鳥・その7

 父親からその話を打ち明けられたのは、もうすぐ日付が変わり日曜日になろうとしていた、ちょうどその時。

 リビングも両親の寝室も真っ暗で、同居する家族はみんな寝静まったのであろうということはなんとなく分かっていたのだが、それでも奏自身はまだ眠ることができずにいた。

 不意に入口の方からトントン、と乾いたノックの音が響き、奏は思わずドキリとする。物思いに沈み、はるか彼方へ飛んでいた意識を一気に現実に引き戻すと、ドクドクと早鐘を打つ心臓を押さえながら、「何?」と声を上げる。

「奏、まだ起きてる?」

 ドアの向こうから遠慮がちに発された、その声の主は父親だった。

 起きている、と答えれば、間髪入れずにカチャリ、とドアが開き、思っていたのと同じ姿が現れる。自分とも、葵とも……そしてどこか母親とも似たところがある、不思議に整った容姿をしたその男は、何故か妙に深刻そうな表情で奏を見ていた。

 こちらの様子をうかがうように、身体のどこかにそっと触れるかのような、控えめな声色で尋ねられる。

「明日、予定はある?」

「予定? ないけど……あぁ、でも確か母さんが同窓会でいないって言ってたから、しいて言うなら留守番かな」

 少し考えながらも、父親の雰囲気に呑まれているかのような慎重さでそう答える。

「父さん、どっか出掛けるの? だったら心配しなくても、俺ももう高校生だし一人で留守番……」

 奏の言葉を遮るように、父親は何故か大きく首を横に振った。

「いや、留守番は必要ない。明日は鍵を掛けて行くから」

「……え?」

 唐突かつ意図の不明な言葉に、思わず掠れた声が漏れる。

 父親はひどく真剣なまなざしで、奏を射るように見ていた。普段なら絶対に見せない、反論を許さないとでも言わんばかりの圧倒的な雰囲気に、自然と身体がすくんでしまう。

「明日、出掛けるから」

「どこに?」

 ごく自然な疑問とともに尋ね返してみれば、父親は僅かに声を詰まらせる。何だか、これから言いにくいことを言おうとでもしているかのようだ。

 それでもそれは少しの間のことで、すぐに表情を作り替えると、父親は不自然なほどに淡々と、すでに決定していることを告げるようにこう言った。

「明日、母さん・・・のところに行くからな」



    ◆◆◆


「なん、で……?」

 いらっしゃい、とおっとりした笑顔で出迎えてくれた母親――無論、現在の母親ではなく、血の繋がったかつての母親のことである――の隣で、自分とよく似た容姿をした同い年の姉は、ただ呆然と立ち尽くしていた。どうやら今日の訪問について、母親から少しも知らされていなかったらしい。

 母親いわく、「家にいて、とは一応言っておいたのだけれどね。馬鹿正直に全部打ち明けて、逃げられたら困るじゃない?」とのことだ。それほど葵は自分と顔を合わせることを嫌がっていたのか……と、奏は内心で落胆の気持ちを覚えた。

 一瞬葵の方に目をやりはしたものの、なんだか気まずくて、ちゃんと目を合わせられぬまま中へ足を踏み入れる。父親とともに案内されたリビングの大きなテーブルには、既に四人分の珈琲と茶菓子が準備されていた。

 現在母親と葵の二人暮らしだという、その家に入るのは今日が初めてだった。室内は女の二人暮らしらしく理路整然としているものの、しっかりと生活感を漂わせている。

 珈琲やクッキーの芳香に混ざった独特の甘ったるい匂いは、室内のどこかに置かれたアロマ系の市販商品が発しているものなのか。それとも、もともと二人が醸し出す女の匂いなのか――……。

 そんなことを考えていると、奏は不意に、酒にでも酔ったかのように頭がくらくらするのを感じた。今すぐ帰ってしまいたい衝動に駆られたが、他人の家の空気にまだ慣れていないだけなのだと自分に言い聞かせ、どうにか足を踏ん張る。

 昨日父親が見せた表情――普段の能天気な言動からは想像もつかないような、どこか思いつめたような表情――を見てしまっては、もう逃げ出すことなどできなかった。

 舞台は、まるで予期していたかのようにきっちりと用意されている。

 きっと、これからこの場で大事な話をするのだ。自分も、そして葵も知らないであろう真実が、両親の口から語られるのだろう。

 自覚すればするほど、身体の震えが止まらなくなる。寒くなどないはずなのに、先ほどから手の動きがまるでかじかんだかのように鈍くなってきているのを、奏はぼんやりと感じていた。

 そして似た感情を、葵もまた抱いているようで――……。

「とにかく、座りましょうか」

「そうだな。じゃあ失礼するとしよう」

 父母の間で交わされる、何気ないはずのそんな会話さえも、どこか遠くに聞こえる気がする。

「ちょうど四人掛けのテーブルなんだね。もう何年前になるのかな……みんなで暮らしていた、あの頃が懐かしいよ」

「二人掛けのテーブルだと、なんだか寂しくてね。あたしや葵ちゃんのお友達がいつ来てくれてもいいようにっていう配慮も、もちろんあるのだけれど……それはまぁ、表向きの理由だわね」

「ははは、それはなかなか君らしい理由じゃないか」

 父母が談笑しながらごく自然に隣同士で椅子を引き座ってしまうものだから、葵と奏は必然的に、その向かいの席に隣同士で座らなければならなくなる。そのことに気付き躊躇していると、父親がまるで急かすように「何をやっているんだ。早く座りなさい」と声を掛けてきた。

「ほら、葵ちゃんも」

 心なしか昔よりも穏やかになった、おっとりとした笑みと共に向けられた母親の言葉に、葵もまた躊躇しながらおどおどと椅子を引き、恐る恐る腰かける。奏一人だけがいつまでも突っ立っているというわけにもいかず、奏は意を決してその隣の椅子を引き、腰を落ち着けた。

 隣から聞こえた緊張気味の吐息に、わざと気づかぬふりをしながら。


「――今日こうやって、久々に四人で集まったのは……そろそろお前たち二人に、俺たちから本当のことを言わなければならないと思ったからだ」

 ブラックの珈琲を一口すすった後、息をついた父親は口を開いた。いつも聞くものよりも、心持ち早口になっているような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。

「実は俺と母さんには、一つだけ、お前たち二人にずっと隠していたことがあった。それを今日は……打ち明けようと、思う」

 『本当のこと』という意味深な言葉に、奏は自分の心臓に氷のうでも触れたかのような、ゾクリとした冷たさを感じた。

 隣に座る母親が、父親の言葉に同意するようにこくりとうなずく。

「それは、あたしたちが別れた本当の理由にもつながるわ」

 二人が別れた、本当の理由。

 それは奏にとって、ずっと疑問に思っていたことだった。先ほど見た通り二人に不仲である様子はないし、一見別れる理由など微塵もなかったように思うのに。

 何度か父親に聞いてみたこともあるけれど、おっとりとしたいつもの笑顔でうまくかわされてしまっていて……結局、その辺りのことはあやふやなままで、自分はここまで成長したのだった。

 ふと気になって、隣の方を横目で見れば、葵は不気味に美しくなった青白い顔に強張ったような表情を浮かべ、うつむいていた。きっと今の自分も、似たような顔をしていることだろう。

 子供たちの心情を理解しているのか、両親はどこか沈痛な面持ちだ。これから言わなければならないと考えているのであろうことを、言い淀んでいるかのようでもある。

 打ち明けるべきか迷うほどに、二人が自分たちに対して隠してきたことは大きなことなのだろうか。だとしたら……それはどんなことなのだろう。

 そして何故、今のタイミングでそれを包み隠さず、奏たちに対して告白してしまおうと思ったのだろう。

 数秒の沈黙の後、目配せするように目を合わせ……ようやく決意を固めたかのように、二人は心持ち硬い声で、順番に話し始めた。

 自分たち双子に対して、両親が今までずっと隠し続けてきたという秘密――衝撃的かつ重大な、ある一つの事実について。

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