第3章:松風

松・その1

「秋月君のことが、好きです」

「……ごめん」

 低く呟かれたその返答は、最初から想定していたことだったのかもしれない。

 心に冷たい風が吹き抜け、自分の頬に生温い涙が伝って行くのを感じながら、松木梨生奈はぼんやりとそんなことを考えていた。

 好きな人のことなら、なんとなく理解できてしまう。分かりたくないことでも、時には分かってしまうようなことだってあるのだ。

 彼の心が、自分の方には……所詮クラスメイトの一人という認識でしかないだろう存在などには、少しも向いていないということぐらい。

「……本当に、ごめん」

 低く小さな声で、梨生奈が想いを口にした相手――秋月玲は、重ねて謝罪の言葉を口にする。

 普段からほとんど表情を変えない彼ではあるけれど、よく見るとそれは僅かにではあるが変わっているのが分かる。今の彼は、本当に申し訳なさそうに梨生奈を見ていた。

 優しい人だ。そう、梨生奈は改めて思う。

 あなたのそういうところを、わたしは好きになったのよ……そう、一言告げずにはいられないぐらいに。

 でも言わない。言ってなんて、やらない。それはもはや、意地のようなものでしかないのかもしれないけれど。

「……一つだけ、聞かせてほしいの」

 だから代わりに、別の言葉を口にする。

「何?」

 玲は少し驚いたような様子を見せた。相変わらず、ほとんど表情を変えることはなかったけれど……ほんの少しだけ切れ長の目が見開かれたのを、梨生奈が見逃すはずはない。

 無表情に――けれど瞳には、真剣な光を宿らせながら――自分を一心に見つめてくる玲に、梨生奈は言おうとしたことを少しばかり躊躇った。けれどこれでは前に進めないからと、意を決して恐る恐る口を開く。

「秋月君には……好きな人が、いるの?」

 玲が一瞬、言葉を詰まらせた。まっすぐに見つめてきていた目が、不意にふっと伏せられる。明らかにそれと分かる変化が珍しくて、梨生奈は涙を零したまま思わず目をぱちくりとさせた。

 薄い唇を軽く噛んだ玲は、一つ息をつくと、ようやく消え入りそうな声で一言、答えた。

「……いる」

「そっか」

 間髪入れずにそう返せば、その反応が予想外だったのか、玲は小さく目を見開いた。そんな彼をまっすぐに見つめながら、梨生奈は心から穏やかな気持ちで、ゆっくりと笑みを浮かべる。

「ちゃんとした気持ちを聞くことができて、よかった」

 これで、ちゃんと踏ん切りがつくよ。

 複雑そうな表情になる玲に、大丈夫だと言うように梨生奈は精一杯の満面の笑みを浮かべてみせる。

 玲の口から本当の気持ちを聞けて、安心したのは本当。動揺したのも、その人が誰なのか知りたくなってしまったのも……本当。

 けれど……踏ん切りがつくというのは、梨生奈が玲に対して吐いた唯一の嘘だった。

 きっとまだ、自分は彼のことを諦められないだろう。

 このぐちゃぐちゃな気持ちが落ち着くまでは、いろいろと彼にとって不穏であろう動きをしてしまうに違いない。自分の性格を、梨生奈は誰よりも理解していた。

 気持ちに応えられないことが酷だと言うならば、本来ゴミ箱行きになるであろう気持ちを捨てきれないことも、また酷なこと。

 酷なことであり……そして、同時に罪なことでもあるのだ。


    ◆◆◆


 秋月玲には、好きな人がいる――……そんな噂がまことしやかに囁かれ始めるのに、そう時間はかからなかった。

 もちろん、梨生奈自身が発信源となって広めたわけじゃない。そうしてやろうかとも一瞬思ったけれど、もしそのことが玲本人にバレてしまった日には、自分がひどくみじめな存在に成り下がってしまうであろうことぐらい分かっている。

