風・その6
「今更、弁解するつもりもないわ」
不意にそんな声が向かいから飛んできて、フレンチトーストを切り分けていた桜香は反射的に手を止めた。恐る恐る顔を上げれば、サンドウィッチを咀嚼しながら梨生奈が真剣なまなざしをこちらに向けている。
ごくり、と口の中のものを飲み込んで、梨生奈は一つ息を吐いた。それから再び、神妙に口を開く。
「わたしが何を言いたいのか――何を、あなたに対して隠しているのか。あなたはもう、知っているはずだわ」
そうでしょう? と小さく首を傾げられ、桜香は感情が爆発しそうになるのをぐっと堪える。努めて冷静に、「そうだよ」と答えた。
「だって梨生奈ちゃんが、何も話してくれないんだもん。梨生奈ちゃんが明らかにあたしに対して何か隠してるって……全部、分かってたんだよ。あたし、そんなに馬鹿じゃないもの」
梨生奈の表情が、目に見えて歪む。いつものような笑みと話術で取り繕うことも、叶わない様子だった。
「だから……あたし、梨生奈ちゃんに秘密で探り入れちゃったんだ。某高校には、優羽くん以外にも当てがあったから。それで――……」
それで、知っちゃったんだよ。あたし。
刹那、梨生奈が顔を強張らせる。ひゅう、と息の漏れる小さな音が、僅かに開いた唇の間から零れた。
ここで感情を高ぶらせてはいけない。淡々と、冷静に、冷静に……。
心の中で唱えつつ、震えそうになる声をどうにか抑えながら、桜香はその続きを紡いだ。
「梨生奈ちゃんは優羽くんのこと、違うクラスだからよく知らないって、前に言ってたよね。でも……それは嘘だった」
ホントはずっと前から、知っていたんだよね。
こくり、と梨生奈が力なくうなずく。いつもの強気な態度からは想像できないような、彼女らしくもないその姿を一瞥した桜香は、何故か自分でも驚くほど静かな気持ちになった。先ほどまで感じていたはずの感情の高ぶりが、波のようにスーッと引いていくのを感じる。
桜香の異常なまでに淡々とした様子に気付いたのか、梨生奈はわずかに身体をすくめた。小動物のような動きに、こんな時なのに思わず笑みがこぼれる。
「梨生奈ちゃんは、優羽くんと……身体の関係を持ってた。今のあたしと、同じ。その中に恋愛感情があったのかどうかまでは、さすがに察せなかったけれど……まぁ、でもだいたいわかるかな。梨生奈ちゃんにとって優羽くんは、何かしら特別な存在だったんじゃない?」
梨生奈の色を失くした唇が、小さく震える。青ざめた顔はまるで重病患者のようで、今にも床に倒れ伏しそうだ。先ほどまでとすっかり立場が逆転してしまっている現在の状況は可笑しくもあったけれど、やっぱりほんの少し哀しかった。
空気を求める金魚のようにぱかりと開いた唇から、ようやく消え入りそうなほどの声が漏れた。
「……ごめん、なさい」
「謝罪が聞きたいわけじゃないんだよ」
今のは若干責めるような響きになってしまっただろうか。……でもまぁ、今の自分には彼女を責めるだけの権利があるのだし、別にいいか。
一瞬の罪悪感を振り払い、桜香は微笑む。地上に舞い降りた天使を装うように、心の底から清らな気持ちで。
「梨生奈ちゃんの口から話してほしいの、全部」
開いた口を軽く閉じ、梨生奈は瞳に迷うような光を宿しながらも桜香を見つめる。その瞳を見据えながら、桜香は笑みを深めた。
「ねぇ、梨生奈ちゃん。あたしはね、悲しかったんだよ。あたしは梨生奈ちゃんのこと信頼してたから、どんなことでもありのままに話していたのに……梨生奈ちゃんは、そうじゃないんだって思って。梨生奈ちゃんが『何でもないのよ』なんて言いながら取り繕うように笑うたびに、あたしは傷ついていたんだよ。あぁ、あたしは……梨生奈ちゃんにまだ、『友達』として認めてもらえてないんだなって」
「そうじゃないっ。わたしは……」
「じゃあ、話してよ」
梨生奈が衝動的に何か言おうとしたのを、きっぱりと否定するかのようにさえぎる。梨生奈は今にも泣きだしそうな表情になったものの、おとなしく引いてくれた。
浮かべていた笑みを消し、真剣な表情と声色で懇願する。
「あたしのこと傷つけるとか、そんな馬鹿なこと考えなくていいから……あたしは、梨生奈ちゃんのありのままの声が聞きたいの」
だから、お願い。
梨生奈の僅かに潤む目を見据えながらそう言えば、梨生奈はほんの少しうつむき、何やら考え込むようにじっと動かなくなる。
やがて……ゆっくりと顔を上げ、意を決したように口を開いた。
「あなたもすでに知っての通り、わたしと花村優羽は……過去にほんの少しの間だけ、身体の関係を持っていた」
刹那心に走る、身を切り裂かれるような痛み。
それは優羽を想うあまりに生まれた梨生奈への嫉妬なのか、梨生奈に嘘を吐かれていたショックにより生まれたものなのか、桜香にはとっさに判別することができなかった。
