水・その9

 カチャリ、と自室のドアを開け、自分にとっては馴染みのある室内へと足を踏み入れる。後ろにいる奏にさりげなく促せば、躊躇いながらも葵に着いて中へ入ってきた。

「適当に座って」

 ベッドに腰掛けた葵は、所在なさげに突っ立ったままの奏に一言告げる。自分の内心を悟られたくなくて、わざと感情を込めずに、淡々と。そっけないとは自覚していながらも、そうせずにはいられなかった。

 自分の部屋に異性を入れたことは、これまで一度もない。ましてや想い人である人間と、こうやって二人きりになるなんて。当然ながら、葵の緊張と戸惑いは最高潮に達していた。

 奏はしばらくの間、落ち着きなく部屋中をキョロキョロしていたが、やがて葵から見て向かい側――カーペットが敷かれた、ベッド前の空間へと腰を下ろした。

 しばしの沈黙が下りる。

 痺れを切らし、最初にそれを破ったのは葵の方だった。返答を期待せぬまま、独り言のように口にする。

「パパとママは、今頃二人でのお出かけを楽しんでいるのかしら」

 あの後、父親と母親は『たまには兄妹水入らずでどこかに出掛けてくる』と言って家を出て行った。

 母親はともかく、父親には既に別の相手がいるというのに大丈夫なのだろうか……そんな無粋な考えが一瞬脳裏をよぎったものの、母親の去り際の言葉からは、そのような嘘偽りは微塵も感じなかった。

『今は……彼のことを純粋に従兄として、そして半分だけ血の繋がった兄として、まっさらな気持ちのままで向かい合うことができるような気がする』

 その言葉を、そして彼女を見つめる父親の慈愛に満ちたまなざしを、否定することなど葵にはできない。

 だから……たとえ自分たちの存在があったとしても、きっと二人はやり直すことができるはず。男女としてではなく、兄と妹として。

 一方、自分たちはどうだろう? 互いに別の感情を抱き合っている今、自分たちも両親のようになることはできるのだろうか。元の姉と弟に、戻ることはできるのだろうか?

 それとも……今日を限りとして、一生決別することになるのだろうか?

 葵の声に、奏は驚いたように顔を上げる。位置関係から、自然と見上げる形となる葵の方に顔を向けて……その視線が絡む前に、怯えるようにフッとその奥の窓へとずらした。

 その動向に気付かぬ振りをしながら、昔のように無邪気に笑いかけることは、今の自分にはもうできそうにない。気持ちが落ちるまま、自然と眉が下がっていくのが分かる。そんな葵の表情を横目にちらりと見たのか、奏は一瞬だけ辛そうな顔をした。

 それ以上話を膨らませることもできなければ、他の話題を見つけることもできない。必然的に、再びの沈黙が下りる。

 あの頃自分は奏に、一体どういう風に接していただろうか?

 屈託などなく、どうでもいいことばっかりたくさん喋っていたことだけはなんとなく覚えている。どんな長い話でも、奏はいつも穏やかに笑いながら相槌を打ってくれていたっけ。

 あの頃は、それが当たり前だと思っていた。そういう日々が、ずっと続くって……当然のようにずっと、姉弟として傍に居続けることができるって、そう信じて疑ってなかった。

 それなのに……。

「……全部、俺のせいだよな」

 不意に、これまで黙っていた奏が口を開いた。躊躇いがちな弱々しい声色に、自然と引き寄せられるように奏を見下ろす。

 奏は相変わらず目を合わせてくれなかったけれど、葵の顔――おそらく、鼻から口のあたり――を一心に見ていて、顔を合わせて話をしようとしていることだけはなんとなくわかった。

「俺の話……ちょっと長くなると思うけど、聞いてくれないか」

 懇願にも似たその申し出に、葵は自然と首を縦に振っていた。瞬間、固まっていた顔が僅かに緩んだように見えて……そのわずかな表情の変化までもが愛おしくて、葵は思わず自分の心臓の辺りに手を当てていた。トクントクン、といつもより幾分早い鼓動が伝わってくる。

 奏から目を逸らさず、焦点の合わない瞳をじっと見ていれば、やがて奏は落ち着いた声で話し始めた。葵がこれまでずっと知りたくても知ることができず、ただおもんばかることしかできなかった、その本心を。

