風・その7

 週が明け、月曜日がやってきた。

 自宅である屋敷の使用人に見送られ、某女子高へと向かった桜香は、いつものようにかしましい環境での学校生活を過ごす。代わり映えしないつまらない日常には、とうにうんざりしきっていたので、今更この場所で何があろうがどうとも思わない。

 放課後、他の生徒たちのように放課後何かをする用事があるわけでもない桜香は、いつものように帰路に着く。

 少々気まずい気持ちではありつつも、すっかり習慣癖がついたのか、つい足が向いてしまうのはあの喫茶店だった。

 入口のドアを押せば、カランカラン、と音を立てて開く。

「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」

 もはや顔なじみとなったウエイトレスの一人に案内されたのは、やはり一番奥の席だった。いつものように礼を言い、椅子を引こうとする。

 そこで桜香はふと、今まさに座ろうとしている席の向かいに目をやった。テーブルに置かれた湯気の立ち上るレモンティーに、目を見開く。慌ててその先をたどれば、先客らしき姿があった。その見覚えのある顔に、ハッとする。

「こんにちは、桜香」

 机に頬杖をついた状態でこちらを見ていたのは――いつものウエイトレス姿ではない、某高校の制服に身を包んだ梨生奈だった。

「……驚いた。今日はバイト休み?」

 冷静を装いはしたものの、それでも笑顔が引きつっているのを自覚しながら、桜香は座ろうとしていた椅子を一気に引き腰を下ろす。梨生奈は気にしているのかいないのか、曖昧に「まぁね」と答えた。

 氷水を持ってやって来た店員――もちろん、梨生奈ではない――にもはや定番となったハニーラテを注文すれば、クスリと小さく笑みを零される。それほどまでに自分が馴染みの客になってしまっているのだと気付かされ、桜香は何となく嬉しいような恥ずかしいような妙な気分になった。

 その後、なんとなく手持ち無沙汰になった桜香は、これまであまり自ら注意して見たことのなかったメニューに手を伸ばした。分厚いそれをパラパラと開きながら眺めていると、こちらを見ていたらしい向かい側の梨生奈から声がかかる。

「前も言ったけれど、色んなメニューがあるでしょう」

「そうだね」

「たまにはハニーラテ以外も、注文してね」

「……考えとく」

 可笑しそうにフフ、と零された、どことなく甘さの残る笑い声に、桜香はほんの少しドキリとした。梨生奈の無自覚なのか計算なのか分からない、無邪気かつ妖艶な雰囲気は相変わらず健在のようだ。

「……昨日、行ってきたわ。花村の家に」

 遠くから聞こえてくるジャズに耳を傾けていると、梨生奈がまるで独り言のような口調で語り出した。メニューから視線だけを上げれば、これまで見たことのないほど穏やかな表情をこちらに向けているのが見えた。

「色々な話をした。わたし自身が抱えている、想いについてもね。花村は誰に想いを寄せているのか、終ぞ教えてくれなかったけれど……その好きな人のことを傷つけて、その人との友情を壊してしまったのだと、ひどく後悔したように言っていたわ」

 きっとその人と優羽は、友達としてうまくいっていたのだろう。優羽自身の想いは抜きにしても……それで、よかったはずだった、のに。

『もう俺は、あいつと――……いや、あいつら二人と、友人ですらいられなくなっちまうかもしれない。そういう日がいつかは来るって、きっとわかっていたはずなのに』

 かつて告げられた、優羽の切なげな声を思い出す。

「――だからわたしは、言ったの」

 梨生奈の声が、先ほどよりほんの少し強めのものになる。そこに並々ならぬ意志のようなものを感じて、桜香は本格的にメニューから目を離した。

 目が合うと、梨生奈はにっこりと笑いかけてきた。それは少し前まで見せていた、取り繕うような笑みではない……しっかりとした自分の意志による、心からの笑みのように見えた。

