雪・その6

 週明け、授業を終えた放課後。

 特定の部活に所属しているわけでもないため、放課後の真紘は特に用事がない。前までなら、部活前の優羽や委員会前の玲などと一緒に過ごすこともあったけれど、今はもうそんなこともしなくなってしまった。そのことに一抹の寂しさを覚えながらも、真紘は何も言わぬまま荷物をまとめる。

 週をまたいだころには、さすがにもう周りはこの状況に慣れてしまったのか、真紘たち三人が離れてしまった理由について問い詰められることも減って来ていた。

 それでもたまに、どこかから気がかりそうな視線を向けられるのを感じることがある。そのたびに、真紘は胸が痛んでいた。

 三人で過ごすことがなくなってから、必然的に葵と一緒に過ごすことが増えた。登校は別だが、それ以外はほぼ一緒だと言っても過言ではないかもしれない。

 玲は同じように奏と一緒にいることが増え、優羽は普段と変わらずその隣に不特定多数の女の子を連れているという。できるだけ接触を避けるようにしているので真紘自身は目撃していないが、風の噂でそう聞いた。

 こうやって、三人はこのままバラバラになっていくのだろうか……。

 それじゃ不満だと、心は叫ぶ。

 けれど仕方がない。こうするより、他に方法はないのだ。自分はもうこれ以上、二人と一緒にはいられないのだから。

 真実を知れと、葵は言った。

 けれど真紘にはまだ、その勇気が持てない。二人と顔を合わせるのが、話をするのが、とてつもなく怖かった。

 やっぱり自分には、そんなことできない……。自分が知らないというその真実を知って、その上で幸せを再構築することなんて、絶対に無理だ。

 これ以上はもう、どうしようもない。これ以上傷つくくらいなら、いっそこのまま二人との関係を断ち切ってしまった方がマシに思える。

 きっと、この状況にもそのうち慣れる。二人と友人だったことなど、いずれは記憶から消えていくだろう。

 胸の痛みも抵抗も、心にぽっかりと穴が開いたような空しい気分も、きっと一時のこと。きっと……今だけだ。


 今日は、葵は教師に呼び出されているとかで遅くなるという。そのため真紘は先に一人で帰ろうと、鞄を肩に引っ掛け教室を一歩出た。

 が……。

 目の前に誰かが立ちはだかっているのに気付いて、真紘はふと足を止めた。うつむきがちだった顔を上げ、息を呑む。

 乾ききった口から、絞るような声が漏れた。

「玲……」

 真紘の前に立ちはだかり、目線より下にある真紘を切れ長の目でじっと見下ろしていたのは、まるで言い逃げのように想いを告げて以来ずっと避け続けてきた人――玲だった。

「どうして、ここに」

「話がある、真紘」

 真紘の言葉を遮り、玲は表情を変えぬまま淡々と言った。その瞳がやけに真剣で、真紘は思わず恐怖を覚える。

「っ!」

 傍らの隙間を潜り抜け、とっさに逃げようとした真紘の動きを予測していたかのように、玲の腕が真紘の手を掴む。パシリッ、と軽い音がした。

「……離せよ」

「嫌だ」

 有無を言わさぬ声で、きっぱりと告げる。懇願するような瞳を向けた真紘に、玲は睨むような視線を向けることで応えた。

 その迫力に気圧されながらも、真紘はなおも抗おうと掴まれた腕を振りほどこうと暴れた。けれど思いのほか掴まれる力は強く、びくともしない。

 泣きそうな顔になった真紘に、玲は静かに言った。

「今日こそは、絶対……逃がさないって決めた」

 真紘にどうしても、知ってほしいことがあるから。

 その瞬間、真紘の身体が強張り、固まる。

 玲はこれから、真紘に全てを知らせる気なのだ。もうこれ以上、真実から目を背けさせないと。もう逃がさない、とでも言うように。

 とたんに怖くなり、小刻みに震えだした真紘の腕をいつもより乱暴に引くと、玲はそのままゆっくりと歩きだした。すっかり自由が利かなくなった真紘は、されるがままに引っ張られていく。

 玲が向かったのは、あの日――真紘が告白した日に連れて行かれた、屋上に向かう踊り場だった。もう放課後だし見ている人もあまりいないのだから、わざわざそこまで連れて行く必要もないように思うが、玲はそこに行った方がきっと一番話しやすいのだろう。

 そう思うと同時に、真紘の心拍数はどんどん上がっていく。あの場所に辿り着くのが、怖い。

 これから、玲の口からは何が語られるのか……それを耳にするのが、とても恐ろしい。

 けれど、この足を止めることはできなかった。真紘が立ち止まるよりもずっと強い力で、玲がその腕を引いて行くから。もうこうなっては着いて行かざるを得ないと思うし、もはや逆らうことすらもできなくなっていた。

