雪・その5

 真紘が玲や優羽に近づかず、それどころか露骨に避けるようになってから、数日が経った。

 事情を知らない周りのクラスメイトや同級生などの目にも、真紘の――というか、いつも仲良しなはずの三人の――異変は明らかだったようで、「どうしたんだよ」だの「ケンカでもしたのか」だのと口々に声を掛けられる。

 そのたびに真紘は曖昧な笑みを浮かべながら「いや……別に、何でもないよ」と答えるのが精いっぱいだった。けれど自分は嘘を吐くのが苦手なので、きっとこの誤魔化しも周りに容易く見破られていることだろう……と、真紘は自分自身でも感じていた。

 もういっそ、打ち明けてしまおうか。あの二人とはもう、友人でもなんでもないのだと。

 すべては壊れてしまい、すでに修復のしようもないのだと。

 そうすれば、楽になれるのだろうか……。

 数日前から続く幾多もの質問攻めを切り抜け、ようやく教室内の自分の席に落ち着いた真紘は、ふぅ、と小さく息をついた。

「真紘ちゃん」

 自分の名を紡ぐ聞き慣れた声に、反射的に顔を上げる。いつの間にやら目の前に来ていた葵が、弓なりの細い眉を芸術的なほど綺麗なハの字に曲げてこちらを見ていた。それに気づいた真紘は、それまで脱力していた顔を慌てて笑みに作り替え、努めて明るい声を出す。

「おはよ、葵ちゃん」

 しかし葵は、真紘のそれが空元気であることをとっくに見抜いていたらしい。ますます眉をハの字に曲げ、大きな瞳を心配そうに潤ませるばかりだった。

 そんな彼女を見て、真紘も自然と気持ちが重くなる。

「葵ちゃん……どうして、そんなに悲しそうな顔をするの」

 ポツリと発した問いに、葵は泣きそうな顔で答える。

「真紘ちゃんが、辛そうにしているからだわ」

 やはり葵には、どうしたって敵わないらしい。形は違えど互いに同じ悩みを抱いているからこそ、葵は真紘の気持ちが痛いほど分かって、自分もまた辛いのだろう。

 それほどまでに自分を心から心配してくれるのも、同じように痛みを共有してくれるのも、きっと葵だけかもしれない。

 ならば……葵になら、話してもいいだろう。真紘が、玲や優羽を突如避けるようになった理由を。

 三人がバラバラになる直前に、一体何があったのかを。

 チャイムが鳴る少し前になって、変わらず悲しそうな顔で自分の席に戻ろうとする葵の腕を、真紘は何の前触れもなく引っぱる。突然のことに驚き目を見開く葵の耳元で、控えめに口を開くと、葵が息を呑むのが聞こえた。

「放課後、話がしたいんだ」

 チャイムが鳴る瞬間、吐息のような返事が真紘の耳に届いた。

「わかったわ」


    ◆◆◆


「真紘ちゃん、お待たせ。じゃ、行きましょ」

「……うん。ありがと、葵ちゃん」

 放課後、荷物をまとめて律儀にこちらの席までやって来てくれた葵と連れ立って、真紘は教室を出た。制服や部活動のユニフォームなどを身に纏った生徒たちの群れを、追い越したり追い越されたり、またはすれ違ったりしながら、人通りの多い廊下を互いにゆっくりとした足取りで歩く。

 廊下のあちこちを行ったり来たりする人の波に従いながら、二人ともうつむき気味に、しばし無言のまま歩き続けた。

 玄関に辿り着き、靴を履きかえた二人は、それがまるで当然であるかのように、迷いない足取りで校門を出る。

 学校を少し離れたところで、ようやく人通りのほとんどない場所に出た。周りに関係者が誰もいないことを横目で確かめながら、真紘は吐息交じりに口を開いた。

「……一週間ほど、前になるかな」

 葵は返事をしなかったが、真紘がいつ話し始めても大丈夫なように――いつでも真紘の話を聞けるように、心の準備をしてくれていたのであろうことは空気で分かった。

 そのことにホッとしながら、真紘は一つずつ順序立てて話す。

 役員会議があった日の放課後、教室で優羽と二人きりになった時、突然押し倒され危うくキスされそうになったこと。

 その様子を、どうやら玲に見られていたらしいこと。

 次の日――つまり昼休みに、真紘と玲が連れ立ってどこかへ行ってしまった日――誤解しているらしい玲に問い詰められ……そこで、勢い余って自分の想いを玲に告げてしまったこと。

 途中で声が震えたり息が詰まってしまったり、込み上げるものに鼻がツンとしてしまったりもした。けれど、それでも真紘は一つずつ、確実にこれまでの出来事を全て葵へ打ち明けた。

 どれだけの沈黙が挟まれても、葵は決して口を開こうとしなかった。真紘が全てを語り終えるまで辛抱強く待ちながら、真摯になって真紘の話を聞こうとしてくれていた。

 真紘が語り終え、口を閉じても、葵はしばらく何も言おうとしなかった。その整った横顔をチラリと盗み見てみると、彼女は何やら考え込んでいるようだった。真紘へ掛けるための言葉を、考えているのかもしれない。

