第2話 水底に咲く花


「ど……どうしよう」


 一方、ソランを突き落としてしまった少年は、どうしたらいいか戸惑った。

 詩経や書経、弓と馬術は最近習い始めたが泳ぎは習っていない。

 去年一度同じような時期に、ついうっかり足を踏み外して彼もこの池に落ちたことがある。

 その時は父の護衛だった武官がたまたま近くにいてすぐに助けられたが、ものすごく冷たかったことを鮮明に覚えていた。


 宮中にはいつもたくさん大人がいて、いつも目を光らせているのに、今は近くに誰もいない。

 それに、池の中に沈んだ少女は、全く浮いてくる気配がない。


「……よ、よし、俺が助ける」


 泳げもしないのに池の中に飛び込むなんて、無茶な話だとわかっている。

 けれど、今、この子を助けられるのは自分しかいないと、勇気を振り絞って息を止め、池の中に入った。

 自分が押してしまったせいで、池に落ちてしまったのだ。

 助けなければ……


(いた……!!)


 何かに吸い込まれるように、水底へ沈んでいく女の子。

 青緑色の中、桃色の衣の裾が広がりながら沈んでいくその姿は、はまるで水底に咲いた一輪の花のように見えた。

 絶対に助けなければならない。


 実は少年がこの東宮殿に住むようになってから次々と飼っていた兎や犬、鳥などがよく死ぬようになってしまっていた。

 内官に原因を調べるように命じても、まったく何の報告もない。

 この東宮殿でまた命が失われてしまうのは耐えられない少年は、泳げないながらも必死にソランの手をつかもうと手を伸ばす。


(捕まえた!)


 なんとか手を掴むことができて、一安心したところで、つい止めていた息が水中に漏れ出してしまう。

 吐いてしまったらあとはもう、吸うしかない。


(ど、どうしよう……!!)


 その時、勢いよく池に飛び込んできたのが、一緒に弓を習っている優守ウスだった。

 ウスは少年より二つ年上の割に体が小さかったが、怪力の持ち主で、よく弓を壊しては、師匠に怒られている。

 ウスは二人を肩に担ぎ、あっという間に水面まで泳いで顔を出すと、青ざめた表情で水際に立っていた内官たちに向かって叫んだ。


「二人いる!! 受け取れ!!」

「えっ!? えっ!?」


 意識のないソランと少年の体はウスの怪力で投げ飛ばされ、宙を舞う。


(えっ!? ええっ!?)


 そのまま見事に、内官たちの胸元に飛んでいった。

 意識はあるが、なかなか経験することのない角度からの見る光景に驚きすぎて少年は言葉が出ない。

 その代わり、一気に飲んでしまった水を吐き出して、咳き込んだ。


「皇太子様!! 大丈夫ですか!?」


(み、水の中より、今の方が怖かったんだが……!?)


「ゲホゲホっ……俺は大丈夫だ。それより、この子は……? 息をしているか?」


 ソランを抱きかかえていた内官は、首を横に振った。


「息を……息をしていません」

「脈は……?」

「脈は……あ、わずかですが!! まだあります」

「すぐに薬師を呼べ!! 助けるんだ!! それと、兎……————」


 皇太子も急に意識を失った。


「皇太子様!?」


 もともと昨夜から熱があって体調が悪かったのだ。

 冷たい池の中から出てきたというのに、ソランとは対照的に皇太子・輝星フィソンの体は燃えるように熱かった。



 ◇◆◇



 奇跡的に目が覚めたソランは、天井の梁からこちらを見ている何かと目があった。

 猫のようにも見えるが、尻尾が二本ある謎の生き物が梁の上からソランを見下ろしている。


(なんだろうあれ……)


 ぼんやりした頭で考えてみるが、全くわからなかったためソランは考えるのをやめて、上体を起こした。

 どれくらい眠っていたのか、横を向いて辺りを見回せばもうすっかり夜になっていて、行灯あんどんのわずかな明かりが灯された部屋の中にいることに気がつく。

 おそらくついさっきまでは起きていたであろうリンミョンは、ソランが横になっていた布団の横で座ったままうつらうつらとしていて、今にもこちらに倒れて来そうだった。


 声を出すことはできないため、ソランはリンミョンの体を揺する。

 自分が起きたこと。それと、布団で寝たほうがいいよと伝えたかった。

 それに天井にいるあれはなんなのか、リンミョンなら知っているかもしれないと思った。


「ん……」


(起きて、叔母さん。あれが何か教えて)


 ソランが起きたことに気がついたリンミョンは、目玉が飛び出るんじゃないかというくらい目を開いたかと思うと、今度は急に泣き出してソランを抱きしめる。


「よかった、ソラン。よかった……目が覚めたのね……!」

「…………」


(起きたよ。ねぇ、それより、叔母さんあれが何か教えて。あれを見て)


 ソランは懸命に天井のそれを指差して主張したが、リンミョンには天井にいる何かは見えない。

 天井にいる何かはしばらくソランをじっと見つめていたが、リンミョンの声を聞いて、全身真っ黒な女官が三人入って来たと同時に、どこかへいなくなってしまった。

 黒地に北斗七星の刺繍が施された、リンミョンや他の女官たちとは明らかに違う光沢のある上質な衣を纏い、顔には口元を隠すように黒い布で覆われていて、目元しかわからない。

 そんな怪しげな女官の一人が、ソランの顔をじっと見つめて言った。


「————もう大丈夫のようね」


(え……?)


「ありがとうございます、!! 本当に、巫女様の言った通り目を覚ましました」

「強い瘴気に当てられていたからね。私たちを呼んで正解だった」


 リンミョンに巫女様と呼ばれたこの女官の声と目元が、ソランには亡くなった母と同じ気がした。

 切れ長な一重の目、いつも優しく抱きしめてくれた母の声……


 ソランは無意識に巫女の口元の布に手を伸ばし、引っ張ってしまう。

 布がはらりと床に落ちて、リンミョンはすぐにそれを拾い上げた。


「ちょっと、ソラン! 巫女様に何をするの! だめでしょう? 申し訳ありません、巫女様……————」


 リンミョンは布を拾い上げると、頭を下げながら巫女に手渡す。

 黒衣の巫女は位が高く、一介の女官がその顔をまじまじと見つめることは許されないのだ。

 できるだけ顔を見ないように、目を伏せる。


 しかし————


「はは……うえ?」


 ソランの声に、思わず顔を上げてしまった。


「ソラン……? あなた、今、声が……」

「あ、でた……」


 驚いた衝撃で声が出たソラン。


「えっ!? 望月マンウォルさん!?」


 これには、リンミョンも驚いてまじまじと巫女の顔を見ずにいられなかった。

 死んだ兄嫁の顔がこの黒衣の巫女と瓜二つなのだから————




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