて」と小さく耳打ちする。困惑しながらも、この状況を切り抜けたいという気持ちはあったらしく、真紘は「そ、そうなんだ」とうなずいた。

「さっき言ったじゃん。好きな人いるって。……それ、この子のことだから。せっかく告白してくれたのに、ごめんね」

 強気な光を宿していた女子生徒の瞳が、徐々に弱々しいものへと変わっていくのが分かった。目尻に、じわりと涙がにじむ。

 きっとこの子も、全力で真紘を想っていたんだ……。

 自分が知っている気持ちと重なって、ほんの少し胸が痛んだ。

「ごめん、なさい」

 うつむき、声を詰まらせそう告げると、女子生徒は駆け足でその場を去って行った。屋上へ向かう道を駆けて行ったから、きっと次の授業はサボるつもりなのだろう。

 後には、葵と真紘の二人と――……妙に重々しい沈黙だけが残った。

 黙り込んだままの真紘の肩を、葵はそっと抱いた。男子にしては華奢な肩が、一瞬びくりと揺れる。

「戻りましょうか」

 ほら、ご飯まだでしょ?

 先ほどまでのことには一切触れず、励ますようにしてそう告げる。気弱そうに見つめてくる大きな黒い瞳に、葵は満面の笑みをみせた。

 真紘がホッとしたように微笑み、頷いた。


 真紘が葵に、自らの秘密を――同性であり友人である秋月玲に想いを寄せていると打ち明けたのは、それから数日後のこと。

 自分にも好きな人がいるのだと、同じようにそれは許されない恋なのだと――……そう軽く打ち明けた葵は、真紘にある一つの提案をした。

「あたしたち、付き合ってることにしましょうか」

 そうすれば、互いに口外しちゃいけないこの想いを、世間に隠し通すことができるでしょう?

 真紘は一瞬目を見開き、迷うようなそぶりを見せたけれど……葵の真剣な目を信頼してくれたのか、やがて小さくこくりと頷いてくれた。


 ――それから、二人の秘密の共有が始まった。

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