東宮殿の花巫女

星来 香文子

第一章 星宮殿の皇子様

第1話 あれがいる家


(母上……)


 咲蘭ソランの母が死んだのは、六歳の冬の終わりのことだった。

 部屋の隅にいる何かが、こちらを見ているのが怖くて、自分の布団から抜け出たソランは、深夜、母の布団に潜り込んだ。

 このところ、母は病で伏せってはいたが、父は宮廷に使える薬師。

 すぐに良くなるという言葉を信じて、眠りについていた母にしがみつくと、まどろみながらも母は愛しい娘の背中を撫でる。


「どうしたの……? また、何かおかしなものでも見た?」

「うん。部屋の端にね、ずっといるの。怖い。怖いよ、母上」

「大丈夫よ、ソラン。あれはね、自分の姿が見えているとわかると、わざと怖がらせるのよ。だからね、私以外の誰にも、見えていることを話してはいけませんよ」

「うん。言わないよ。でも、やっぱり一人じゃ怖いから、一緒に眠ってもいい?」

「もちろん……」


 母の温もりを感じ、安心したソランはすぐに眠りにつく。

 ところが朝方、寒さに目を覚ますと、母の体はすっかり冷たくなっていた。


「……母上? 母上……ははうぇ……っ……」


 何が起こったのかわからず、必死にソランは母を起こそうとしたが、決して目を覚ますことはない。

 ソランの泣き声に気づいた父が、母の死を確認して首を横に振った。

 体をゆすり続けるソランを引き離し、落ち着かせると、ソランは隣人に預けられる。

 何が起きたかわからないまま、父はどこかへ行ってしまって、隣人は「まだ若いのに、可哀想に」とソランを哀れんだ。

 父が人を連れて戻って来て、ソランも家に帰されたが母の顔の上には白い布。

 それが何を意味するか、幼いソランには理解できなかったが、奇妙なことに気がついた。

 部屋の隅にいた何かが、冷たくなった母の側にじっと立っていたのだ。


(笑ってる……?)


 しかし、他の誰も、その何かに気づかない。

 誰も気に留めない。

 ソラン以外の誰の目にも、それは見えない存在だった。


 父にどうしてなのか尋ねようと思ったが、あの夜、母が言ったことが頭を過ぎる。

 見えることは、母以外の誰にも話してはいけない。

 いつも母は、口癖のように言っていた。

「人が見えないものが見えても、そのことを口に出してはいけない」と。

 父にも、叔母にも、友達にも、誰にも話してはいけない。

 そう約束した。


(どうしよう……)


「ソラン……? どうしたの?」

「…………っ……ぅ」

「ソラン……?」


(あ……あれ?)


 叔母に声をかけられたが、ソランは返事ができなかった。

 声が、出ない。

 母を失った衝撃で、話すことができなくなってしまった。


(どうしよう……どうしよう————あれが母上のそばにいるのに……)




 ◇◆◇



「それじゃぁ、その時からなの?」

「ええ、あれからもう二ヶ月経つけど……ソランは何も話さないのよ」


 母の死から二ヶ月後、正式な東宮殿の女官となったばかりの叔母・鈴明リンミョンにソランは預けられることが多くなった。

 話せないソランを一人で家に残しておくわけにもいかず、他に預けられる相手もいない。

 実は近所に住む老夫婦がソランを可愛がってくれていたのだが、最近主人が腰を痛めてしまって、ソランの面倒を見る余裕がなくなってしまった。

 父は王宮の薬師のため忙しくソランの面倒が見れるわけもなく、妹のリンミョンに預けるしかなかったのだ。

 声が出せないため、東宮殿の隅にある女官たちの寝所で、絵を書いて遊ぶくらいしかできない。

 他の女官たちが代わる代わるソランを気にかけてくれていたが、それも仕事の片手間。

 ずっと誰がが見ていられるわけでもなかった。


「大変よ! みんなすぐに来て!! 皇太子様がいなくなったの!!」

「えっ!? 皇太子様が!?」

「また……!?」


 リンミョンと部屋にいた他の女官たちも一斉に出て行ってしまい、しばらくソランは一人でいたが、すぐに紙を使い果たしてしまう。

 仕方がなくソランは、縁側に座ってじっと庭を眺めることにした。

 すっかり季節は春になり、東宮殿の端にあるこの庭にも多くの花が咲いている。

 太陽の日差しが心地い。

 しかし————


(なんだろう、あれ)


 青緑色の池の周りに咲いている黄色と白の水仙。

 ソランはその花の名前も、その花に毒があることも知らなかったが、良くないもののように思えた。

 黒い霧のような、もやなようなもの水仙から出ているようにソランには見えたのだ。


(前に父上が言っていた紫色のお花の周りにも、あんな色のもやもやがあったなぁ……)


 そこへ急に飛び込んで来たのは、真っ白な兎。

 ピョンピョンと池の周りを跳び回り、水仙の葉に噛り付いた。


(だめ……!! 食べたらだめ!!)


 ソランはすぐに庭に降りて兎に駆け寄ると、兎の頭を下にして振った。


(吐いて!! だめ!! 死んじゃう!!)


「……っ……ぅ……」


 相変わらず声は出ない。

 それでもどうにかしなければと必死だった。


「————おい! 何するんだ!!」


 そこへ、この兎の飼い主が現れる。

 ソランと同じ年くらいの、上質な衣を着た少年は、ソランが兎をいじめていると思っていた。


「それは俺の兎だ! 離せ!!」

「…………!!?」


(だれ!?)


 突然現れた飼い主に驚いた隙に、兎はするりとソランの手から逃れて地面に降りる。

 すでに兎はソランの手から離れていたが、兎を取り返そうと少年が伸ばした手がソランの肩を押す形になってしまう。


(うわっ……!!)


 よろけたソランが一歩後ろへ下がると、そこに地面はなくソランは背中から池の中へ静かに落下。

 ゆっくりと水に沈んでいく中で、ソランが最後に見たのはこの見知らぬ少年の驚いた顔と、水底へ自分の体を引き寄せる、手のような形をした瘴気しょうきの塊だった————



 ソランの体は、深い池の底へゆっくりと沈んでいく。


 ————こっちへおいで。こっちへおいで。


(……誰?)


 水の中にいるはずなのに、はっきりと耳元でそう言われた気がして、ソランは声のした方をよく見ようとした。

 しかし、なぜかまぶたが重くて仕方がない。


 ————こっちへおいで。私の方へ。


 黒い瘴気がソランの体を掴んで放さない。

 浮かぶことも、泳ぐこともできず、音も呼吸も奪われて、視界も歪んでいく。


(ああ、だめだ……もう……)


 意識さえも失って、ソランは真っ黒な闇の中に囚われた。

 何も見えず、何も感じない。

 冷たい池の水が、ソランの小さな体から体温をあっという間に奪い去った。


 ————こっちへおいで。さぁ、こっちへおいで。私の願いを、叶えておくれ……






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