花・その4
ただならぬ雰囲気を纏った真紘と玲が、連れ立ってどこかへ行ってしまったのだと、優羽に教えたのは葵だった。昼休み、突然優羽のクラスに姿を見せた葵は、細く形のいい眉をこれまた見事なハの字に曲げ、切羽詰まったような表情で優羽を見つめた。
『様子を、見に行ってもらってもいいかしら』
正直昨日の今日という状況だったから、二人には――特に真紘には――会いたくなかった。
自分で見に行けばいいのに、と答えた優羽に、葵はゆっくりと首を横に振った。さらりと揺れた髪が金色にキラキラと光って、やけに綺麗だった。
大きな瞳に、不意に哀しげな色を宿した葵は、まるで独り言のように小さな声で言った。
『駄目なの……あなたじゃなくちゃ、意味がないもの』
どういうことだ、と尋ねる前に、葵は『じゃあ、頼んだわね』と勝手な言葉を残して、さっさと自分の教室に戻って行ってしまった。優羽の呼びとめる声にも、振り返ろうとはしない。完全に、後を託されてしまったようだった。
もちろん、無視したってよかった。自分には所詮関係ないことだと割り切って、そのまま午後の授業に出ても、優羽自身には何ら支障はなかった……はずだ。
けれどやはり、二人が何を語り合うのかが気になって仕方なかったし、先ほどの葵の様子も気になった。彼女は、何かしら察しているのかもしれない。
ひょっとしたら、昨日のことも――……。
いてもたってもいられなくなった優羽は、昼休みの終わらないうちに急いで教室を出た。おそらく屋上か、その付近にいるのだろうと断定し、そちらの方へ走って向かう。
優羽の予想通り、真紘と玲は屋上に通ずる階段の踊り場にいた。そして……辿り着いた時、ちょうど真紘の声が聞こえてしまったのだ。
『俺が好きなのは……玲、お前なんだよ』
悲痛さを帯びた、少し掠れた切実そうな声。決して届かないとは分かっていながらも、それでも求めずにはいられないというような、まるで追いすがるような……。
それは当の真紘が立ち去ったあとも、優羽の耳にこびりついて離れてくれなかった。残された玲と話をした後も――そしてあれから何時間も経った今でも、ずっと、ずっと。
それはまるで呪いのように、優羽の頭に反響していた。
「……桜香、来て」
ふらふらとした足取りでどうにか帰宅した後、自室のベッドに力なく横たわりながら、優羽は携帯電話の通話口に向けてそう発していた。声があまりにも消沈していたからか、電話の相手――桜香は心配そうに答える。
『優羽くん……何か、あったの?』
「あった」
話す気になれなくて、単語だけでそう答える。
あの日真紘が言った通り、桜香はいざという時には空気を読める、賢くも鋭い女だ。そこだけは唯一真紘と異なるところだった――真紘の言葉通り、むしろそういうところは玲に似ていた――けれど、何も言わなくても大抵のことは悟ってくれる、そんな桜香に優羽は何度も救われていた。
詳細を話したくない、という優羽の無言の拒絶をうまく汲み取ってくれたらしい桜香は、それ以上のことを何も追求しようとせず、ただ穏やかな声で言った。
『わかったよ。優羽くんの家でいい?』
「うん」
『じゃあ、すぐに用意して行くね』
快く承諾してくれたことに、優羽はホッとする。毎度のことではあるが、桜香が来てくれるという事実だけで、これまで抱えていたはずの不安が不思議と払拭されていくような気がした。
「ありがとう。……じゃあ」
電話を切ると、優羽はベッドから降り、部屋の整理を始めた。
――その日の行為は、いつもより殊更激しかった。
真紘に似た彼女の人懐っこい笑みを見たとたん、耐えきれなくなってしまった優羽は、桜香が部屋に入ってくるや否やその細い身体を押し倒した。それから夢中で何度も彼女を求め、快楽に溺れた。
桜香は拒絶することなく、優羽の全てを受け止めてくれた。息も絶え絶えになりながらも、真摯に、健気に、彼の傷ついた心を少しでも癒そうと努めてくれていた。
その優しさに、優羽は救われたような気がした。
断続的に続いた行為は、明け方にようやく終わりを告げた。
ベッドで身体を寄せ合いながらまどろんでいる時でさえも、桜香は何も聞かなかった。きっと、優羽から話すのを待っているのだろう。もし何も話さなかったとしても、彼女はそれでもいいと思っているのかもしれない。
「……俺、」
勝手に唇から言葉が漏れ出ていた。桜香がまどろむのをやめ、聞く体制に入ってくれたことを気配で感じながら、優羽は口の動くままに話す。
「もう俺は、あいつと――……いや、あいつら二人と、友人ですらいられなくなっちまうかもしれない」
