第29話 情けない男


 六日目。

 この日はソランとフィソンが一日一緒に過ごす日だった。

 これは他の候補者にも十日間の内一日を割り当てられるもので、今日はソランの番だ。

 しかし、フィソンに急用が入ったため、ソランは池があるあの庭の東屋の椅子に腰をかけ、ぼうっと景色を眺めて時間を潰していた。


 すぐそばに恩心ウンシムたち侍女も控えてはいたが、基本的には一人。


(うーん? ここだったかしら?)


 十二年前、池に落ちた記憶はあるが、それがこの池だったかどうかはわからなかった。

 それもそのはずで、ソランの覚えている池の周りには、今のように落下防止のための柵もこの東屋も設置されてはいなかったのだから仕方がない。

 さらに女官たちが寝泊まりしていた部屋も、五年前に別の場所に移されていて、リンミョンに預けられていた頃の景色とは変わってしまってた。


(池の周りに生えている植物が毒草だってことは覚えていたけど……)


 相変わらずソランの目には池の周りに生えている水仙の葉は毒々しい瘴気を纏っているように見えている。

 そんな毒々しい瘴気の中を、真っ白な子犬が横切った。


「ワン!!」


 瘴気に気を取られて、ソランは気がつかなかったが黄色い超がひらひらと池の周りを舞っている。


「ポヤ!?」


 ポヤは、その蝶を追いかけてきたのだ。

 柵があるため、人間が池に落ちる心配はないが、子犬は別だ。

 小さな体は柵の間から落ちてもおかしくない。

 何より、あの池から不穏な何かを感じ取ってソランは立ち上がった。

 ポヤは蝶に誘われるように、どんどん、池の方へ近づいていく。


「だ、だめ! 危ない!!」


 突然池に向かって走り出したソランに、侍女たちは驚いた。


「どうしたのですか、ソラン様」

「ポヤが……!!」


 池に落ちたら大変なことになる。

 どうにか手を伸ばして、すんでのところでポヤを捕まえたが、勢い余って柵の前で横にと半回転。

 この時ソランが着ていた花巫女候補の衣装は、とても裾が長い作りになっていたせいで、自分で自分の衣装の裾を踏んでしまう。


「あ……!!」


 落下防止のためつけられた柵は、ちょうどソランの腰の位置にはあるが、そこを支点にして後ろに倒れそうになる。


(どうしよう……!! これ、落ちる!!)


 両手はポヤを抱えているため、柵につかまって止まることもできない。

 もともと、小さな子供が落ちないようにつけられた柵だ。

 大人が落ちる想定なんてしていない。


「————ソラン!!」


 ギリギリのところで、やって来たフィソンが手を伸ばした。




 ◇◆◇



「————はっくしょん!」

「まったく、何してるんですか、フィソン様。あそこは男らしく止めるところでしょう。なんで一緒に落ちてるんですか」

「うるさい……」


 かっこよく登場したものの、フィソンはソランを助けられなかった。

 そらどころが、一緒に池に落ちた。


「しかも、助けられたのはフィソン様の方だし。泳ぎの練習はしていませんでしたっけ?」

「したが……才能がなかったんだ……ふぇぁっくしょん!!」


 ポヤは犬かきで岸に上がって体をブルリと大きく震わせて水しぶきをはらっていたが、フィソンは沈んでいく一方だった。

 フィソンの衣の生地は水を含むとかなり重くなる素材でできていたため、まったく泳げない。

 情けないことに、助けに行ったはずが、逆にソランに助けられてしまった。


 すぐに浴場にお湯の準備をするよう指示がいったが、お湯が溜まるのには時間がかる。

 その間にすっかり冷えてしまい、フィソンは風邪を引いたのか何度も大きなくしゃみを繰り返していた。


「その様子じゃぁ、今日は愛しのソラン様と一緒にいるのは無理ですね。せっかく、あの時の娘がソラン様だってわかったのに」

「うるさい。優守ウス、お前こそ、なんでをすぐに助けなかった!」

「え!? 俺が悪いんですか!? ……って、フィソン様、また一人称がに戻ってます」

「一人称なんて今はどうだっていいだろうが!!」

「戻ってたら注意しろって言ったのは、フィソンの方だろう!?」

「お前だって、様をつけろといつも言ってるだろうが……はくしゅんっ!」


 そこへ薬師を連れたシン内官が戻ってきた。

 てっきり、風邪気味だからおとなしく布団で横になっていると思ったフィソンがウスと子供のように言い争いを始めていたので、驚いて呆れてしまう。


「ああ、もう、皇太子様!! 薬師を呼んで来ましたから、少しおとなしくしていてください。鼻水まで垂れて……子供ですか!?」

「なんだと……!?」


 昨夜イム内官が東宮殿に到着し、あの時の娘がソランであることがやっと判明。

 リンミョンにも確認し、フィソンはソランに運命的なものを感じ、浮かれていたのだ。

 ところが、六日目のこの日がソランと一日過ごす日だと聞きつけた皇后に急用を入れられてしまった。

「花巫女候補の選考の様子を皇帝陛下が聞きたがっている」だなんだと、本来ならする必要のないことをさせられ、急いで東宮殿に戻ったというのに、池に落ちて風邪を理由に薬師からおとなしく寝ているように言われてしまう。


 結局、フィソンの風邪が治ったのは結果発表の前日だった。

 薬師から治ったと告げられつとすぐに、フィソンは本来一緒に過ごすはずだった時間を取り返すかのようにソランの部屋を訪れる。

 本来設けられていた期間よりだいぶ短くなってしまったが、他の花巫女候補四名ともそれなりに交流は深めたものの、やはりフィソンが選んだのソランだった。


「本当に、私をお選びになるのですか?」

「ああ、何度も言わせるな。私はお前がいい。それとも、私のように泳げない男はやはり情けないか?」

「いえ、そんなわけないじゃないですか! 泳げないくらい、別にどうってことないです。むしろ、なぜ私でいいのか……それがわからなくて」


(私のせいで池に落ちて風邪を引いてしまったし、男のフリもして、騙すようなこともしたりしたのに……)


「そうだな……それは私もわからない」

「え……?」


 何かフィソンなりにソランに対して思うことがあるのかと期待したが、予想外の答えが返ってきてソランは戸惑う。


「適当に選んだのですか? もしかして、他に選択肢がなかったとか……?」

「なんでそうなる?」

「だって、私、みんなより上背もあって、男みたいだとよく言われますし、皇太子様のお顔も皇后様の衣も文字通り汚してしまいましたし……」

「まだそれを気にしていたのか? わかった。それなら、もう少し近くに寄れ」

「え……? はい……」


 ソランが少し前に出て近くに寄ると、フィソンはソランの頬を両手で抑えた。


「な、なにをするのですか?」

「逃げないように……だ」

「ひゃっ!?」


 フィソンはソランの鼻先をペロリと舐めた。


「ちょ……っ! ちょっと待ってくださ……っ!」


 額、瞼、頬、顎と顔じゅう舐められる。

 まるで犬がじゃれて舐めるように、けれど、唇だけは避けて————


「お前の顔も汚せば、お互い様だろう」

「そ……そういう問題じゃ……」


 くすぐったいのと、恥ずかしさで、ソランは目をぎゅっと閉じる。


「俺はずっと、お前に謝りたかったし、礼を言いたかった。それに……」


 フィソンはまだ舐めていないソランの唇を指でなぞりながら、呟いた。


「きっと、初恋だった————」

「え?」


 驚いて目を開けたソラン。

 その時にはもう、ソランの唇にフィソンの唇が触れていた。



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