幸せの在り処

第1章:雪月花

雪・その1

「どうすることが、自分にとって一番の幸せなのか。最近、そういうことを考えることが多くなったの」

 長い睫毛を伏せ気味にし、瞳を翳らせた少女――泉水いずみあおいは、まるで独り言のようにそんなことを口にした。

 その隣を歩いていた雪宮ゆきみや真紘まひろは、いきなりどうしたの、と彼女に聞こうとした。しかしその言葉は喉元で突っかかり、声にならない。仕方なく、真紘は開きかけた口を閉じた。

 葵はそれ以上語る気がないのか、黙ったまま真紘に合わせて歩みを進める。うつむいているため、真紘からはその表情を垣間見ることができない。それは彼に対し、かたくなにその顔を見せまいとしているようでもあった。透明感のある白い両手が、何かに耐えるかのようにギュッと鞄の持ち手を握りしめている。

『どうすることが、自分にとって一番の幸せなのか……』

 彼女の言葉を頭の中で反芻するうちに、真紘の心にちくりと何かが刺さったような、小さな――それでいて確かな痛みにも似た感覚が生まれた。

「幸せ……か」

 気づけば、小さな声でそう口にしていた。葵が顔を上げ、大きな瞳に何か言いたげな光を宿しながら、うつむく真紘をじっと見つめる。

 泉水葵は、一言でいえばとても美しい容姿をしている。それは常に一緒にいる真紘も、十分すぎるぐらい理解していた。

 弓なりのしなやかな眉に、周りの光を受けて輝く真珠のような大きな瞳と、その周りを包む長い睫毛。すっと通った鼻筋に、ぷっくりとした花びらのように色づいた唇。肌は陶器を思わせるほどすべすべで、その色は淡雪のように白い。小さな顔の周りを囲う柔らかそうな髪の毛は、光の加減では金色にも見える。

 それはまるで、おとぎ話に出てくる姫のような――彼女の容姿の全てが、周りを魅了するのに十分すぎるものだった。真紘でさえ、時折眩しすぎてその顔をまっすぐに見つめることができなくなってしまうことがあるほどだ。

 けれど……いくらそれを差し引いたとしても、今の真紘には葵と目を合わせることができなかった。視線だけをどこか遠くに飛ばしたまま、小さく掠れた声で、真紘は独白のように続けた。

「分からないな。今のままの状態が最良なのか、それとも他に……他に、もっと楽になれる方法があるのか。持て余したこの想いが、消える……いや、少しでも和らぐような、そんな方法が」

「真紘ちゃん……」

 ためらいがちに、葵が真紘の名を呼ぶ。

 吐息交じりの声で、何もかもを諦めたかのように、一言こう言った。

「報われないわね、あたしたち」

「ホントに」

 遠くを見るような目で、真紘は答えた。

「ホントに……お互い、報われない恋をしているもんだよね」


    ◆◆◆


「なーにボサッとしてんだよっ」

「わっ」

 後ろから肩を叩かれ――というよりは、身体ごと突進され、と言った方が正しいかもしれない――、意図していない衝撃に身構えているはずもない真紘の身体は思わずよろけてしまった。どうにか踏ん張ったことで転ぶのを阻止し、眉をひそめながら振り返る。

「っと……危ねぇな、優羽ゆう

「お前がちゃんとしてねぇのが悪いんだろ。もう少し危機管理ぐらいしろっての」

 振り返った先にいた、真紘より少し背の高い少年――花村はなむら優羽は、まるで悪びれた様子もなくあっけらかんと告げる。

 ちょっと軽薄な雰囲気の彼は、真紘がいつもつるんでいる友人の一人である。見た目通りいい加減なところも多々あるものの、明るい性格の彼とは一緒にいて楽しいし、いつだって盛り上がることができるので、なんだかんだ言っても真紘は彼が好きだった。

「相変わらずだなぁ」

 言いながら目の前の友人に半ば呆れていると、その後ろからひょこりと無表情が――もとい、無表情を浮かべたもう一人の男子生徒が現れた。

「真紘、コイツに何言ったって無駄だよ」

「まぁそんなの最初から分かってるけどさ……おはよ、りょう

「はよ」

 どこかホッとしたような真紘の声掛けに、少年――秋月あきつき玲は低いぶっきらぼうな声で答えた。別に怒っているわけでも不機嫌なわけでもなく、もともといつもこのようなテンションなのだ。

 玲は一見不愛想でとっつきにくいオーラを醸し出しているが、いざ話してみるとよく喋るし話のテンポも良く面白い。真紘も最初は近寄りがたかったものの、今ではなかなかいい性格をしているのではないかとさえ思っているほどだった。