 真紘もそれ以上何も言うことなく、決して足を止めようとしない彼女と並んで、ただひたすらに歩を進めた。

 やがて、葵は弱々しく掠れた声でポツリと言った。

「可哀想な、真紘ちゃん」

 見事なまでに、テンプレ通りの言葉。

 けれど彼女の紡ぐそれは、やたらと実感がこもっていて、真紘はひどく胸を締め付けられた。

 その一言に、彼女の想いの全てが集約されているような気がして……。

「けれど……ね、真紘ちゃん」

 真紘が言葉を探しながら、結局何も言うことができずにいると、それを見越したかのように葵は続けた。

「あなたは真実を、知らなくちゃいけないわ、ね」

「……真実?」

 真紘は、彼女の言葉の意味が理解できなかった。

 だって自分は、既に知っているというのに。本当は知りたくもなかったことだけれど、それでも全て知ってしまっているのに。

 玲は優羽のことが好き。そして優羽もまた、玲のことが好き。

 つまり二人は相思相愛で、けれど悲しいくらいに互いの想いがすれ違ってしまっている……。

 それが、真実だ。そうだろう?

 それなのにまだ、これ以上何を知ることがあるというのだろう。

「俺はもう、全部知ってるよ」

 葵に目を向け、はっきりとそう告げる。けれど葵は哀しそうな表情で、ゆるりと首を横に振った。

「いいえ。……真紘ちゃんにはまだ、知らないことが一つあるわ」

 知らないこと?

 玲や優羽、そして葵が知っていることで、けれど自分だけが知らない。そんな真実が、あるというのか。

 それは、誤解などではなくて?

 ……いや、むしろ誤解しているのは自分なのか?

 訳が分からなくなって、真紘は混乱してしまう。口を開こうとしたところで、葵は唐突にそれまでうつむいていた顔を上げた。その澄んだ色素の薄い瞳を、真紘の黒く大きな瞳にしっかりと合わせる。

 先ほど初めて口を開いた時とは打って変わって、芯の通った声で葵は言葉を続けた。

「話し合わなければ、見えない真実があるのよ。三人が通じ合って初めて、それは事実となりえる。だから……いつまでも、逃げていてはいけないのよ。真紘ちゃん」

 真紘はハッとした。そうして、ようやくそのことに気付く。

 真紘があれほどまでに二人を避けるようになったのは、真実を知るのがどうしようもなく怖かったからだった。

 二人のことが嫌いになったからじゃない。

 ただ……二人と顔を合わせ、真実を突きつけられてしまえば、本当に全てを失ってしまうような気がして、怖かった。

 自分が知っていることが――そう思っていることが、やがて二人の口から肯定されてしまったら。

 それが、真実になってしまったら。

 そうしたら……自分は本当に、二人の存在を、二人との思い出を、この心からきれいさっぱり抹消しなければならなくなってしまう。

 二人と友人だったという事実すら、消さなくてはならなくなってしまう。

 でも……。

「知らなくちゃ、いけないのかな。やっぱり」

 そうだ。知らなくては、何も解決しない。

 どれほど逃げ惑ったとしても、いずれはその真実と向き合わなくてはならない時が来るのだから。

 葵は寂しげに笑って、うなずいた。

「知らなくちゃ、いけないのよ。真紘ちゃんも……あたしも」

 何故か『あたしも』という部分だけが、ひどく弱々しく響いた。

 ふっ、と瞳を翳らせた葵は、唐突に真紘から視線を外す。その反応を不審に思った真紘は、眉根を寄せながら葵の顔を覗き込んだ。

「葵ちゃん……?」

 葵は瞳を潤ませながら、ぷっくりとしたつややかなピンク色の唇をそっと噛んでいた。その様子はまるで、深刻な物思いに沈んでいるかのようだ。

 泣きそうな声で、ポツリとつぶやく。

「……皮肉だわ。まさか自分自身の言葉で、気付かされることがあるなんてね」

 どうやら葵の言葉は、葵自身にも共通して言えることだったらしい。彼女は今まさに自分の声を通じて、そのことに気付いたのだろう。

 彼女が何を抱えているのか、真紘はまだ知らない。

 けれどいずれ、彼女も救われる日が来るのだろうか。同じように、背けてきた真実と向き合うことで、苦しみから解き放たれる日が来るのだろうか。

 そして、真紘自身も……。

「どんな形であれ、俺たちが幸せと呼べるものを手にできる日は……やって来るのかな」

 少なくとも真実を知ることで、その日に近づくことができるのだろうか。

 葵は答えるように、淡く微笑んだ。

「そうね……」

 自分が幸せだと思ったら、そこがゴールなのかもしれないわね。

 葵の発したその言葉を最後に、二人は互いに口をつぐんだ。徐々に落ちていくオレンジ色の太陽に照らされながら、いつもの通学路をいつもよりゆっくりとした足取りで歩く。

 『幸せ』の形をそれぞれぼんやりと思い描きながら、二人は別れるまで一言も発さぬまま歩き続けた。

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