第3話 潜んでいた悪意が牙を剥く

「母さん、行ってきます。すぐ帰ってくるから」

「行ってらっしゃい。気を付けるのよ」


 私は買い物用のマイバッグを肩から提げ、玄関の扉を開けた。


 事件から2週間が経ち、家の外で待機しているマスコミ関係者は少なくなっている。有紗の死に関する世間からの興味はすでに失われたのだろう。


 現場周辺での聞き込みや科学鑑定も行われたが、未だに犯人像は浮かんでこない。現場には犯人に繋がる証拠がほとんど残されていないのだ。

 こうしたことから、殺人のプロフェッショナルによる犯行ではないかと言われている。「入念な殺人計画があったのではないか」とも元刑事のコメンテーターが述べていた。

 ただ、有紗は普通の女子高生だ。

 有紗にそこまでして殺すほどの価値があったとは思えない。 


 犯人像や殺害される動機さえ分からない。警察の捜査体制が縮小されるのも時間の問題だった。


    * * *


 私は頼まれた買い物を済ますため、近所のスーパーマーケットに出掛けた。

 夕食の準備前の時間ということもあり、訪れている客は多い。


 買うように頼まれた野菜を手に取り、値段を確認する。


「うわ、何これ! 野菜めちゃくちゃ高いじゃん!」


 私は野菜の値段を見て目玉が飛び出そうになった。野菜だけでなく肉や魚、乳製品、お菓子など、ほとんどの品目で値段が上がっている。


「ああ、そうか。謎の生物が出ている影響で価格高騰が起きているんだ」


 この時、私は初めて『謎の生物出現』に関する影響を感じた。中東地域の支配の影が国境を越え、日本の家庭に届いているのだ。

 その生物たちによって石油や天然ガスの運搬ルートが支配され、燃料価格が高騰していることが大きな原因だろう。このままでいずれは家計が火の車になる。


 ホント、この問題。早く解決してくれないかな。


 私は安い商品を選び、どうにか母から与えられた予算内で買い物を済ませることが出来た。


 私はレジを抜けると商品の入ったかごを台の上に置き、マイバッグの中へ買った品物を積み替える。


 そのとき――


 ヴゥゥゥン……!


「……何?」


 私の耳に車のエンジン音が届く。積み替え作業を行う手を止め、音が聞こえた方角へ目を向けた。


「あの車、スピード出しすぎじゃない?」


 音の発信源は店のウィンドウの外。

 駐車場正面の幹線道路に、猛スピードで走行する車が見えた。エンジン音が店内まで聞こえ、私の目はその車に釘付けになった。


「ちょっと、やばいんじゃ?」


 ヴゥゥゥン!


 その車は店に向かって、速度を落とさないまま直進している。


 ドガッ!


 その車は躑躅つつじの植え込みを乗り上げ、駐車場に進入する。それでも、その車は速度を落とすことはない。


「うわぁっ!」


 ドゴッ……!


 駐車場の買い物客を撥ねるが、それでも車は止まらない。

 車は迷うことなく、私のいる位置へ向かって暴走している。


「こ、こっちに来ないでよっ!」


 私は身の危険を感じ、急いで荷物を持ってその場を離れた。


 次の瞬間――


 ガッシャアアン!!


 飛び散るウィンドウの硝子がらす

 粉々になった破片が水飛沫のように飛び散る。


 車は店に衝突し、レジコーナーに飛び込んだ。

 カウンター、レジスター、店員――様々なものを吹き飛ばす。


 そんな凄惨な状況の中でも、私はどうにか無事だった。咄嗟にその場を離れたことが功を奏したのだろう。


「ハァッ……ハァッ……」


 目の前の状況に、過呼吸気味になる。

 私は手で口を押さえ、目を見開きながら現場近くに立ち尽くしていた。

 車が衝突した場所は、さっきまで私がいた場所だ。

 もし、あそこを離れていなかったら、確実に自分の身は車で吹き飛ばされていただろう。


「キャアアッ!」


 女性客の叫ぶ声が聞こえる。車が吹き飛ばした店員や客がカウンターや陳列棚の下敷きになり、全身から血を流していた。


「誰か! 助けて!」

「だっ、大丈夫ですか!?」


 レジカウンターの下敷きになった店員の女性が助けを求めていた。そのカウンターは大きく、かなりの重量がありそうだ。女性の顔には苦悶の表情が浮かんでいる。

 私は自分の荷物を足元に置き、彼女を助けようとカウンターに近寄った。


 そのとき――


 バガッ!


 衝突した車の運転席のドアが開かれる。

 車から降りたのは、スーツ姿の若い男性だ。彼は頭部から血を流している。男は車から降りると何をするわけでもなく、そこにフラフラと立っていた。まるで、生気の抜けた人間のように。

 私は最初、それは脳震盪を起こしているのだと思っていた。


「ちょっと、アンタ! 早くその車をどかしなさいよ!」


 男の近くにいた小太りのおばさんが鬼のような形相で叫んだ。おばさんは彼に近づいて肩を掴む。


「ほら! アンタの車の下にも人が埋まってるのよ!」

「……ァ……ァア……」


 だが男の様子がおかしい。彼の口からは涎が垂れ、呻き声のようなものが聞こえる。

 特に気になったのは男の目玉だ。虹彩が奇妙な色に光り、瞳孔も円形ではない。

 ただただその様子が気になってしまい、私の目は男に釘付けになる。若い店員を助けることも忘れて彼を見ていた。


「聞いてるの! 早く車を……!」


 おばさんが再び彼に怒鳴る。


 その瞬間――


「ウグアアッ!!」


 バグゥッ!


 彼はおばさんへ飛び掛かり、首の動脈へ噛み付いた。


「何なのよ! アンタ! 痛い! 止めなさいって! がっ、ごぼっ!」


 ドサッ……!


 動脈は噛み切られ、おばさんは血の海に沈んだ。

 一体、目の前で何が起きているのだろう。

 どうして男はおばさんを噛み殺したのだろう。

 彼の行動を理解しようとするのに精一杯で、私は息を殺して惨劇を見つめることしかできなかった。


「アァ……アァ……!」


 男の極彩色の瞳に、私の姿が映る。


「いや、来ないで!」

「ァアッ……!」


 彼の足は完全に私へと向いていた。一歩ずつゆっくりと私に歩み寄り、男の青白い手が私へと伸びる。


「い、嫌ァッ!」


 私は恐怖を感じ、その場を逃げ出した。男の脇をすり抜け、彼の視界から外れる。

 カウンターに潰されている店員のことを放置し、全力で店の出口へ走った。


「キャアアアア! 来ないでぇぇぇ!」


 後ろから聞こえてきたのは、あの店員の声だった。私は振り返らず、自分の荷物も置いたまま店の外へ出た。


「ごめんなさい!」


 私は走りながら謝った。とにかくスーパーマーケットから離れたくて、全力で走った。


 どうしてこんなことになったのだろう?

 あの男は確実にまともではなかった。

 一体、何が起きているのか、私には分からなかった。

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