花・その5
真紘や玲とのいざこざがあり、二人と時間を過ごさなくなってから――というより、避けられ始めてから――今日でおよそ一週間ほどが経った。
今日は日曜日で、学校は休みだ。いつもの週末は、あの二人と一緒にどこかへ遊びに行ったり、女の子と泊まりがけでデートしたりして過ごしている優羽だが、この週末はどこにも出かける気になれず、ずっと家にいた。
両親は外出しており、兄弟たちもどこかへ遊びに行っている。つまり現在、優羽は家に一人っきりだった。
起床してからほぼ離れていないベッドの上で、ふぅ、と息をつく。
「頭痛いな……」
寝すぎているせいで痛む頭を片手で抱えながら、優羽は小さく呟いた。
けれどもう、今の優羽には寝るぐらいしかすることがない。これからどこかへ出掛ける気力も、誰かをここに呼び出すほどの気力さえもなかった。
それに……こうやって起きていたら、考えたくもないはずの色々なことをぐちゃぐちゃと考えてしまいそうで、怖かった。
目を閉じるだけでも、涙を浮かべながら怯えたようにこちらを見る真紘の姿や、切れ長の目から一筋の涙を流し微笑む玲の姿が、次々と思い浮かんでは消えていく。
いくら自業自得とはいえ、それだけでも優羽にとっては十分すぎるほど辛く苦しいことだったのに。今でも鮮明に思い出せる、その詳細さえも脳裏に浮かんでしまっては、もはや生き地獄以外の何物でもない。
思考を閉じるためには、寝るという手段しか優羽にはなかった。
もう一つ、深い溜息をついた時。
不意に、インターホンの音が家中に鳴り響いた。突然のことに驚いた優羽は、思わずベッドから跳ね起きる。
「誰だよ……」
舌打ちとともに機嫌悪そうにそう吐き捨てながら、優羽はベッドから降り、自室を出た。他に家に誰もいない以上、客が来た時の対応は自分がするしかない。居留守を使うという手もあるが、前に一度それをしたところ、思いのほか重要な客だったらしく、あとで親にこっぴどく怒られてしまったのだ。
さすがに、また怒られてしまうのは勘弁願いたかった。
階段を降り、玄関へ向かうと、誰が来たかも確かめようとせずに優羽は鍵を外し、何のためらいもなくドアを開ける。
「不用心ね。もし不審者やセールスだったら、どうするつもりなの」
優羽の姿を認めたとたんそう口にした、その少女の声に優羽は覚えがあった。恐る恐るというように、ドアの前に立つ客に焦点を当てる。記憶にある姿と目の前の姿が一致したとたん、優羽は驚きのあまり大きく目を見開き、固まった。
「久しぶり、花村」
優羽の目の前に立っていた少女――松木梨生奈は、呆然と立ち尽くす優羽に向けて、ひどく優雅に微笑んだ。
「――いったい、何の用だ?」
せっかく来た客を無下に帰すわけにもいかず、とりあえず梨生奈を客間に通すと、優羽はいまだ抜けきらない混乱を必死で抑えながら問う。
ソファに腰かけ、礼儀のしるしとして出された珈琲のカップを口にしながら、梨生奈はクスリと小さく笑った。
「何の用だ、なんて……ずいぶん、ひどい言いぐさね」
その様子は、かつての関係を切ってから今まで優羽を必要以上に避けてきた人間のものとはとても思えない。
彼女を問い詰める立場だったはずなのに、何故か優羽の方がたじろいでしまっていた。掛ける声が、自然と上ずる。
「いや……だって。どういう風の吹き回しだよ。お前、関係を切ってからこれまで露骨に俺のこと避けてきたじゃんか」
梨生奈は愉快そうに、クスリと笑った。
「これから女の子を口説くうえで大事なことだから、覚えとくといいわ、花村。女の子の気持ちっていうのはね、とかく変わりやすいものなのよ」
「答えになってなくね?」
「十分、答えになっているわ」
いつの間に梨生奈は、他人に対してこんなに強気にものを言うようになったのだろう。
出会った頃から梨生奈はただ純粋に、クラスメイトである彼の――玲のことだけを一心に思っていて……そんな姿が真紘と重なったから、なんとなく身体の関係を持ちかけた。
梨生奈は最初拒否したけれど、玲が別の人間に想いを寄せていることをなんとなく知っていたのだろう。自分の想いが報われないと、気付いてしまっていたのだろう。
まるで心にできた傷を癒そうとするみたいに、ある日突然優羽へとすり寄ってきて……気づけば二人は、そういう関係になっていた。
そこで、そういえば、と優羽は思い立つ。
風の噂で聞いた、彼女が玲に告白したという話。その結果は改めて聞かずとも最初から分かっているし、梨生奈自身も知っていたはずだ。
けれど……。
「玲に、振られたんだって」
何の前触れもなくそう口にすれば、梨生奈の身体が一瞬強張った。優羽を一瞬だけチラリと横眼で見て……また、目を逸らす。
掠れた声で、梨生奈は答えた。
「……えぇ」
一気に生気を抜かれたような、その消沈した様子で分かった。梨生奈はきっと、未だに玲を引きずっているのだと。
前にもう一つ耳にした、彼女が真紘に接触を図ったという噂についても、これで説明がつく。
梨生奈をまっすぐ見ることができないままで、優羽は続けた。
「真紘に声を掛けたのは……玲を、諦めきれなかったからか」
「そうよ」
梨生奈は間髪入れずに答える。