 数分もかからないうちに、二人は目的地だった屋上近くの踊り場に辿り着いた。掴んでいた腕を離し、こちらへと向かい合う玲の顔を、真紘はまっすぐ見ることができない。

 顔を伏せた真紘は、玲に掴まれていたことでほんのり赤みのさした、自らの腕を見つめた。

「こっちを見ろ、真紘」

「……」

 いたわるように優しく、静かな声が頭上から振ってくる。なおも真紘がうつむいたままでいると、その頬を手のひらで包まれ無理やり上を向かされた。

 まるでキスするみたいなその状況と至近距離に、真紘の顔は条件反射のように熱くなる。切れ長の瞳に映った自分の、なんと滑稽なことか。

 フッ、と小さく笑うと、玲は真紘の頬から手を離した。力が抜けそうになるのを、どうにか堪える。

 真紘から少し距離を取ると、玲は改めて真紘に向かい合った。その表情は相変わらず無に等しいけれど、その瞳には、彼の見た目に似つかわしくないほどの熱い何かが宿っていた――ように真紘には見えた。

 怯えた子犬のような気持ちで、真紘はその姿を見つめ返す。

 玲はしばらくそのまま黙って真紘を見つめていたが、やがて彼が話を聞く体制になったと見計らうと、閉ざしていた薄い唇をゆっくりと開いた。

 百合の花のようにまっすぐで、繊細なそれに見惚れている間もなく、その口からは真紘にとって予想外のことが語られ始める。

「真紘。まずお前は、一つ誤解をしている。……優羽の好きな奴は、俺じゃないんだ」

「えっ」

 一瞬何を言われたのかわからなくて、だらしなく口を開けたままになってしまう。そんな彼の反応などとうに予想済みだったかのように、玲は表情を変えぬまま続けた。

「お前が言った通り、俺は優羽が好きだよ。……そういう、恋愛的な意味で。でも、優羽と両想いだっていうのは違う。優羽には確かに好きな奴がいるけど、それは俺じゃない。どれだけ願ったって、あいつは俺に振り向いてはくれないんだ」

 玲の眉根が僅かに寄った。切れ長の瞳に、苦悩が浮かぶ。そんな表情の変化に、真紘はさらに胸が締め付けられるのを感じた。

 自分には、玲にそんな表情をさせることはできない。それを容易くさせるのは、いつだって……優羽だけなのだ。

 動揺に震える息を整えるように、玲は一つため息を吐いた。それから再び、瞳に宿る光以外の表情を全て完璧な無に戻していく。

 真紘はたまらず口を開いた。うまく出ない声を無理に絞り出すように、叫ぶように言う。

「何でっ……何でそんなこと、断言できるんだよ。全部、お前の思い込み……妄想かもしれないじゃんか」

 玲は切れ長の瞳をすっと細めた。きりっとした印象がそれだけで途端に柔らかなものになり、真紘は思わず息を詰める。

 静かな――いっそ穏やかといっていいほどの調子で、玲は答えた。

「お前が俺の好きな人間に気付いたのは、俺をずっと見ていてくれたからだろう?」

 まるで促されるかのように、真紘はこくりとうなずく。小さく笑って、玲は同じ調子のまま続けた。

「それと同じだ。俺もずっと、優羽を見ていた。だから……気付いたんだ。優羽が、俺以外の人間を見ているってことに」

 それが誰だかってことまでは……残念ながら、少し前まで分からなかったんだけどな。

 恥じるでもなく、誇るでもなく……だからといって自重するわけでもなく、玲はそう言い切った。声だけは柔らかなまま、しかしそれ以上の感情を込めることなく、ただ淡々と。

 真紘は泣きたい気持ちになった。玲の優羽に対する深い想いも、真紘自身が持つ、玲への狂おしいほどの想いも……どうして全部、当人に届かないのか。

 優羽も同じように、誰かに恋をしている。

 その人はいったい、何を思っているのだろう。その人もまた、優羽ではない誰かに恋焦がれているのだろうか。

 そしてその人は……いったい、誰なのだろうか。

「玲……お前は、優羽の好きな奴を少し前まで・・・・・知らなかった、って言ったよな」

「あぁ」

「じゃあ、今は知ってるのか」

「……そう、だな」

 ためらうように、玲が答える。

 考えるより先に、真紘は口にしていた。知りたくなかったはずの真実を、自ら促す言葉を。

「じゃあ、それは一体誰だっていうんだよ」

 見れば、玲はひどく穏やかな表情を浮かべていた。先ほどと表情の変化はほとんどないものの、纏う雰囲気が格段に柔らかくなっている。

 そのまま玲が口を開こうとしたちょうどその時、突然真紘の後ろから別の声がした。

「お前だよ、真紘」

 びくり、と真紘の肩が跳ねる。同時に彼は、もともと大きな目をさらに大きく、こぼれんばかりに見開いた。

 それは聞き慣れたトーンではあったけれど、いつも聞いていた軽い雰囲気のものとは違う、静かで、知的ささえ感じさせる声だった。

 後ろにいるのが誰なのか、真紘は分かっていた。けれど、振り向くことができない。まるで石にでもなったみたいに、身体が動かない。

 真紘に――正確には、真紘の背後に――目をやった玲が、僅かに笑んだ。まるでがここに来ることを初めから知っていて、その時をずっと待っていたかのように。

 脳の全機能をフリーズさせた真紘に、背後の声――優羽は子供に教え諭すかのように、もう一度その言葉を告げた。

「俺が好きなのは……雪宮真紘、お前だ」

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