「『友達と喧嘩をしたら、仲直りをするのが常識というものよ』ってね」

 桜香は思わず吹き出してしまった。堰を切ったように笑いだした桜香につられるように、梨生奈もクスクスと笑いだす。

 ――そうだ。答えは、いつだってシンプルなものなんだ。灯台下暗しとはよく言ったもので、ごく簡単なところに答えは潜んでいるものなんだ。

 それに気づかず自分たちは、今進んでいる道がとんでもない遠回りなのだと気付かぬまま、ぐずぐず悩んで絶望して……あぁ、なんて滑稽。なんて、可笑しいことをしてきたのだろう。

「梨生奈ちゃん……天才、だねっ」

 笑いを抑えながらそう言えば、目に浮かんだ涙を拭いながら梨生奈が自慢げに「そうでしょう」と答えたので、また笑いが込み上げてきた。

「お待たせしました……って、あら?」

 注文の品を持って現れたウエイトレスが、人目もはばからず笑いあう二人を見て不思議そうに首を傾げる。「何でもないんですよ」と梨生奈が笑い混じりに言うと、「楽しそうで何よりね」との言葉と共に苦笑されてしまった。


    ◆◆◆


「――おはよう、桜香」

「おはよう、梨生奈ちゃん」

 翌日の朝、まだ開店していない喫茶店の前で待ち合わせした桜香と梨生奈は、昨日の喫茶店で会った時と同じように、それぞれ違う制服に身を包んでいた。これまでと違う状況に、なんとなく新鮮さを覚える。

「梨生奈ちゃん、案外制服似あうね」

「そう? ありがとう」

「うちの高校の制服着たら、どうなるかなぁ」

「今度、交換して着てみましょうか」

「いいね、それ」

 話に花を咲かせながら、某女子高――桜香の通う某女子高の方が、梨生奈の通う某高校よりも手前にあるのだ――までゆっくりとした足取りで歩いていく。

 こうやって誰かと登下校を共にすることなんてこれまでほとんどなかった桜香にとって、これもまた新鮮だった。

「そういえば昨日の夜、優羽くんから電話があったんだ」

「わたしのところにも、電話があったわよ」

「そうなんだ」

「えぇ。花村の機嫌良さそうな声、聞いた?」

「聞いたよ。良かったなぁ、って思った」

 優羽がこれまで抱えてきたことが、今回ちゃんと解決したことは、本当に喜ばしいこと。そう、桜香は心から思う。

 たとえこれから、優羽と会うことが叶わなくなったとしても――……。

「これで、生活もちょっとは改善されるかしら」

 心に吹いた隙間風を埋めてくれるかのように、梨生奈がわざと茶化すような口調で言う。だから自分も、ちょっとだけふざけてみせた。

「どうだろうね」

「案外失礼じゃない、桜香」

「あははっ、そんなことないよ?」

 にっこりと笑ってみせれば、梨生奈もまた力強く笑みを返してくれる。嬉しいな、と桜香は単純に、心からそう思った。

 十分ほどすると、某女子高の大きな校舎が見えてくる。まだ始業時間には早いからか、あまり人の姿はない。ここまでの道では飽き足らず、某女子高前で立ち尽くしたまま二人は話を続けていた。

 やがて梨生奈がどこかに目を向け、ひらひらと手を振った。そちらを振り返れば、よく似た綺麗な容姿の少年と少女――どちらも、梨生奈と同じデザインの制服を身に纏っている――がこちらにやってくるのが見えた。