「俺とお前は、確かに血の繋がった双子だ。まるで変な鏡を見てるみたいに自分とそっくりなお前を見るたびに、俺はいつも自覚してた。こいつは唯一無二の、俺の片割れなんだって。たとえ性別や性格が違っても、利き手や旋毛つむじの位置が真逆だったとしても……それだけは、変えられようのない事実で」

 そう。それは、どう足掻こうとも引っくり返すことなどできない事実。それこそが、自分を、そして奏を、これまで苦しめてきた。

 それぞれの気持ちとは裏腹な、この確かすぎる繋がりが……。

「けれど俺はいつの頃からか、それを心の中で拒否するようになっていた。お前との、消えない絆というか……あまりにも端的で単純なその繋がりが、嫌で嫌でたまらなくなってた。何でだかわかるか、葵?」

 あまりにも単刀直入な問いに、コクリ、と小さくうなずく。奏が小さく目を見開いたのが分かったけれど、葵はあえて何も言いはしなかった。

 そんなこと……改めて口にするまでもなく、とうに察していること。ただ、奏がこれまで口にしてこなかっただけ。

「引いたって構わないし、軽蔑したって構わない。そうしてもらう方が、いっそ楽だから」

 息が苦しい。

 鼓動は先ほどと比べ物にならないくらいに早くなっていて、額にわずかに汗がにじんできているのが分かる。まだ何も言われてないうちから軽くめまいがして、本当にそれ・・を口にされた時にはきっと、自分はこの場で意識を失うだろうとさえ思った。

 どうしてなの、奏?

 あなたはどうしてそれほどまでに、あたしのことを……。

「まぁ、分かっているというのなら、言わずともとっくにそうされているのだろうけれど」

 続く言葉は、とうに分かっている。覚悟はしていたはずなのに、この気分の悪さはなんなのだろう。葵は耐えるように、ギュッと目を閉じた。

「俺は……葵のことを、姉だなんて思ってない。いつからなんて知らないけれど、多分物心ついた時ぐらいから……とにかくずっと前からお前のことを、俺は一人の女として見ているんだ」

 ……え?

 続く言葉があまりに真反対だったことに、葵は思わず目を見開いた。てっきり、俺はお前が嫌いだと、心底憎んでいると、そんなことを言われるとばかり思っていたのに。

 はぁ、と溜息を吐いた奏は、まるで葵の目から逃れるかのように、座ったままくるりと葵に背中を向けた。

「呆れるだろう? お前も、気が済むまで笑ってくれて構わないよ」

 丸まった背中が僅かに震え、ハハッ、とくぐもった嘲笑が漏れ聞こえる。何を笑うことがあるのか、と葵が口を開こうとしたところに、奏はさらに言葉を続けた。感情を込めまいとしているのか、心持ちその口調が早くなっていることに、本人は気付いているだろうか。

「自分のこの気持ちが、姉に対する愛情じゃないってことに気付いたのは、離れて暮らすようになってからかな。たまに会える双子の姉の姿を、いつも俺は思い浮かべてた。姉に会える日が、楽しみで仕方なかった。最初のうちは逢いたい、話したいって、ただそれだけだったはずなのに……いつからか、それ以上の気持ちを抱くようになってて」

 小さい頃は、自分だってそう思ってた。奏に会えるのが、一緒に遊べるのが、ただ単純に楽しみで。遊び相手だと言うだけで、その頃は自分たちが双子の姉弟だとは、きちんと自覚していなかったように思う。

 だから奏の気持ちの変化に、彼が抱き始めていた苦しみに、気付くことなんてもちろんなくて……。

「それがいけないことだって、決して抱いちゃいけない気持ちだって、分かってても止められなくて。鏡を見てるみたいに自分とそっくりなお前の姿を見るたびに、何で俺たちは血が繋がってるんだろうって、思わずにはいられなくて。そしたら……だんだん、会うのが辛くなって。それに、いずれは自分のこの気持ちを消さなくちゃいけないってことも、なんとなく分かってたから。だから、わざと避けた。お前のことを、嫌いになろうと思った」