 周りにクールな印象を与える切れ長の目をすっと閉じると、やれやれと言ったように首を振りながら玲はため息交じりに言った。

「コイツはもともと頭のネジが数本飛んでんだから。もう手遅れってやつさ」

「ちょーい、今のは聞き捨てならねぇですぜ玲さん」

「あ、なるほど。確かにそうだね」

「何気に真紘さんも同意しないでくだせぇよぉ、傷つくじゃないすか」

「何キャラだお前」

 さらりと毒舌を吐く玲の肩に、まるで酔っ払いが絡むように腕を乗せる優羽と、鬱陶しそうに眉根を寄せながら冷静に応対する……というより、あしらっている玲。そんな二人のなんだかんだで小気味良い楽しげな掛け合いに笑いながら、一緒になって優羽をからかいにかかる真紘。

 誰もがそんな三人の姿を見て、笑う。

「今日も仲のいい三人だなぁ」

 そう言って、微笑ましげに頬を緩める。

 だが……その傍観者たちは、誰も気が付かない。

 話の途中、優羽がさりげない仕草で玲の身体に触れる時、玲の身体が僅かに強張っていること。それでいて、彼の触れる手を嫌がりもせず、むしろ心地よさそうに受け入れていること。

 茶化したような口調で調子よくペラペラと喋る優羽の目が、ある方向・・・・を見つめながら、愛おしげに細められていること。

 そして……そんな二人の姿を見ながら明るく笑う真紘の瞳に、一瞬隠しようもない痛みが過ぎっていることに。


 ――雪宮真紘は、恋をしていた。

 そして同時に、彼はそれが――自分の持つこの感情が、他の人が通常持つであろうものと一味もふた味も違う形式のものであることをよく知っていた。決して祝福されるようなものではないということも……決して、報われるようなものではないということも。

 彼は、自分が友人と呼んでいる人間に対して、単なる友情で済むようなものではないような感情を抱いていた。友情以上の狂おしいほどの感情を、いつの間にか抱いてしまっていた。

 それだけならば、まだよかった。それだけならばまだ救いようもあったし、可能性だっていくらでもあっただろうから。友情から始まる恋というものも少女漫画などではよく存在するし、実際に真紘本人も何例かそういったものから始まった恋を見たことがある。

 問題は、相手が――彼が、真紘と同じ男だということだった。

 そしてもっと問題なのが、その彼にもまた、自分ではない好きな人がいるということで……。

 真紘は知っていた。彼の――玲の好きな人が、同じく友人であり同性である優羽だということを。

 彼にとってこれは推測ではなく、確信だった。ずっと玲のことを見つめ続けていたのだから、その心境に気が付かないはずなどない。

 そして多分、優羽も玲のことが好きなのだ。これもまた、彼にとっては確信に近いことだった。

 けれど、彼らは互いにその想いを言葉にできずにいる。

 その代わりに彼らは、互いにただの友人同士でいながらも、自らの想いを貫こうと……またそれを忘れようとしている。

 玲はかたくなに花弁を閉じ、外の空気を一切入れようとしない蕾のように、どんな虫をもその花弁の中に――どんな人をも、その心の中に受け入れようとはしない。彼は決して、誰とも付き合おうとはしない。

 一方、優羽はまるで極上の蜜を求める蝶のように、花から花へとその身を委ねては離れ、委ねては離れを繰り返している。ただ一人、決して手に入らない(と思っている)人の面影を追うように、優羽は今日も今日とて誰かをその腕に包む。どうしようもなく寂しくなった時には温もりを求め、違う人間を抱く……彼はずっと、そんな日々を送っているのだ。

 真紘は一人、そのことを知りながら……毎日毎日、三人の現在の関係をいつ失ってしまうのかと恐れている。二人が結ばれることで、自分一人が置き去りにされてしまうことを、何よりも怖がっている。

 両想いであるはずの二人に、一刻も早く互いの想いを通じ合わせてほしいと……大事な友人であるはずの、二人の恋が成就してほしいと切に思いながらも、ずっと今のままでいられたらいいという卑怯な思いも確かにある。

 本当ならば、互いの想いを唯一知る自分が橋渡しをしてあげればいいのだ。自分には、その義務がある。

 頭では分かっていたが、真紘がそれを実行するには、いささか自分の想いが大きすぎた。報われないはずのこの想いは、彼が抱えるには大きすぎて、重すぎて……それが執拗に、真紘の邪魔をする。

 自分の恋がどうあがいても叶わないというのなら、いっそこのまま誰の想いも叶わなければいい。

 このまま、一方通行の恋で構わないじゃないか。

 それで、誰も報われなければいい……。

 そんな暗く醜い想いが、友人への純粋な想いに――友情に、勝ってしまう。

 弱い心だと、真紘は思う。こんなことを考えている自分が、玲に――また他の誰かに、好かれるはずなどないじゃないか。

 結局真紘は今日も二人の側で、何も知らないふりをしながら、彼らとともに笑うのだ。

 いっそ叫びだしたいほどの、溢れ出しそうなどうしようもない感情を心に抱えたままで。

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