 少年の方が、梨生奈を見て不機嫌そうに顔をしかめる。

「……松木。何でお前がここに」

「朝っぱらからずいぶんな言いぐさね、鳥海くん」

 そんな彼に向かい、梨生奈は機嫌良さそうに軽口を叩いている。少年は何が気に入らないのか、彼女をじろりと睨んだ。

 桜香がそんな梨生奈と少年を不思議な気持ちで見比べていると、不意にその隣から聞き覚えのある、親しげな声がかかった。

「あら、桜香ちゃんじゃない」

 少年の隣でこちらに手を振ってくるのは、かつて図書館で会ったことのある少女・泉水葵。その存在に気付いた桜香は表情を和らげると、ぺこりと頭を下げた。

「葵さん。お久しぶりです」

「今日は、松木さんと一緒に登校してきたのね」

「えぇ。その節はお世話になりました」

「その様子だと、どうやら丸く収まったようね」

「はい、おかげさまで」

 かつて葵を通じ、梨生奈が隠していたことの詳細を知った桜香。そのことと、葵のアドバイスがあったおかげもあり、こうやって梨生奈とまた普通に話すことができるようになったのだと思う。

 ありがとうございました、と葵にもう一度告げたところで、先ほどまで葵の隣にいた少年と話していたはずの梨生奈が、葵を見て何故かニヤリと意地悪そうに笑った。

「ふぅん……珍しいじゃん。『王子』と『姫』が一緒にご登校だなんて」

 今日の校内はきっと、この話題で持ちきりになるでしょうね?

「うるさい」

 不機嫌な表情のまま低い声で呟く少年に、「相変わらずわたしに手厳しいのねぇ」と彼女はまるで気にした様子もなく笑う。見方によっては漫才のようでもあるそのやり取りをキョトンとしながら見ていると、葵もまた自分と同じことを考えているのか、桜香が浮かべているのと同じような表情で二人を見ていた。

 ほぼ同時に、思ったことを口にする。

「二人とも、仲がいいのね」

「お二人とも、仲がよろしいのですね」

 少年はハァ? とでも言いたげに、盛大に顔をしかめる。一方梨生奈は、二人の言葉に至極能天気な様子で答えた。

「そうなのよ。わたしたち、仲良しなの」

 ね? と小首を傾げながら梨生奈が少年を見上げると、少年は苛立たしげにチッ、と小さく舌打ちをした。そんな少年に構うことなく、「あ、でも」と梨生奈はどこか申し訳なさそうに付け加えた。

「でも全然恋愛的なことはないから、安心して。姫……いえ、葵さん」

 どうやら先ほど彼女が口にしていた『姫』とは葵のことで、『王子』というのがその隣の少年のことらしい。

 そういえば前に梨生奈が、某高校で有名な美しい容姿の少年と少女がいるという話をしていたが……それはこの二人だったのか、と桜香はようやく納得した。確かに、二人とも目を見張るほど幻想的で美しい容姿をしている。

「大丈夫よ」

 まるで気にした様子もなく、葵は笑う。梨生奈が醸し出すのとはまた違う、妖艶で――それこそおとぎ話に出てくるお姫様のような、尊大で美しく、自信満々な微笑み。

「あたしは、奏を一生繋ぎとめておくだけの自信があるから」

 少年――奏というらしい――は、大きく目を見開いた。葵と奏の頬がほぼ同時にほんのりと染まるのを見て、なるほど……と桜香はまた納得する。

「朝から惚気? まったく、羨ましいわ」

 呆れたように梨生奈が言う。

「ねぇ、桜香?」

「そうだね」

 問いかけられた桜香は、やれやれというように首を振りながら答えた。

「何だか、見せつけられた感じ」

 葵が片想いしていた相手は、きっとこの人だ。そして、彼もまた葵を想っていた。きっと二人も何らかのことを乗り越え、こうやって『幸せ』を掴んだのに違いない。

 そう思うと、心の底から祝福したい気持ちになった。


「――じゃあ、桜香。またあとでね」

 桜香が校舎内へ入ろうと足を向けると、梨生奈がそう言って軽く手を振ってくれる。直後告げられた言葉に、桜香は素直にうなずいてみせた。

「また放課後にね、梨生奈ちゃん」

 それは、本当の意味で心が通じ合った友人同士としての、二人の初めての約束だった。

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