 だんだんと、奏の態度が冷たくなってきたこと。明らかに、自分を避けるようなそぶりを繰り返し続けてきたこと。

 一見非情とも取れるそれらの行為を、自分は単純に嫌われたからだとずっと思っていた。自分が何らかのことをしたせいで、奏が自分を嫌いになったのだと。心底、自分のことが憎くて仕方ないのだと。

 だけど……。

「でも、やっぱり嫌いになんてなれなくて。むしろ会わない時間が長くなるほど、それに気持ちは相反して。馬鹿みたいに逢いたくて、愛しくて……辛くて、苦しくて、仕方なくなった」

 そんなの、こっちだって同じだ。

 この気持ちにちゃんと気付いたのは、奏に避けられてからだけれど……自分だって、今までずっと奏に逢いたくて、何でもいいから話がしたくて仕方なかったし、そう考えてしまう自分の気持ちに嫌悪しては、何度も辛くなったり苦しくなったりもした。

 それほどまでに自分は、奏を想ってきた。

 だから、同じ気持ちを、奏が抱いてくれているというのなら……。

「あたしは、」

「いい。何も言わなくていい」

 気持ちのままに紡ごうとした言葉を、奏が遮る。丸まっていた背中はいつの間にかピンと張っていて、まるで覚悟を決めているとでも言わんばかりの雰囲気を漂わせていた。

「今日こうやって、自分の気持ちを全部告げて……正直、すごくすっきりした。長年抱いてきたこの気持ちを、これから清算するのは難しいかもしれないけれど……それでもいずれはちゃんと、ケリをつけられるようにする。だから、許してくれな」

 立ち上がり、こちらへ振り返った奏は、穏やかに微笑んでいた。久しぶりに目の当たりにする彼の特徴的な笑顔に、そんな場合ではないと分かっていながらもドキドキする。

「じゃあな、葵。今まで苦しめてごめん」

 違う。お願い、やめて。

 まだ自分は、何一つ本心を打ち明けていないのに。

「……もう、近づかないから」

 ボソリと告げられた、彼なりの覚悟の言葉が終わるか終らないかのうちに、葵は半ば衝動的に立ち上がっていた。再び向けられた広い背中を追い、半ばしがみつくようにして抱き着く。

 いくら双子とはいっても、当然ながら男女の身体の作りは異なる。背中にそっと頭を預けた葵は、奏との身長差や体格差を改めて感じた。

 ドアノブに手を掛けていたらしい奏が、ピタリとその動きを止める。回した手に触れた胸からは、早まった鼓動が聞こえてきた。

「……葵、頼むから」

 離してくれ、とでも言おうとしたのだろう。

 葵はその言葉を言わせるまいとでもするように、ギュッと抱き着く力を強めた。背中に頭をもたせかけたままで、囁くように言う。

「行かないで」

 奏の息を呑む音が、やけに響いて聞こえる。動揺しているようなその様子に構うことなく、葵は続けた。

「……愛しているのよ」

「――っ」

 刹那、くるり、と反転した身体に驚く間もなく、葵は強い力でその身体を引き剥がされる。そのまま両手を掴まれ、後退させられたかと思うと、ぎしり、と耳障りなスプリングの音とともに、背中に柔らかな衝撃が走った。

 視界の先には天井、そしてどこか苦しげな表情を浮かべた奏の顔があって、それでようやく葵は自分がベッドに押し倒されたことに気付いた。

 両手首を掴む手に、ぐっと力がこもる。痛みに顔をしかめれば、奏は哀しげに眉を下げた。

「葵……ごめん。もう、止まれそうにない」

 好きな女にあんなことされてさ、我慢できる男なんていると思う?

 葵は緩く首を横に振った。全身で求められていることが伝わってきて、それが嬉しくて、思わず頬を緩ませる。

「……いい?」

「もちろん」

 駄目だったら、あたしはとっくにあなたをここから追い出しているわ。

 そう言って強気に笑んでみせれば、奏は思わずといったように小さく笑みを零す。扇情さえ漂わせるその表情に煽られ、葵は無意識にコクリと喉を鳴らした。

 直後、噛みつくように唇を奪われる。葵はそれ以上考えるのをやめ、そのまま目の前の快楽と充足感に身を委ねるように、そっと奏の首に腕を回した。

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