松・その6

 おかしいとは、なんとなく思っていたのだ。

 あんなにほぼ毎日のように喫茶店へ来てくれていた桜香が、ある日突然ぱったりと来なくなってしまうだなんて。

 単に忙しいのだろうということも、もちろん考えた。近いとはいえ所詮違う学校なのだし、お嬢様である彼女の詳しい暮らしぶりや事情についてもよく知らない。何かしらあったとしても、こちらが把握することなんて不可能だ。

 だけど……。

 彼女が顔を出さなくなってから、三日目のことだっただろうか。入口側でカップを洗っていた梨生奈は、たまたま見てしまったのだ。

 いつものように喫茶店の前を通りかかった桜香が、不意に立ち止まり……躊躇するように幾度かドア前をうろつき、結局店内に入ってくることなく通り過ぎてしまったところを。

 その時一瞬だけ見えた横顔が、辛そうに歪んでいたのを。

 彼女の中で何かしらの変化が起こったのだと、理解するのにそう時間は要さなかった。黒目がちの大きな瞳が、まるで葛藤でもするように揺らいでいたのが、何よりの証拠だ。

 そして、その『変化』とは何を指すのか――……そのことについては大体、察しがつく。

 知ってしまったのだろう。梨生奈が桜香に対して隠し続けてきた、たった一つの大きな秘密――桜香の想い人である優羽と、自分との関係を。

 いつまでも隠し通せるとは、当然思っていなかったけれど……まさかこんなに早く、知れてしまうとは。

 最後に別れる前、彼女が見せた表情を思い出す。

 桜色の唇はまるで何かに耐えるかのようにキュッと引き締められ、黒い瞳は切なげに潤んでいて……それはひどく悲しげであるにもかかわらず、ある種何かしらの決意を秘めているかのような、そんな。

 もしかしたら彼女はあの時、心に決めたのかもしれない。本来自分が口を割らなければ決して知ることはないであろう真実を、自ら探り、暴こうとすることを。

 当人である自分から引き出すことができない情報を、間接的にでも知ってしまおうと思ったのかもしれない。

「……っ」

 行き着いた現実と彼女の心情を思い、愕然とする。

 だとしたら、それはなんて残酷なことだろう。

 ずっと事実をひた隠しにし、裏切り続けてきたということを、本人からではなく間接的に知ってしまうことほど、やりきれないことはないはず。しかもそれが『友人』だと思っていた人間だったなら、なおさら。

「どうしよう、どうしたら」

 それなら自分は、一体どうしたらいい。

 何をしたところで、とうてい許されるとは思わない。けれどこのままではいけないと、頭の中で警告音が鳴り響く。

 やはり彼女を捕まえ、自分の口から何もかも話してしまうべきだろうか。たとえそれが既に知られていることであり、謝罪したところで今更何の意味もないことくらい分かっていても。

 たとえ彼女がもう、金輪際自分の顔なんて見たくないと思っていても。

「――それでも、」

 自分がこれまで、桜香に隠し続けてきたこと。そして……今自分が抱いている、正直な想い。

 その全てを、自分は桜香に告げなければならない。

 何故なら桜香にはそれを聞くだけの権利があるのだし、自分は桜香にそれを話すだけの義務があるのだから。


    ◆◆◆


「座って」

 先ほど店の前で遭遇した桜香を店内へ半ば無理矢理引き入れると、いつもの席――奥の方で仕切られた二人掛けの席へと案内し、一言促す。彼女はどこか挙動不審な動きを見せながらも、梨生奈の言葉通り素直に椅子を引き腰かけた。

 彼女が座ったのを見計らうと、梨生奈もまた向かいの椅子を引き腰を下ろす。こちらへ同僚のウエイトレスがやってくるのを横目で見ながら、メニューを取り出し桜香へ渡した。

「……あ、ありがと」

 桜香の表情は、やっぱりいつもと違ってぎこちない。

 そんな彼女に感情を悟られまいとするように、梨生奈は広げたメニューを開き、努めて明るい声を出した。

「喫茶店だけど、軽食のメニューも豊富なのよ。ディナーにはちょっと合わないかもだけど、モーニングやランチには結構重宝するの。ほら、このサンドウィッチセットとか……一口にサンドウィッチと言っても、案外色んなバリエーションがあってね」

