月・その5

「おい、お前らホントに何かあったのかよ」

 この数日、時間が空くごとに幾度となく発せられた問いに、玲は内心深い溜息をつきたくなる衝動を抑えた。肩の鞄を掛け直すと、少しの感情も表に出すことなく、いつも通りの無表情で冷静に答える。

「別に、何でもないって」

 しかし幾度そう答えても逆効果らしく、周りの勢いはさらにヒートアップするばかりだ。

「オイオイ、水臭いぞ秋月」

「そうだよ、俺らの目が誤魔化せるとでも思ってんのかよ?」

 そりゃ誰の目にも誤魔化せてないだろうな、と玲は思う。

 この数日の、三人の――特に真紘の――行動は、誰が見ても明らかにおかしいと分かる。それほどまでに、真紘が二人を避ける様子はあからさまだった。

 普段三人が揃っているところを、誰もが少なくとも一日に一度は目撃しているぐらいなのだ。

 そんな当たり前だった光景が、ある日突然ぱったりと止む。それは当人たちにとってももちろんだが、周りの人間たちにとっても非日常であり、異常な光景だった。

「ほら、みんな。玲のことは放っておいてあげなよ」

 不意にパンパン、と両手を叩く軽やかな音が教室中に響いたかと思うと、聞き覚えのある声がした。もはや顔を見なくてもわかる、奏のものだ。

「みんな、これから部活とかあるんでしょ? 早く行かないと遅れちゃうよ」

「けどよ……」

「玲のことは、俺が何とかするから」

 静かな、それでいて有無を言わさぬ声色だった。そのはっきりとした物言いは、一種の信頼感さえも覚える。

「ちぇー、いっつもちゃんと事情を知ってるのは鳥海だけなんだよな」

「まぁ、やっぱり幼馴染だしな。秋月も、鳥海にだけは何でも話せるのかもしんないぜ」

「まぁいいや。この件は、鳥海に任せようぜ」

「そうだな。ってかさっさと部活行かねぇと、本気で顧問にどやされるぜ」

「やべぇ! 行こ行こ」

 口々に言いながら、玲の周りを囲んでいたクラスメイト達は不思議と納得したように離れ、教室を出ていく。彼が穏やかな性格ながらも絶対的な影響力を持つのは、天性の才能なのか。それとも、美人ゆえの役得か。

 ――まぁ、どっちでも別に構わないか。

 どっちにしろ、今の玲にそれを顧みている暇はなかった。

「玲、大丈夫?」

 うつむきがちに佇んでいた玲の顔を覗き込むようにして、奏が声を掛けてきた。細く形のいい眉が、見事なまでに綺麗なハの字を描いている。こんな困り顔すらも画になるのだから、美人というのは得なものだと、こんな時ながら玲は思った。

「真紘も優羽も、最近この教室を通りかかってすら来ないね」

 玲から顔を離した奏は、放課後で人通りが多く、やたらと騒がしい廊下を一瞥する。

 当然ながら、その中に真紘の姿も優羽の姿もなかった。この教室を通り過ぎる以外にも移動手段はあるので、恐らく二人とも――真紘は特に神経質になって――避けているのだろう。

 顔を上げ、奏と同じ方向を見た玲は力なくうなずく。

 玲は、奏にだけはこれまでの経緯を話していた。三人が離れ始めた――というか、真紘が二人を避け始めた――その日に、全てを包み隠さず。

 とてもではないけれど、自分一人で抱え込める量ではなかった。

 その上で、もし誰かに打ち明けるとするならば……それはやはり必然的に、幼馴染であり秘密の共有者でもある奏だけだった。

「奏……今日、部活は?」

 掠れ気味の声で問えば、奏は軽い調子で肩をすくめてみせる。

「まぁ、うちの部活は基本フリーだからね。気楽な文化部ですから」

「そっか」

 フッ、と玲は表情を緩める。

 それから二人は、どちらともなく教室を出ると、並んで歩き始めた。このまま帰るとも、どこかに寄るとも言っていないけれど、なんとなく二人の足は揃って屋上へと向かっていた。

 五階に上り、鍵がかかった屋上の隙間をくぐると、初めて奏にこの場所へ連れてきてもらった時と同じように、埃っぽく足場の悪い道を二人で真っ直ぐに抜けていく。やがて光が差し込む場所に辿り着き、ぼんやりと明るく浮かび上がるのは、風化した階段。その数段を上ると、いともたやすく屋上へと入ることができた。

 案外新しいらしいグレーの手すりに、二人並んでもたれかかる。よく晴れた青い空には、一筋の飛行機雲が流れていた。

「もともと俺らの関係って、とんでもなくこんがらがってたんだよな。こんなんでよく、何事もなかったかのように友人同士でいられたもんだ」

 空の飛行機雲を目で辿りながら、独り言のように玲は話し始める。傍らにいる奏は、何も言わない。玲からはその表情が見えなかったし、見ようともしなかったけれど、きっと自分の話をちゃんと聞いてくれているだろうという確信があった。

「俺は優羽が好き。でも、優羽は真紘が好き。んで……真紘は、俺のことが好き。何回聞いても笑っちゃうだろ。三角関係じみているって、前に言ったと思うけれど、ホントに見事な三角関係だった」