伏せた睫毛を震わせ、梨生奈は続ける。
「初めに持ちかけてきたのは、花村の方。わたしには当時好きな人がいて……まぁ今でも現在進行形でその人が好きなんだけれど……まぁ、それは置いておいて。ともかく、それを勘のいい彼は見抜いていたんでしょうね。最初はわたしも拒否したんだけれど、やっぱり叶わない片想いの辛さには耐えられなかった」
梨生奈に好きな人がいるというのは今回初めて聞いたことだったけれど、前にこの場所で梨生奈と恋の話をした時、既になんとなくそうではないだろうかと察していたのでそんなに驚きはしなかった。
『高校生にもなれば、恋の辛さというものが自ずと分かってくるわ。あなただって、そうでしょう?』
あの時、寂しげな表情で彼女が放った台詞。当時は多くを語ってくれなかったからあまりよくわからなかったけれど、今なら身をもって感じられるような気がした。
彼女も、叶わぬ恋をしているのだと。自分と同じなのだ、と。
そして……。
「それに……花村が、あまりに縋るような目でわたしを見てきたから。『お前と俺は同じだろう?』って、心に語りかけてきた気がしたから。気付いたらその目に吸い込まれるように、わたしは花村に身体を許した。互いの寂しさを埋めるみたいに……手に入れられないものを求め合うように。飽くこともなく、何度も、何度も」
――そう。優羽も、彼女と同じだった。
桜香が優羽を想うように、梨生奈が誰かを想うように。優羽もまた、桜香の知らない――おそらく梨生奈もそうだろう――誰かをその胸に描き、恋い焦がれ、耐え続けてきたのだ。
別々の人間に叶わぬ恋を抱く二人が出会い、互いの心にぽっかりと開いた穴を埋めるべく、求め合った。そこに恋愛感情がないにせよ、それは二人にとって確かに必要なことだった。
「だけど……」
そこで梨生奈は言葉を止めた。桜香を見つめる瞳には、まるで何かに懺悔しているかのような絶望に満ちた光が宿っている。
きらりと光った目の淵から、一筋の涙が零れた。梨生奈はそのまま瞼を下ろし、静かな――それでいてほんの少し震えたような声で、言葉を紡ぐ。
「わたしはいつしか、花村に惹かれ始めていた。別の人を好きでいるはずなのに、身体を重ねるたびに花村の存在がゆっくりと、けれど確実に、心の中に入り込んできて……」
身体だけの関係だなんて、割り切れなかった。彼のように、器用な人間になどなることはできなかった。
「花村には、好きな人がいるって……手に入らない誰かへの報われない想いを、わたしに対してぶつけているだけだって、分かっていたのに。それでも会うたびに、身体を重ねるたびに、入り込んできた彼の存在は次第に大きくなっていって。わたしは……怖くなった」
好きだったはずの人への想いを、忘れてしまうことが。そして……同じような報われない片想いを、懲りもせずこれからも続けていくことが。
「だから、花村と手を切ることにした。これ以上、こんな関係を続けることはできないって。そして、花村がそれを了承したその日から……わたしは、花村を忘れようとするみたいに、今日までずっと避け続けてきたの」
そうして梨生奈は、これまで通りの恋を選んだ。芽生え始めてしまった優羽への想いを捨て、これまでずっと好きでい続けてきた人への想いをもう一度抱き続けることを。
どちらにせよ、茨の道であることは分かっていたけれど……いや、分かっていたからこそ、彼女は従来の片想いを選んだのかもしれない。
「……これが、わたしがあなたに隠してきたことの全てよ」
一粒、また一粒と頬に涙を伝わせながら、梨生奈はきっぱりと言い切った。ゆっくりと開かれた瞼の奥に潜む瞳には、先ほどとは違った強気な光が宿っている。
いつも通りの色では、なかったけれど。
そんな梨生奈に、これまでずっと黙って彼女の話を聞いていた桜香は、穏やかな気持ちで口を開いた。
「梨生奈ちゃん」
びくり、と彼女の肩が一瞬揺れる。
そんな彼女を怖がらせまいとするように、柔らかな微笑みを湛えながら、桜香はこれまでと同じ静かなトーンでもう一度語った。
「あたしね……優羽くんに、会ったの」
傷ついたような、ボロボロの状態だった彼に激しく抱かれた日のことを思い出しながら、桜香は笑みを深める。
「何があったのかは分からない。だけど……きっと今の彼には、誰か背中を押してくれる人が必要だと思うんだ」
桜香の言葉を聞く梨生奈の表情が、どんどん怪訝そうなものに変わっていく。おおかた、何を言おうとしているのか理解できていないのだろう。
そんな彼女に、桜香は自分なりの考えを込めて――梨生奈の背中を押すべき言葉を、紡ぐ。
「だからね――……」
次に続く桜香の、恐らく予想外だったのであろう言葉を聞いた梨生奈は、驚愕にその目を見開いた。
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