第39話 虎と狼


「いやぁ……若様、本当にありがとう。助かったよ。さぁ、食べて食べて」

「いや、私は何も……」

「何言ってんだい! あんたが助けてくれなかったら、うちの娘が死んでいたかもしれないんだよ?」


 昨日ことである。

 町で衝撃的な噂話を聞いたフィソンは、考え事をしながら道を歩いていた。

 もし噂が本当なら、皇后は皇太子妃に貴族でもない、妓楼の娘を当てがおうとしている。

 妓楼の主人は商人だ。

 ということは、貴族の娘ではない。

 皇太子妃ということは、将来は皇后になる。

 未だかつて、貴族の家の娘以外が、皇室に上がったことはない。

 貴族の家の娘でなければ、そもそも正室にはなれないはずだ。

 だからこそ、花巫女とは花嫁は別物だったはず。


 けれど、そんなことを言っているのは、今では皇族か貴族のみ。

 星華帝国の多くの民は、花巫女なんて古い風習だと思っている。

 それも、無駄に女の恨みを買うだけの悪習だと。


 それを未だに続けている皇室にも疑問を持ったし、もし、花巫女と花嫁を分ける必要がないのなら、それでいいじゃないかと思った。

 町の人々が言っていた通り、女房は一人でいい。

 片方にだけ心が向くから、いらぬ争いを生むだけではないか。

 よくよく考えれば、どの時代にも世継ぎの問題はあり、歴代の皇帝たちの母親たちは、誰を世継ぎとするかで度々争っていたという記録も残っている。

 昔読んだことのある星華帝国の歴史書でも、初代の皇后だった芙蓉ブヨンは皇巫も兼任していたはずだ。


 などと、ぐるぐると考え、気づけばすっかり夕日が沈みかけている。

 戻ろうと思ったが、どこをどう歩いたのかわからず、フィソンは町の外れまで来ていた。


 そこへ「ぎゃあああああ!!!」っと、幼い娘の悲鳴が聞こえてきた。

 フィソンがそちらを見ると、大きな虎が今にもその娘に襲いかかろうとしている。

 とっさに、道に落ちていた石を拾って虎に投げつける。


 虎の顔に石が当たり、怯んだ隙に娘を救い出すが、すぐに怒った虎が追いかけてきた。

 そこへ、虎を退治しようとどこかから弓を持ってきた娘の母親が矢を放つ。

 けれど、なかなか矢が命中しない。

 仕方なくフィソンは母親の外した矢を拾い、母親から弓と取り上げると、狙いを定めた。


 矢は虎の脚に命中。

 観念したのか、虎は追いかけるのをやめて、去って行った。


「本当に助かったよ。ありがとう」


 なんどもお礼を言われた後、半日ほど何も口にしていなかったフィソンの腹の虫が鳴る。

 もう夜も遅いし、泊まっていけばいいと寝床と晩御飯を用意され、今は朝食までご馳走になっている。


「若様、ありがとう。昨日はおっとうがいない日だったから、もうアタイ、本当に死んじゃうかと思った」


 この家の主人は、捕吏として働いているらしく、昨日は夜勤の当番の日で家を空けていたらしい。

 家にあった弓は、その主人のものだ。


「弓は主人が趣味で作っているものでね……私も習ったんだけど、ダメだね、いざっていう時に手が震えちゃって」

「若様は弓上手だったね!」

「はは、まぁ、一通り習ったからな」


 フィソンは弓なら子供の頃からやっている。

 剣や槍ではウスに勝てた試しがないが、弓だけは昔から得意だった。


「それで、なんでこんな町の外れに?」

「ああ、それが……その、考え事をしながら歩いていたら、いつの間にかここに出ていて」

「あらら、それじゃぁ、迷子だったかい?」

「まぁ、そんなところだ。情けないが、どの道を通ったら宮廷の方へ行けるか教えてくれないか?」

「ああいいよ。というか、私らも主人を迎えに行く予定だったから、一緒に行くわよ」

「それは助かる」


 今日は禄が支給される日で、この親子は夜勤終わりの父親と町の市場で買い物をする予定だった。

 道がわからないフィソンには、ありがたいことだ。


「宮廷についたら何か褒美を渡そう。何がいい?」

「いやいや、娘の命を助けてもらったんだ。悪いよそんなの」

「命を助けた恩なら、十分もらった。道案内の分だ」



 朝食を食べ終わり、フィソンはこの親子と一緒に宮廷の方へ戻って行った。


(かなりの距離を歩いていたんだな……)


 町の中心にが近づいてくるにつれて、周りに建物が増えて行く。

 あの家は山の近くに建っていたようで、辺りに他の建物はちらほらとしかなかった。

 もしその日の内に一人で帰ろうなんてしていたら、完全にフィソンは道に迷っていたに違いない。


(ん……?)


 その時、道の向こう側から、白い鳥のようなものが飛んで来て、バタバタとフィソンの頭上で羽ばたいている。


(鳥……? いや、紙か……?)


 よく見ると、それは鳥ではない。

 鳥のような形に切られた紙だ。

 真ん中に何か文字が書いてある。


「若様、これなぁに?」


 手を伸ばして、捕まえて見ると、フィソンの名前が書いてある。


「この文字……————」


 見覚えのある美しい文字。


(ソラン……? いや、まさか、そんなはず……————っていうか、これはなんだ? どういう仕組みで動いているんだ?)


 紙はパタパタと、本当に鳥のように生きているように動く。

 不思議な現象に首を傾げていると、道の向こうから声が聞こえてくる。


「皇太子様————!!」


 そこにいたのは————



 ◇◆◇



 同時刻、星宮殿。

 皇后とともに星宮殿に入ったスンソンは、ソランの部屋を探した。

 近くにいた幼い巫女見習いに部屋の場所を聞くと、簡単に案内される。


 男子禁制のこの星宮殿に男がいるということは、皇巫の許可をもらっているということだ。

 だからこそ、なんの疑いも持たれなかった。

 何か用事があって、星宮殿に来ているのだろうと。

 それが第一皇子ともなれば、尚更だ。


「ここが、ソラン様のお部屋です」

「そうか、わかった。もう下がっていいぞ」

「はい」


 スンソンは巫女見習いが立ち去ると、そっと襖を開ける。

 体調でも悪いのか、もう昼近くだというのに布団が敷かれたままになっている。

 それも、頭まで布団をかぶっているようだ。


「ソラン……」


 布団がびくりと動く。

 起きているのだとわかって、スンソンは嬉しそうに部屋の中へ入った。


「…………ど、どなたですか?」

「俺だ、ソラン。会いに来たんだ。顔を見せてくれないか」

「こ……皇太子様————ですか?」

「違う……!!」


 スンソンは無理やり布団を剥ぎ取って、横になっていた巫女に覆いかぶさった。


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