「……へぇ、いいね」

「桜香は甘いものが好きかしら。いつもハニーラテを注文してくれるし」

「……う、うん。どっちかというと」

「じゃあこっちのワッフルセットとかどうかしら。フレンチトースト、ホットケーキもあるわよ。何でも、好きなものを注文していいからね」

「……じゃあ、フレンチトーストセットにしようかな。あと、ハニーラテ」

「ハニーラテは食後でいい?」

「うん」

「分かったわ。じゃあわたしは、どうしようかな。うーん……迷うわね。カロリーが気になるから、ヘルシーな野菜サンドウィッチにしようかしら。最近ちょっと太ってきたような気がするのよねぇ」

「そんなことないと、思うけど」

「見た目には分かんないだけよ。お腹の肉とか、これでも結構つまめちゃったりするんだから。桜香は見た目もスリムだし、ホント羨ましいわ」

「……」

「よし、決めた。野菜サンドウィッチセットと、レモンティーにしよう。すみません、こっちに来てもらえますか」

 注文を決めると、梨生奈は早速各テーブルを回っていた仕事仲間のウエイトレスを呼ぶ。元気のない桜香の代わりに、彼女が所望した分も全て口にすれば、ウエイトレスは「かしこまりました」と一礼した後、こっそり梨生奈に耳打ちしてきた。

「連れの彼女、ここのところ来店してなかったみたいだけど……もしかして、何かあった?」

「別に、何もないですよ」

「何もないにしては彼女、なんか気まずそうっていうか……所在なさげな感じがするけれど」

「久しぶりの来店だから、空気に馴染めてないだけじゃないですか」

「ふぅん。ならいいけど……じゃあ、今すぐ用意するわね。フレンチトーストセットに野菜サンドウィッチセット、食後にはハニーラテとレモンティー、でいいのね?」

「はい、お願いします」

 かしこまりました、と今度はおどけたように一礼し、ウエイトレスはカウンターへ向かって小走りに駆けて行く。その姿を見送り、改めて振り向くと、桜香は気まずげな表情でうつむいていた。

 一瞬のようにも、ひどく長いようにも思える――そんな重苦しい沈黙が、二人の間を過ぎっていく。

 やがて桜香はゆっくりと顔を上げ、梨生奈を見据えた。その眉はハの字に下がっていて、大きな瞳からは今にも涙が零れそうだ。

 さくらんぼのように愛らしい唇が、小刻みに震えながら言葉を紡ぐ。

「……あの、」

「話は、注文したものが来てからにしましょう」

 それを遮った声は、自分でもぞっとするくらい低かった。表情をこわばらせた桜香はビクリ、と肩を震わせ、委縮する。

「わ、分かった……」

 消え入るような小さな声でそれだけ言うと、桜香はそれきりうつむき、黙り込んでしまった。再び、鉛のような沈黙が二人を包む。

 結局桜香はそのまま、注文の品が来るまでずっと黙りこくったままうつむいていた。梨生奈もさすがに話を逸らす気になれず、テーブルの中心あたりに視線を落としたまま口をつぐむ。

「お待たせしまし――……あら?」

 十分ほどして、先ほどのウエイトレスがフレンチトーストセットと野菜サンドウィッチセットを運んでやってきた。不穏な空気を察したのか、困ったような顔で二人を見比べる。

「置いてください」

 弁解する気にもなれず、梨生奈は視線をテーブルの中心あたりに固定させたまま、淡々と言った。

「わたしは野菜サンドウィッチ、向かいの彼女がフレンチトーストです」

「か、かしこまりました」

 ウエイトレスは言われた通り、梨生奈の前に野菜サンドウィッチセットを、桜香の前にフレンチトーストセットをそれぞれ置くと、逃げるようにその場を立ち去って行ってしまった。

 ……あの様子だと、休憩明けにでも何事かと問い詰められそうだな。まぁ、別にいいけど。

 梨生奈は内心溜息を吐きながら、視線を目の前へとずらした。大きな皿に並べられている、トマトやキャベツなどといった瑞々しい野菜が挟まれた白いサンドウィッチを、一つ手に取る。

「食べましょう」

 桜香の方を見もせずに声を掛ければ、向かいからカチャリ、と付属のナイフとフォークを取る音がする。食器同士のぶつかる金属音が、やけに耳についた。

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