「秋月くんは、好きな人がいると言った。……その人が誰なのか、友人である雪宮くんなら知っているんじゃないかと思ったのよ」
やっぱり、と優羽は思った。
でも真紘にとって、それを聞かれるのは何より残酷なことだったはずだ。だって真紘も、玲が好きなのだから。
その事実についても、玲が本当に好きな人間が誰かということも、梨生奈は知らないままだ。もし知ったら、どうなるのだろう……と、少しだけ意地悪な気持ちになる。
そんなものをばらしたところで、意味はないことぐらい分かっているのだけれど。
「秋月くんには、踏ん切りがつくだなんて強がりを言ったけど」
寂しげな横顔を優羽に向けたまま、梨生奈はそう続ける。そしてほんのわずかに口をつぐんだかと思うと、聞き逃しそうなほど小さな声で呟いた。
「ねぇ、花村……いくら一縷の望みさえ失ったとしても、それでもどうしても諦めきれないのは、辛いことね」
「そうだな」
反射的に、優羽は答える。
「本当に……その通りだよ」
こくり、と小さく梨生奈は首を縦に振った。まるで暗くなった気持ちを切り替えるかのように、ほとんど量の減っていない珈琲を一口喉に流し込む。
それから唐突に優羽へ顔を向けると、梨生奈はこれまでと何ら繋がりのなさそうな話題を持ち出してきた。
「そういえばね……最近、風早桜香と一緒に過ごす機会が多くなったの」
「桜香と?」
自分たちとは学校が違うため、面識を持たないはずの彼女の名が梨生奈の口から出たことに、優羽は思わず目をぱちくりとさせた。
優羽の反応が面白かったのか、梨生奈は口に手を当て控えめに笑う。
「まぁ、学校が違うと言ってもそんなに遠くないから。ちょっとしたタイミングで知り合って意気投合して、一緒に過ごすようになったのよ」
その話の、どこまでが本当かは分からない。けれど梨生奈の口振りからして、それが真っ赤な嘘であるというようには感じなかった。
「あの子も、花村のセフレなんでしょ。本人から聞いたわ」
そこまで知っていたか……。
もう梨生奈とは関係を切っているけれど、なんとなく気まずい気分になって、優羽は梨生奈から目を逸らした。
ふふ、と小さく笑うと、梨生奈はさらに続ける。
「気が向いた時だけ、身体を貸し出す……セフレなんて所詮そんな扱いなのに、あの子は強いし、ひたむきな子だわ。『あたしは、優羽くんが自分を通して違う人を見ていても構わない。それで一時でも、彼が幸せになってくれるなら……』って。あの子は本当に純粋で、まっすぐね」
「……あぁ」
曖昧に答えることしか、優羽にはできない。
桜香が自分に向けてくれる純粋な気持ちも、優羽は痛いほど感じていた。どんなわがままを言っても、彼女は必ず叶えてくれた。優羽の恋愛感情が自分に向いていないことを知っていても、それでも優羽のために尽くし、支えてくれた。
そんな彼女に恋ができたなら、どれほどよかったか……。
優羽の表情が切なくなったのを、梨生奈は気付いたのだろう。先ほどより穏やかで優しい、柔らかな声になる。
「あなたが最近思い悩んでるみたいだって、桜香に聞いたわ。実は今日来たのは、それを確かめるためでもあったの」
「桜香に、頼まれたのか」
「さぁ、それはどうかしら」
口を開けば、そう意地悪く返される。けれど不思議と、腹は立たなかった。
優羽が黙ったのを見計らったように、梨生奈は再び優しい声になると、言葉を紡いだ。
「……悩んでいるのは、好きな人のこと?」
「まぁ、そんなところだ」
ため息交じりに声を上げる。一度口を開けば、堪えていたはずの言葉が次々と溢れ出てきた。
「俺は、アイツを傷つけた。同時に、大切だったはずの友人のことも……俺は、友情を壊した。それぐらい、取り返しのつかないことをしたんだ」
梨生奈はしばらく何も言わなかった。しばしの沈黙が、部屋中を包む。
やがて梨生奈はポツリと、独り言のように呟いた。
「友達と喧嘩をしたら、仲直りをするのが常識というものよ」
それは至極当たり前のこと。けれど優羽にとっては何より単純で、何よりも重要なことだった。
また一つ背中を押された気がして、優羽は頬をほころばせた。
「ありがとな、梨生奈」
「あら、わたしは別に何もしていないのに」
「言いたくなったんだよ」
笑みを向ければ、梨生奈も同じように微笑む。
久しぶりに、穏やかな時間を過ごすことができた気がした。
◆◆◆
梨生奈が帰宅した後、夜になって自室に戻ると、優羽はベッドに放ってあった自分の携帯電話が光っているのに気付いた。どうやら、メールを受信しているようだ。
携帯電話を手に取り、すぐに確認してみる。差出人は、玲だった。
中身を読み、優羽は改まったような表情になった。もつれる手元を無理やり動かし、返信を打つ。
『送信完了』の文字が画面に踊ったのを確認すると、優羽は再び携帯電話をベッドに放り投げた。そのまま自身もベッドにダイブすると、仰向けのまま軽く目を閉じる。
「とうとう明日、決着がつくわけだ」
自分に言い聞かせるように、優羽はそう声に出して呟いた。
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