その引き金を引いてしまったのは、間違いなく自分だ。今まで危ういながらも続いていた日常が、自分の軽はずみな行動で全て壊れてしまった。
「そういう日がいつかは来るって、きっとわかっていたはずなのに」
できれば、全てを知らないままでいたかった。真紘にも、玲にも、何も知らないままでいてほしかった。
「失うくらいなら……いっそ何も、変わらないでいてほしかったのに」
最後に諦めたようにそうポツリと呟いた優羽に、今まで黙っていた桜香が静かに口を開いた。
「誰のせいでもないよ。その変化は、きっと起こるべくして起こったことなんだから」
優羽は、ゆっくりと目を見開いた。お嬢様のように奥ゆかしく、どちらかというと内気な性格の彼女が自分の意見を告げたことにも、その言葉の内容にも、驚いていた。
彼の様子の変化に構うことなく、桜香は続けた。
「それが、必ずしも悪い結果を招くとは限らない。良いものになるか悪いものになるかは……結局、自分次第なんだよ」
変化は、起こるべくして起こるもの。そしてそれが良いものになるか悪いものになるかは、自分次第でしかない。
桜香の言葉を心の中で幾度も反芻した優羽は、何かがすとん、と腑に落ちるのを感じた。
今は悪いことしかないかもしれない。きっとこれから真紘は優羽を避けるだろうし、玲も空気を読んでむやみに近寄ってこようとはしなくなるだろう。
それに甘んじているままでは、きっと事態は悪い方向にしか転がらない。それこそ修復などしようがないくらいに、これまでの関係は壊れきってしまうだろう。
けれど……。
「じゃあ俺は、どうすればいいんだろう」
弱々しく呟く優羽に、桜香は優しい声色で答えた。
「状況を見て、何をすべきか判断すればいいんじゃないかな。きっと……今がチャンスだ、って時が、どこかにあるはずだから」
ずいぶん難しいことを言う、と思う。
けれど同時に、桜香の言う通りかもしれない、と優羽は思った。
焦って行動すれば、事態はさらに悪化するだけだ。何事もいい時が――行動すべき時期というものが必ず存在するし、逆に言うなら、その時を逃せば決して次はない。
今の自分にできることは……その時が来るまで、ひたすら辛抱強く待つこと。そして、その時を決して逃さないこと。
「……頑張ってみるよ。その時が来るまで」
「うん。あたしも、応援しているよ」
朗らかに笑う桜香の髪を、いたわるように優しく梳いてやる。桜香は気持ちよさそうに目を閉じると、再びまどろみの世界に入って行ったようだった。
その様子を見ながら、優羽は微笑む。
穏やかに眠る彼女は、まさに暗闇に光を差し込む天使のようだった。
◆◆◆
翌日。
「――っ!」
優羽の姿を目にした真紘は、案の定顔をこわばらせる。そして、あからさまに彼を避けたかと思うと、早足で教室に向かって行ってしまった。やはり一昨日のことで傷ついているのだろうし、同時に怖がっているのだろう。こうなったのも自業自得だと再認識させられ、優羽は重々しく溜息を吐く。
玲もまた、こちらへやって来ようとはしなかった。その態度は真紘よりあからさまではないものの、やはり自然とは言い難い。敢えて優羽を視界に入れようとしないような、そんな感じだ。真紘に気を遣っているのか、ただ自分が気まずいだけなのか……きっと、両方だろう。
そして真紘は同じように、玲からも距離を置いているようだった。
駆け寄ってきたクラスメイトや、共通の知り合いに「あれ、今日は一人?」だの「珍しい、今日は三人バラバラなんだね」だのと次々に尋ねられ、そのたび優羽は苦笑交じりに「まぁ、たまにはね」と答えてお茶を濁す。
周りが三人の明らかな異変に気付くのも、時間の問題だろう。そうしたら……今度は、どうやって言い訳をしようか。
この状況がどのくらい続くのか、正直なところ優羽にも分からなかった。明日には解決しているかもしれないし、卒業しても――もしかしたら一生かかっても、関係は修復できないかもしれない。
ただ、一つだけ分かることは――……。
『その変化は、きっと怒るべくして起こったことなんだから』
『きっと……今がチャンスだって時が、どこかにあるはずだから』
昨夜の桜香の言葉を思い出し、優羽はゆっくりと瞳を閉じる。
今の優羽に、一つだけ分かること。
それは――……今はまだ、行動すべき時ではないということ。
大切だったはずの友人を二人失くしたという、哀しいこの事実を、今はただ甘んじて受け入れるしかないということだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます