第35話 世も末
酒と妓女たちの香のむせ返るような匂いで、頭がクラクラしてくる。
お忍びできたとはいえ、皇太子としてこんな如何わしい場所にフィソンは耐えられず、一人、妓楼を出て行った。
護衛でついてきた他の武官たちも、妓女に夢中でフィソンのことなんて見てやしない。
(まったく、昼間っから何を考えているんだ、あのバカは!! それに————俺はソラン以外の女には興味がない)
妓楼にはたくさんの女がいたが、フィソンは常にソランのことしか頭になかった。
(皇太子妃が決まるまで、ソランに会えないだなんて……面倒だ。ソランだけでいいのに)
父である皇帝には、何人も側室がいる。
歴代の皇帝もそうだった。
けれど、フィソンはソランさえいれば十分だと思っている。
(俺には理解ができない……)
皇帝の最初の花巫女で、今は側室となっている第一皇子の母は、とても優しい人で、ミエ皇后の死後、一番フィソンのことを気にかけてくれた人だった。
息子であるスンソン皇子は、自分の母がフィソンに優しくするのが気に入らなかったようで常にフィソンに強く当たってきていたが、それを注意してくれて、唯一味方になってくれていた。
けれど、いつもどこか寂しそうな目をしている。
それが他の側室や皇后の元に通っている時だと知ったのは、もう少し大人になってからだが、子供ながらにどうしてこんなに優しい人を、父は放っておくのか、理解できなかった。
(父上が側室を増やしたのは、世継ぎを多く残すためだとは知ってる。でも、それなら俺はソランとの間にたくさん子供をつく……————)
いつだったかウスに見せられた男女の営みについて書かれた本の内容を思い出して、足を止める。
(いかん、何を考えているんだ……!! 俺は!! こんな真昼間から!!)
このままでは危ない妄想で頭がいっぱいになりそうで、気を紛らわすためにフィソンはしばらく一人で町の様子を見て回ることにした。
ほとんど宮廷の外には出たことがないため、どこかあてがあるわけではないが、ゆっくり歩いていると、偶然にも結婚式をしている家の前を通る。
花婿の前に、二人の女性が並ぶ。
一人は花巫女、一人は花嫁だ。
(ずいぶん年上の歳の花巫女だな……)
花巫女の衣装を着ていたのは、花嫁と花婿よりかなり年上に見えた。
今時、貴族でもないのに花巫女を雇える家がある方が珍しいのだが、宮廷で育ったフィソンはそのことを知らなかった。
「花巫女なんて……貴族でもないのに、別に雇う必要ないじゃない」
「どうしてもそうするようにって、酒屋から連れてきたそうよ」
「ああ、そういえば、あの家のご主人、確かご実家は結構なお家柄だって言っていたわね」
(花巫女を雇う……?)
参列していた親族か、近所の人たちの会話を聞いて、ますますわけがわからないと首をかしげる。
(雇うということは、報酬がでるのか?)
「まったく、いつまであんな古い風習にこだわっているのかしらね。私、巫女の力なんてこれっぽっちも持っていないけど、三人産んだわよ?」
「私も。初めての相手をした女が死ぬなんて、迷信だってみんな知ってるのにね……貴族でもあるまいし、女房一人で十分なのよ。花巫女なんて、ただの贅沢でしかないわ」
「そうそう。っていうか、花嫁は複雑でしょうよ。ただでさえ、他の女と先に寝た男と寝なきゃならないなんて」
「無駄な恨みを買うだけじゃない」
町人たちの会話に、フィソンは強い衝撃を受ける。
民の間では、花巫女の風習をまだ守っている方がおかしいのだと。
「ああ、そういえば、知ってる? 花巫女の呪いの話」
「花巫女の呪い?」
(花巫女の呪い……?)
「そう、なんでも東宮殿の花巫女の多くが、儀式の後、花嫁にひどい目に遭わされて死んでいるんですって。そのせいで、東宮殿の池にはその巫女たちの怨念が呪いになっているそうよ。そのせいで、ほら、前の皇后様が死んだって————」
「ああ、今の皇太子様を産んだ方だろう?」
「そうそう! その皇太子様もそろそろご結婚なさるとか」
「まぁ、もうそんな年頃になったの?」
「時が経つのは、早いわねぇ」
「それと、皇太子様といえばこんな噂もあるわ」
「どんな噂……?」
「ほら、妓楼の女主人の娘————たしか、
「なんだそれ、本当か!?」
「まったく、世も末だね。もし選ばれたら、将来は皇后様?」
(ソクアン……?)
フィソンが事前に聞いていた候補に挙がっている貴族の娘たちの中に、そんな名前の娘はいなかった。
どうせ最終的に決めるのは皇后だと知っているから、まともに人相書きも見ていなかったが……————
「まぁ、結局のところあれだろう? 陽家の思い通りに動かせるコマであれば、誰でもいいのだろうさ」
「ああ、まったく、世も末だわ」
【第七章 欲張りな花嫁 了】
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