第48話 桐倉小夜子

「終わったのね」


 私は蠅の王の墓標となった光の塔を見上げていた。どこまでも高くそびえるそれは、彼の最期としてふさわしくないほどの華々しさを持っていたと思う。


 そのとき――


 カツン!


 つま先に何かが当たる感触があった。

 顔を向けると、そこにはハチのような絵が刻まれた紫色の真珠が……。


「これって、アイツが飲み込んでいた……」


 それは『皇蜂の紋章』と呼ばれる、魔族を意のままに操るための宝玉だった。

 あの激しい戦闘でも壊れずに体内でその形を保ち、騎兵トルーパーが崩れたことで排出されたらしい。


 私はそれを拾い上げ、指でつまんで見つめる。禍々しくも美しい紫色に、自分の瞳が吸い込まれそうになった。どこか魅力を感じずにはいられない。


「巨乳女、それを飲み込め」

「え?」


 透が私に話しかける。


「な、何を言ってるの、あなた。そんなことしたら私が魔族の王になっちゃうじゃない。こんなときに冗談はやめてよ」

「僕は冗談なんか言ってない。お前が王になるんだよ。それで戦争が終わる」


 透の目は真剣そのものだった。突き刺してくるような覇気のある視線に、私は思わず目を背ける。


「蟻兵……?」


 視線をずらした先に見えたのは、蟻兵の死体。

 そこに多くの下級魔族が群がっていた。小鬼蟲ゴブリン・セクト甲虫頭大鬼ビートルヘッド・オーク魔界アーク出身の魔族たちが無言でじっとそれを見つめる。


 私には彼らの感情がうまく読み取れない。

 でも、かつての魔王の死を深く悲しんでいるように見えてしまう。

 呆然と立ち尽くすその姿は、家族を失ったときの自分を連想させた。これからどうすればいいのか分からなくなっている、暗闇に閉じ込められたあの私を。


「何を考えてるのよ、私は」


 ダメだ。

 そんなことを考えたら、魔族のことを許してしまいそうになる。

 家族や仲間の少女を殺した、この生物たちを。

 私は彼らを倒し、人間を救うんだ。

 そのために私は自らも魔族になってここまで来たというのに。


「透。私には王になるなんてできない」

「どうしてだ?」

「だって、私は彼らを殺すために、ここへ……」


 そのとき、群がっていた魔族たちが一斉に私に向かって歩き出していた。

 魔王を殺されたことに対する報復だろうか。しかし、彼らに殺気のようなものは感じない。

 ゆっくりと、私の前に集まっていく魔族。


 そして――


「え……」


 彼らは跪いた。


 私に向かって。


「どうしてよ、ねぇ」

「……」


 跪く理由を答えてくれる者はいない。

 でも、理由は自分の中で分かっていた。


 彼らには新しい王が必要なのだ。

 自分たちを導いてくれる強いリーダーが。


 その役目を私に任せようとしている。蟻兵を倒し、蠅の王ベルゼブブとどめを刺してその強さを実証した自分に。


「止めてよ! 私はあなたたちを殺すためにここへ来たの!」

「……」

「だから、そんなことを私に求めないでよ!」

「……」


 頭を下げて無抵抗でいる魔族を殺すことなんて容易い。光剣を召喚して、そのまま頭に突き刺せば終わりだ。

 でも、できなかった。

 私も魔族になったせいだろうか。自分たちの頼れる大きな存在を失い、不安に満ちた心が伝わってくる。彼らがどうしようもなく不憫な存在に思えてしまったのだ。


 私は握っていた『皇蜂の紋章』を見つめた。

 これを飲めば、私が彼らの王になることが確定してしまう。この宝玉も私を魅了するかのように不気味な輝きを放っていた。


「あのときみたいに私を殺しに来なさいよ! 私の仲間を殺してきたときみたいに!」

「……」

「そうすれば、迷いなくあなたたちを殺せたのに!」