 フフッ、と笑いを含んだ声で玲は言う。けれどその声は自分でもそうと分かるほどに震えていて、正直今にも泣いてしまいそうだった。

「けど、真紘は誤解してるんだろう」

 それまで黙っていた奏が、いきなり口を開く。ゆっくりと傍らを見ると、奏は先ほどまでの玲と同じように飛行機雲を目で追いながら、どこか遠い目をしていた。色素の薄い髪が太陽の光を受け、風が吹くごとにキラキラと金色に光る。その肌は透き通るように白く、いっそ病的にも見えた。

 玲の視線にも構う様子を見せず、奏は淡々とした声で続ける。

「真紘は、お前が優羽を好きなことを知ってる。でも、優羽もまたお前のことが好きなんだって、二人は両想いなんだって、今も勘違いしている。そうなんだろう」

 あぁ、と掠れた声で答えれば、奏は不意にうつむいた。金色に光る髪がサラリと揺れ、まるで幻想的なカーテンのように彼の白い頬にかかる。

「誤解を、解かないままでいいの?」

 奏の言葉は、もっともだ。このまま真紘に誤解を与えたままでは、ずっと今のままの苦しみを、彼に与え続けることになる。

 優羽は、真紘に笑って欲しいと思っている。きっと彼は、笑っている真紘が何より好きなのだ。

 玲だって、同じだった。たとえ、『好き』の形が違ったとしても。

 けれど……。

「誤解を解けば、また違う苦しみを真紘に与えることになるだろ」

 吐き捨てるように、玲は答える。

 真実は、真紘が思っているよりもずっと複雑だ。全部を知ってしまえば、幸せになるための糸口なんて掴みようがない。

 現に玲だって、真実を知ってしまった今、どうしたらいいのか全くわからないのだ。

 どうすることが正しいのか。どうすれば、自分も優羽も、そして真紘も、みんなそれぞれ『幸せ』だと思うことができるのか。

 自分たちにとっての『幸せ』は、一体どこにあるのか。

 不意に奏は顔を上げ、玲を見た。色素の薄い瞳を、玲の切れ長の瞳に――その中に宿る感情に、向かい合うようにして合わせる。

 唇をキュッと引き結び、奏は半ば睨むようにして玲を見た。そして固い声で、きっぱりと告げる。

「本当の気持ちをぶつけ合わなければ、救われないことだってある」

 互いの本心を知らなければ……『幸せ』に近づけないことだって、ある。

「言葉を虚像で飾り立てて、どれだけ相手を喜ばせることができても……それは、幸せとは言えないんじゃないかな」

 なぁ……そう思わないか、玲?

 尋ねられ、玲は頭が混乱してくる。

 真実を知らない今のままでは、真紘も――自分たちも、苦しいまま。それは分かっている。

 嘘をついても、真紘は――自分たちは、きっと救われない。

 けれどいくら真実を知らせても、それはただ新しい苦しみを真紘に植え付けるだけじゃないのか?

 それとも……真実を知らせても、真紘はこれ以上苦しまない?

 じゃあやっぱり、三人で本音をぶつけ合うことが、一番正しい選択なのか?

 それが『幸せ』への、何よりの近道なのか?

「本当の気持ちを知らせれば……真紘に新しい真実を知らせてやれば、俺たちは救われるのか?」

 幸せに、なれるのか?

 穏やかな笑みを浮かべながら、奏は首をゆるりと横に振る。

「それは分からない。だって……真実を知ったうえでどうするかは、お前たちが決めることだから」

 『幸せ』の形を決めるのは、お前たち三人だから。

 柔らかい声で、けれどきっぱりと、奏は告げる。玲は大きく息をつき、手すりにぐったりと身体を預けた。

「幸せを決めるのは、俺たち三人……か」

「そうだよ」

 奏はあくまで、穏やかな表情を崩さない。

「俺はただ、そのためのアドバイスをしてるだけ。こうすればいいんじゃないかな、っていう、単なる客観的な意見。セカンドオピニオンってやつだね」

「セカンドオピニオン、ねぇ……いやお前、いつからその道の専門家になったんだよ」

「まぁまぁ、それは単なる言葉の綾だから」

 玲の鋭いツッコミに、奏は何故か満足そうに笑う。

 それから奏は手すりに身体をもたせ掛け直すと、自らも深い溜息をついた。いきなり何事かと傍らを見る玲に、どこか寂しそうな――やりきれなさそうな、皮肉めいた笑みを向ける。

「俺も、本当の気持ちをぶつけ合ってみるべきかなぁ」

 それが何のことを指しているのか、玲にはすぐに分かった。

「泉水と、話をしてみるのか」

「そうだなぁ……」

 言いながら奏は、男のものにしては少し華奢な、細く白い指を、薄桃色の唇に軽く当てる。

 しばらく悩むようなそぶりを見せたあと、奏は僅かにうん、と呟いた。

「それも、視野に入れてみるよ」

 彼女が素直に従ってくれるかは、わからないけれどね。

 ほんの少し寂しさの過ぎる声に、玲は小さく「そっか」と呟いた。

 昼間よりも幾分か冷たい風が、玲と、そして奏の頬を順番に撫でていく。

 これまで求めてきたものの糸口が、少しだけ見えてきたような気がして、玲は少しだけ気持ちが軽くなっていた。

 これから、どういう方向へ行くのかは……辿り着いた先に待っているものの形がどのようなものかは、まだ分からない。

 でも、きっと……。

「悪いことだけじゃ、ないよな」

 奏にそう問うてみれば、彼は先ほどと同じ穏やかな笑みで、即答した。

「あぁ、きっと」

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