第9話 不機嫌な理由


「————すみません!! 見なかったことにしてください!!」


 塀の向こう側で、そんな声が遠ざかっていく。


(な……なんだったんだ? 今のは……)


 自分が今見たものがなんだったのか、フィソンは理解するのに時間がかかった。

 何かものすごく綺麗なものが、満月を背に宙を舞っていたのはわかる。

 女だったような気もするが、服装は男だったような気もする。

 とにかく、ただ言えるのは、とても綺麗だと思ってしまった。


 宴の席で妓女ぎじょや旅芸人が踊っているのを見たことがあるが、そのどちらでもない、何かすごいものを見たような、感動を覚えた。

 あんなに高い塀を飛び越えるなんて、失敗すれば大怪我をするだろうし、打ち所が悪ければ死ぬ可能性もある。

 危ういからこそ、美しい。

 なんとも不思議な感覚だった。


「————って、顔はさっきの……」


 フィソンはしばらくぼーっとしていたが、もうとっくにソランが逃げきった後に、今のがポヤが懐いたあの黒服の男だったことに気がつく。


(そういえば、どこの誰だったのか……聞くのを忘れていた)


 そして、なぜかフィソンがずっと探しているあの少女の、まるで水の底に咲いた一輪の花のような姿が頭を過ぎった。


(あの時も、今日も……聞けなかった)


 素直に礼を言わなければならないと思える対象がもう一人増えてしまって、フィソンは頭をかかえる。

 皇帝陛下の嫡子として生まれ、腹違いの兄には疎まれ、信頼していた内官に裏切られ————すかり自分は名ばかりの皇太子だと、心を閉ざしていたフィソン。

 素直に誰かに感謝を伝えたり、自分の非を認めることができない性格になってしまっていた。


(あの娘は私のせいで池に落ちて死ぬところだったし……あの者がいなければ、きっと私が雨に打たれた。それに私一人では、捕まえても東宮殿まで連れ帰って来られなかっただろう……)


 フィソンは名前を聞かなかったことで、もう二度と会うことができないと思った。


(こんなことなら、すぐに最初に名前を聞いておけばよかった————)



 ◇◆◇




「はぁ……」


 あれからフィソンはため息が増え、いつも以上に眉間にシワを寄せているようになる。

 内官や女官たちは不機嫌そうなフィソンの表情に、一体誰が怒らせたんだと戦々恐々としていたが、実際は自分自身に怒ってるだけだった。


「————ど、どうなさったんですか? 皇太子様」


 その空気に耐えられず、シン内官が理由を尋ねる。

 だが、フィソンは自分の不機嫌そうな表情のせいで、まわりの内官や女官たちが怖がっているとは思っていなかった。


「なにが……?」

「そ、その……最近、皇太子様の表情が————その……あまりにも……」

「————怖いそうですよ。眉間のシワが」

「ちょっ……! ホ護衛官!! そんなはっきり言わなくても!!」


 壁にもたれかかり、立ったまま寝ているようだったウスが話に割って入る。


「回りくどい言い方をしても、フィソン様には伝わりませんよ。自分の顔が怖いって自覚してないんですから、はっきり言わないと」

「……私の顔が怖い? どこがだ?」

「ですから、その眉間のシワ! また寄ってます。ただでさえ、目つきが悪いんですから、もっとこう、笑顔で、ね! 眉間の力を抜いて、口角をあげてください」


 ウスはこれが見本だとにっと笑って見せた。


「……こうか?」


 フィソンも挑戦してみるが、あまりに不自然な笑顔で、より怖さが増してしいる。

 口角は上がっているが、眉間に力が入ったままだ。


「あー……余計に怖いんで、普通でいいです。ところで、本当に最近ため息が多い気がしますが、何か悩みでもあるんですか? それとも、誰かフィソン様に対して不敬な行いでも……?」

「不敬……? いや、まぁ、そうか。確かに不敬だな、あれは」

「え!? 一体誰が!? 私じゃないですよね!? 皇太子様!!」

「……お前じゃない。それともシン内官には、何か心当たりでもあるのか?」

「いえいえ!! そんなことはありません!!」


 シン内官は特に何もしていないが、なんだか嫌な汗をかいた。

 皇太子付きの内官になってから、もう二年になるが今だに皇太子の地雷がどこにあるか分からず、いつもどこかビクついているのだ。


「……安心しろ。この東宮殿の者たちに怒っているわけではない。怒っているのは私自身にだ。あの者……————ポヤを迎えた日にここへ連れて来た男がいただろう? 覚えているか?」

「え、ええ。黒い服を着た————顔の方はあまり覚えておりませんが……」


 シン内官は他人の顔を覚えるのが大の苦手である。


「俺は覚えてますよ! なんというか、男にしては綺麗な顔をしていましたよね」

「……そうだ。あれがどこの誰だったのか、分からないままできちんと礼を言えなかった自分が情けなくてな……」

「なるほど、そういうことでしたか」


 理由がわかって、シン内官も周りにいた他の者たちも一安心した。

 ところが、噂というものは常におかしな方に膨れ上がっていくもので————


「皇太子様のご機嫌がものすごく悪いそうよ!」

「え!? 本当に!? これから皇太子妃と花巫女の選定が始まるのに、大丈夫なの?」

「皇太子様って、普段から気難しいって話じゃない? どうなるのかしら」

「東宮殿の女官たちは、いつ打ち首にされてもおかしくないんじゃないかって、ずっとビクビクしているみたい」

「でも、どうして急にそんなに機嫌が悪くなったの?」

「詳しくは知らないけど、なんでも、新しく仔犬を飼い始めた日に東宮殿で何かあったみたい」

「犬? え? 何それ?」

「ほら、皇太子様ってお小さい頃、羊と兎を三匹も殺したって噂があるじゃない?」

「え!? あの話、本当だったの?」

「皇太子様は自分のいうことを聞かないと、気にくわないってすぐ殺しちゃうんだって」

「ああ、だから、女官たちも殺されちゃうんじゃないかって怯えてるのね」


 星宮殿や後宮殿でも、そんな噂が流れていた。

 もちろん、ソランの耳にもその噂が入る。


「————ねぇ、あの話聞いた? ソラン」


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