第8話 逃げるが勝ち
「よ……夜伽? 死ぬ……? え?」
(夜伽って、あれよね? 確か前に、後宮殿で流行っていたあの小説の……————)
数ヶ月前に後宮殿の下級女官たちが、『
一部の巫女の間でも『
それも、挿絵付きだった。
最後まで読む前に、見つかったらまずいと燃やされてしまったが……
「やっぱり、知らなかったのね? おかしいと思ったわ。私なら、花巫女になんて絶対なりたくないもの」
「え……? どうして……?」
「どうしてって……よっぽど運が良ければ寵愛されるけれど、花巫女は正室には絶対になれないし————もし側室になったとしても、正室や他の側室からありとあらゆる嫌がらせを受けるのよ? そのせいで、これまで何人死んだことか————」
現在、正式な花巫女の風習は、貴族や皇族の間でしか今は行われていない。
穢れを受けると普通の人間だと死んでしまうという言い伝えがあったため、本当に巫女として力のある娘を用意するのが正式なものなのだが、巫女の力を持つようなちょうどいい年頃の女なんて、そうそう見つかるものでもない。
さらに庶民が花巫女をする場合は、娼婦や花巫女を商売として行なっている————つまりは、自身の体を売ることで生計を立てている女たちを雇っている。
本物の巫女を雇うには金がかかるのだ。
一方で、皇族や貴族たちの花巫女となる星宮殿の巫女は、国中から集められた巫女の精鋭部隊。
皇太子の花巫女となれば、確かに将来は星宮殿の長の座が約束されるかもしれないが、皇太子が皇帝になった後も寵愛が続かない限り、女性としては不遇の存在だ。
それに皇后が早死にしたり、離縁した場合、新しい皇后と同じく花巫女も新たに用意する場合がある。
現在の皇后と花巫女がその例だ。
フィソンの生母だった前皇后は、フィソンがまだ小さい頃に亡くなっているため、現皇帝が現皇后と婚姻する前に、花巫女も新しく選ばれた。
元花巫女は側室ということで現在は落ち着いたが、もし第一皇子を産んでいなかったら、その機会すら与えられなかったかもしれない。
「正室には長生きしてもらわないと、花巫女の地位なんて簡単に追われるかもしれない。おかしな話よね。寵愛を受けたら受けたで、正室から疎まれて虐げられるけど、自分の地位を守るために呪いや妖から正室も守らなければならないなんて……————本気でそんなにものになりたいの?」
「え、だって……それは————」
(私はただ、師匠が花巫女に選ばれたら、自由にしていいって————ただ、そう言われたからで……)
ソランが花巫女を目指していた理由は、それしかない。
花巫女に選ばれ、皇太子の穢れをささっと祓ってしまえば、あとは自由だと思っていた。
夜伽の話なんて、まったく聞いていない。
「それとも、皇太子様とそういう関係になることを望んでいたの? 今だって、皇太子様と一緒にいたと聞いてるけど……もしかして、すでに恋仲とか……?」
「ま、まさか!! そんなわけないでしょう!? 今日初めて会ったのに!!」
「初めて……? いや、初めてではないはずだけど……」
「え?」
(いや、私会ったことないけど……? どういうこと?)
「あなたが東宮殿の池に落ちたとき————」
リンミョンは、十二年前の出来事をソランに話そうとした。
しかし、その瞬間————
「————おい、いつまで入ってるんだ! 皇太子様がお待ちだぞ!?」
シン内官が扉を開けた。
「ちょと!! シン内官!! いきなり開けないでください!!」
リンミョンがシン内官の前に立ち、ソランはさっと後ろを向いた。
可愛い姪の裸を見られるわけにはいかないと、リンミョンはものすごい早口でまくしたてるようにシン内官に詰め寄る。
「今上がりますから! それに、皇太子様からはしっかり体の芯まで温まってから出るように言われています!! どうしてあなたはいつもそうせっかちなんですか!? 前にも皇太子様に待つよう言われていたのに、全然待てなくて怒らせていましたよね!?」
「そ……それは……」
「皇太子様付きの内官が、主人の命令に背くとはどういうことですか? 一昨年亡くなった老犬のシェイシェイだって、皇太子様がいいというまでずっと待ち続けたんですよ? せっかちは良くないと、何度言ったらわかるんですか? あなたは犬以下ですか? えええ? そうなんですか!?」
「わ、わかった! わかった! 出て行くから!!」
シン内官はリンミョンに怒られて、肩を落としながら出て行った。
その悲しそうな後ろ姿は、あまりに情けない。
「まったく、あの人はせっかちで困るわ。本当にもう……」
リンミョンはもう急に開けられないようにと、扉に内側から鍵をかけ、扉を背にして振り返った。
「とにかく、ソラン。早くここから出たほうがいいわ。あなたが花巫女になっても、ならなくても、あの皇太子様が女の子を浴場に連れ込んだなんて噂が広がったら、大変よ!! 皇太子様はただでさえ気難しくて……みんな苦労しているんだから」
「う、うん……!!」
ソランは湯船から出て体を拭くと、さっと着替え、濡れた髪のまま浴場を飛び出した。
外はすっかり夜になっていて、雲の合間から満月が見えている。
誰にも見られずに逃げるには好都合。
できるだけ人気のない場所を通って、東宮殿の門を目指した。
(あ、でも、普通に門からでたら、門番に見られるわね……)
服は男物だが、サラシを巻いていないし、髪も結っていないためこのままだと変に目立ってしまうと考えたソランは、東宮殿を囲んでいる塀をよじ登る。
「よっと!」
ところが、塀の上から外へ飛び降りようとしているところを、偶然通りかかったフィソンが見ていた。
「おい、お前、そんなところに上がって、何を……?」
フィソンが声をかけた時には、もうソランは跳んでいる。
満月を背に宙を舞う動きがとてもしなやかで、この世のものとは思えない美しさだった。
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