 せめて好きな人の前でだけは、面目を保っていたかったから。

 未練たらたらの姿なんて、見せたくなかったから。

 それなのに……。

「あの噂、広めたのはお前なんだろう?」

 最初にこちらが発した質問――無論、玲の好きな人のことについてなのだが――には一言も答えることなく、玲の幼馴染であり、クラスメイトでもある鳥海奏はそう言った。

 まるで親の仇でも見るかのように睨んでくる彼に、梨生奈は何故か何も答えることができなかった。喉に何かが詰まったみたいに、声が出ない。

 信用してもらえるかどうかはさておいても、ここで自分は無実だと、自分は何もしていないと、答えても別によかったのだ。

 それでも、自信を持ってそう言うことができなかったのは……自分の心に、わずかな迷いがあったから。

 もしかしたら、自分だってそうしてしまっていたかもしれない。いや、むしろこの自分こそが、そんな噂を広めた張本人だっただろうか?

 玲が想いを寄せるという人に対し勝手に嫉妬して、その腹いせにあることないこと周りに吹聴して……。

 無意識とはいえ、やりかねない。男に執着した女の行動が醜く恐ろしいものであるというのは、昔から語り継がれている通り有名な話だ。

 例えば、蛇に化けた挙句想い人を焼き殺したという、清姫のように。

 例えば、生霊となった挙句想い人の妻である姫を取り殺した、六条御息所のように。

 自覚がないだけで、無意識下でそのようなことをしてしまっているのかもしれない。玲の心が自分にないことに、絶望と怒りを覚えて……。

 反論すらできない梨生奈に呆れたのか、奏は侮蔑に満ちたまなざしを向けてきたかと思うと、フンッと鼻を鳴らした。

 その見下したような態度に、怒りよりも自嘲の思いが膨れ上がる。

 ――自分がやったのではないかと考えた時点で、もはや実行したも同然なのだ。それはもはや、自分の罪。

 ならばもう、開き直ってしまえばいい。いっそ悪役を演じきってしまえば、それでいいじゃないか。

 だから梨生奈は、奏の前でわざと笑みを作ってやった。誰が見ても嫌味にしか見えないであろう、究極に下卑た笑みを。

 自分でも鳥肌が立つくらいに、ねっとりと絡みつくような声色で言う。

「だったら、どうなのよ?」

 奏はその言動に、一瞬だけ目を見開き……まるで、たった今俺はお前のことを見放した、とでも言わんばかりの強い眼差しで梨生奈を睨んだ。


「――雪宮真紘くん、だよね」

「ん? そうだけど……君は?」

 放課後、タイミングよく一人で廊下を歩いていた小柄な男子生徒――玲の友人の一人である雪宮真紘を捕まえて、梨生奈は声を掛ける。

 突然見知らぬ女子生徒に話しかけられたことを不審に思ったのか――まぁ、当然の反応だが――眉をひそめる真紘に、梨生奈は茶目っ気たっぷりに自己紹介をしてみせた。

「松木さん、か。よろしく」

 玲のクラスメイトだと告げたことにより警戒が解けたのか、少し表情を和らげる真紘。それでもやはり、何故話しかけられたかは分からないようで、彼は小さく首を傾げた。

「ところで、何か用?」

 このようなところを誰かに――特に奏などに見られた日には、またあることないこと言われてしまうだろう。まぁ、それでも別にいいのだけれど……それを差し引いたとしても、さすがにあまり他人に聞かれたい話ではないので、梨生奈は一応辺りをキョロキョロしながら、人気のないことを確かめる。

 そうして、ようやく慎重に口を開いた。

「あの……いつも一緒にいる女の子は、今日はいないの?」

「あぁ、葵ちゃんのこと? 彼女なら早退したから、今日は俺一人だよ」

 真紘が『葵ちゃん』と呼んだ相手――この学校では『異国の姫君』として名高い少女であり、彼のクラスメイトでもあるという泉水葵は、何かと真紘の傍にいることが多い。そのことが、なかなか真紘に近づけない要因の一つでもあった。