「……」


 私は手元の宝玉を地面に投げ付けようとした。

 こんなものがあるから、私が王に選ばれる。それならこれを消してしまえばいい。

 両親や仲間の敵を討ちたい。これまでの犠牲を無駄にしたくない。

 そんな気持ちは、まだ心のどこかに残っていた。


 しかし――


「どうして……」


 握った手を振り上げたが、そのまま下ろすことはできなかった。

 魔族たちの不安げな視線が私に集中する。


 無抵抗な敵など殺すことができない。

 安い正義感と言われればそうかもしれない。でも、そうすることで自分の中にある何かを傷付けたくなかった。


 蟻兵が必死に守ってきた魔族。彼女の遺志を水泡に帰すことができるのだろうか。

 彼女は仲間を救うため戦っていた。そこには私と共通する部分が多々ある。いつの間にか私は彼女に同情していた。目の前にいる魔族たちも、私の中にリーダーだった蟻兵と重なる部分を見つけたのかもしれない。


 魔族が何のために戦っているのかを知らなければ、蟻兵と出会わなければ、私が魔族にならなければ、こんなに迷うことはなかっただろう。


「ねえ、答えてよ、蟻兵。あなたは私にどうしてほしい?」

「……」


 もちろん蟻兵からの応答はない。

 でもきっと彼女ならこう答えるはずだ。「この子たちを守ってくれ」と。


「ふふっ、相変わらず優しいね。小夜子ちゃんは」


 気が付けば琴乃が私の隣にいた。気絶から回復し、ここまでやってきたのだろう。彼女は微笑み、跪く小鬼蟲騎士ゴブリン・セクト・ナイトを我が子のように撫でた。


「小夜子ちゃんはこの子たちのために悩んでるんだよね」

「そ、そんなこと……」

「小夜子ちゃんもこの子を撫でてみてよ」


 私は琴乃に促されるまま、近くにいた小鬼蟲ゴブリン・セクトの頭部を触ってみる。その個体は抵抗することもなく、私の手を受け入れた。

 ひんやりとした甲殻。

 そこに今はどこか愛おしさを感じる。


「この子たちも小夜子ちゃんと同じで、仲間を守るために必死だったんだよ」

「でも……」

「小夜子ちゃんは昔の私みたいに無力な相手を殺すような人になってほしくない。怒りに体を任せていると、胸の奥がぐちゃぐちゃになって苦しくなるから」


 彼女は私を優しく抱き締めた。

 とても温かい。こんな感触は久し振りな気がする。


「琴乃……」

「私は人間を許したよ。小夜子ちゃんのおかげで、心が楽になった」


 そうだった。

 私は琴乃に人間を許すよう説得していたんだ。

 それが今、立場が逆になっている。あのときの彼女も、今の私と同じような気持ちだったのだろうか。


「透君はどう? 小夜子ちゃんが王になることに賛成だよね?」

「僕には王になる願望はない。魔族を指揮してこの戦争さえ終わらせてくれれば、巨乳女が王でも構わない」

「もっと具体的な理由を言ってほしかったのに……」


 透は腕を組んだまま私を横目で見ていた。


「まあ、こうやって優柔不断になるのは問題だがな」

「私、やっぱり王には向いてない……よね?」

「いいや。そこは僕らがお前を支えてやる。琴乃もそのつもりだろ?」

「うん!」


 満面の笑みで頷く琴乃。


「私、ちゃんと小夜子ちゃんを支えるから!」

「僕も行く末を見守らせてもらう」


 二人は真っ直ぐな視線で私の顔を覗き込む。


 私は決めた。

 今ここで戦争を終わらせる。

 勝者も敗者もいない、この無意味な戦いを。


 私は――











『皇蜂の紋章』を飲み込んだ。












 雲一つない空に浮かぶ朝日が、私たちを白く照らしていた。

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