第15話 度重なる不敬


 その場にいた全員が凍りついた。

 未だかつて、皇太子様のご尊顔に吐瀉物をかけた人間なんて聞いたことがない。

 それも、何を考えているかわかりにくく、気難しい、扱いづらいと内官や女官たちから恐れられているあのフィソンの顔だ。


「ご……ごめんなさい……」


(どどどどどどどどうしよう!? 私、皇太子様になんてことを!!)


 度重なる不敬。

 今度こそ、打ち首かもしれないと、怖くて顔を上げることができないソラン。


「ワン!!」


(え……?)


 そこへ、また逃げ出したポヤがいつの間にか飛び込んで来る。

 何が起きたかわからずに固まっていたフィソンの顔を、ポヤはペロペロ舐め始めた。


「こ、こら! 誰ですか!? またこの犬を逃したのは!!」


 焦るシン内官。

 必死にポヤをフィソンから引き剥がそうとしたが、すでにポヤのよだれまみれで、手遅れだった。

 その様子があまりに滑稽で、こらえきれず笑い出すウス。


「はははははっ……フィソン様、こいつのおかげでポヤとの距離が縮まりましたね」

「……笑うな。そういう問題じゃない」


 フィソンは顔を耳まで真っ赤にして、自分でポヤを引き剥がすと逃げないようにぎゅっと強く抱きしめて、立ち上がる。


「まったく、いたずら好きな犬だな……私は顔を洗って来る。お前は食事の続きをしていろ……」


 ソランに対してなんのお咎めもなく、フィソンは出て行ってしまった。

 ウスとシン内官は慌ててフィソンの後について行く。


(お、怒られなかった……?)


 ソランは唖然としていたが、部屋に残っていた二人の女官が、飛び散った汚れを拭きながらソランの方を見上げて言った。


「あの皇太子様が何も言わないなんて……あなた、そうとう運がいいですよ。皇太子様のご尊顔を汚しておいて……私たちだったら、打ち首どころじゃ済まないかも」

「でも、戻ってきたらどうなるかわからないわよ? 皇太子様、急に怒ったりするから、今は大丈夫でも————お顔を綺麗になさった後に怒りがこみ上げて来るかも……」

「そうしたら、今度こそ確実に打ち首ですね」

「……逃げた方がいいんじゃない?」


 目の前で毒キノコが入った汁物を飲んだ女官が倒れるところを見ていた二人は、ソランのおかげで他の女官たちが助かったことを理解し、感謝している。

 それに、ソランが何者かわからないが、こんな色男が打ち首なんてかわいそうだと同情したのだ。


「でも、勝手に帰った方がもっと怒られるんじゃ……?」

「それもそうね……」


 ソランの代わりに、何か方法はないか考える女官たち。


(私のために、そんなに真剣に悩んでくれるなんて……ありがたい)


 そこで、ソランは自ら提案する。


「あの、紙と筆を貸していただけますか?」


 ソランは自ら反省文を書いて、東宮殿を後にした。



 ◇◆◇



 戻ってきたフィソンは、また勝手にソランがいなくなったとがっかりしていたが、女官から反省文を受け取り目を丸くする。


「なんて美しい字だ……」


 反省文の文字は読みやすく達筆で、文章にも知性と教養を感じられるものだった。

 しかし、やはり名前は記されていない。


(初めて会った時の、身のこなしも素晴らしかった。おそらく、武芸にも秀でているだろう……————それに、毒草についても詳しく、頭も良さそうだ。顔も……まぁ、少々女っぽい中性的な顔立ちだが、女子に好かれそうな綺麗な容姿をしている)


「あいつ、一体何者なんだ?」


 あれほどの逸材が、武官でも官吏でもないなんて信じられず、フィソンはますます、ソランに興味を持ってしまう。

 毒を見分ける目、文字からにじみ出ている人柄。

 自分の配下に欲しいと思わずにはいられなかった。


(何者かわからないが、欲しい。父親が薬師と言っていたか……?)


「シン内官」

「は、はい、フィソン様」

「————薬師だ」

「へ……?」

「薬師の息子を探せ。あの男、必ず見つけ出して私のものにする」


 シン内官は目玉が飛び出るのではないかというほど、驚きながら言った。


「え!? フィソン様、あの男が好きなのですか!? 女子ではなく!?」


 あたりが静まり返る。

 フィソンはシン内官をものすごい形相で睨みつける。


「ひっ!」


 その表情があまりに怖くて、短く悲鳴をあげるシン内官。

 ウスは、血の気が引いて真っ青な顔をしているシン内官の肩に手を置いた。


「……シン内官、口を慎め。本当にそうだとしても、そんな噂が広がったら、お前の首が飛ぶぞ」

「す……すみません」


 両手で自分の口をふさぐシン内官。


「ご安心ください、フィソン様。俺はフィソン様の好みが男でも、女でも応援しますよ! 色恋に性別は関係ないですから!」


 フィソンはウスの方に視線をずらす。


「おい、お前まで変な誤解をするな! 優秀そうだから、私の配下に置きたいだけだ……!!」


(そうだ。優秀だから……だ。そんな——……男色だとか、そんなわけ————ない…………だろう)


 口では否定していたが、心の中では妙な感じがしていて、完全には否定できないフィソン。

 ソランが書いた反省文は大事なものをしまう箱に大事に入れて、気づいたら何度も眺めてしまうし、薬師の息子たちを調べさせたが、何日経ってもそれらしい人物が見つからない。

 そして気づいたら、ソランの顔を思い浮かべている自分がいることに気づいた。

 何者か謎であるということが、ますますフィソンの関心を引いてしまったのだ。


(何者なんだ……本当に……)


 あれから数日、フィソンは自分の性的思考について、真剣に考え、思い悩むようになる。

 もしかして、そうなのかもしれないと……ソランの顔を思い出す度に自信がなくなっていく————


 ところが、そんな懸念は、ある日突然、一気に解消される。



「————こちらが、花巫女の最終候補四名でございます」


 星宮殿から届いた、花巫女の選定試験を突破した四人の優秀な巫女の人相書きと人物評。

 その中に、ずっと探していた顔があったのだ。


花咲蘭ファソラン。宮廷薬師・花蓮水ファリョンスの娘……だと————?)




【第三章 東宮殿で朝食を 了】

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