 けれど今日、彼女は運よく先に帰ったという。こんなチャンスは滅多にないと、梨生奈は心の中で密かにガッツポーズをした。

 周りを気にしながらも、とりあえず時間はあるかと尋ね、話したいことがあるのだと告げる。真紘は周りに誰もいないことに安心したのか表情を緩め、こちらの話を聞く体制に入ってくれた。

「あのね……雪宮くんって、秋月くんと仲いいでしょ」

「玲と? うん、まぁ……」

「じゃあ、秋月くんに好きな人がいるって話とか……それが誰かとか、そういう話って聞いたことある?」

 瞬間、真紘はあからさまに身体をこわばらせた。逡巡するように視線を彷徨わせ……そうしてようやく、視線を落とし暗い声で答える。

「……俺は、玲とそういう話しないから。もちろん、優羽とも」

「そっか……」

 そっか、とは言ったものの、もちろんそれだけで『そうですか、それではまた』と諦めて立ち去れるわけなどない。図々しいこととはわかっていながらも、気づけば彼に詰め寄り、こう尋ねていた。

「秋月くんに好きな人がいるとしたら、それは誰だと思う?」

「わかんないよ。玲がそういうことに興味あるなんて、むしろ初耳」

 間髪入れずに、真紘はどこか冷たく強張った声で淡々と答える。

「俺よりも、奏の方が知ってると思うよ。玲と同じクラスだし」

「でも、鳥海くんは教えてくれなかったもん……」

「じゃあ、諦めた方がいいかもよ」

 先ほどまで言い淀んでいたのがまるで嘘のように、スラスラと言葉が返ってくる。その一つ一つに、梨生奈は心が抉られていくのを感じた。

「第一、人の好きな人を知ったところで、君は何をするつもりなの。嫌がらせ? そういうことに加担する気は、残念ながらないから」

「……っ」

 思わず、強く唇を噛む。

 彼の言うことは正論だ。むしろ、自分がこうやって想い人の色恋ごとに首を突っ込むこと自体が間違っている……そんなこと、言われなくたって分かっていたつもりだったのに。

「ごめんね。わたしはただ……どうしても、秋月くんが誰を想っているのか、知りたかったの。それだけのつもり、だった」

 本当に、それだけのつもりだったのに。

 彼の想い人が誰なのか、どうしても知りたくて。こちらに振り向いてくれないことが分かっていても、何かせずにはいられなくて。そうやってまた、無関係なはずの人たちを巻き込んでいく……今まさにそんなことをしている自分は、正真正銘の悪女だ。

「こっちこそ、突き放すようなこと言ってごめん」

 トーンの落ちた穏やかな声が降ってきて、梨生奈は目に涙を浮かべながら力なく首を横に振った。

「ううん」

 謝らないで。あなたは、何も悪くなんてないのだから……。

「よく考えてみれば、こういうこと聞いちゃうわたしのほうが非常識なんだもんね。雪宮くんが気を悪くしても、おかしくない」

 真紘もまた、同じように首を横に振る。

 彼が何を抱えているのかは知らない。それでも、自分が声を掛けたことによって、その心の内に土足で踏み込み、知らず知らずのうちに掻き乱して傷つけてしまっていたのだろうということだけは分かる。

 ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……。

 廊下に視線を落とし、小刻みに身体を震わせる梨生奈の頭に、不意にぽふり、と何かが乗るような感触があった。跳ねるように軽く、ぽふぽふと優しげに叩かれる。

 それが真紘の手だと気付き、梨生奈は竦ませていた身をふっと和らげた。撫でられているわけではなくて、けれど痛くはなくて、それでいてどこか温かい……真紘の優しさを感じているような気がして、凝り固まった心がゆっくりと解けていくような心地になる。

 そのままの状態で、梨生奈はそっと目を閉じる。

 気持ちが落ち着き、梨生奈が自分から動き出すまでずっと、真紘は梨生奈の頭をぽふぽふと叩き続けてくれていた。

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