第10話 エルザス王国王都モゼール①
神武暦496年。
ベルフォール大陸の北方、ノウスフォール地方のほぼ中央に位置するエルザス王国、王都モゼール。
場所は、モゼールの中心に近い貴族街にある、大きな邸宅。
そこでは、明日からの建国祭に備えて、使用人たちが慌ただしく準備をしていた。そんな多くの人間が邸内を駆け回っているなか、この邸宅の主の娘、アイラは、ようやく探していた人物を見つける。
「イアル、探したわよ」
「アイラ様」
「もう、みんなが祭典のために、いつもとは違う行動をしてるから、どこにいるのかと思ったら、なんで、あなたは、いつも通りなのよ」
「申し訳ありません。ですが、祭典にむけた準備には、私は参加するなと指示を受けてますので」
「そうなの?」
「はい」
「そう。でも、よかった。なら時間あるわね。少し、買い物に行かないといけないの。ついて来て」
「わかりました。アイラ様」
他の使用人に混じって作業することを許されていないため、一人だけ、いつも通りの日常を送っていたイアルは、いきなり声をかけて来た主の娘にも、動揺を見せずに返事をする。
今のイアルの立場は、この邸宅の主、エモット伯爵家に仕える使用人、に仕える奴隷という立ち位置だ。そんな立場のイアルに気安くいつも直接声をかけるアイラに、イアルの周りの使用人たちは眉をひそめているが、当主の愛娘に直接文句を言うようなことは彼らには出来ない。そのため、全ての不満は、何を言っても許される一番立場が弱いもの、つまり、イアルへと向かう。
そんな不満のはけ口にされている、イアルは自分に向けられる視線や他人の態度の意味をおおよそ理解したうえで無視をしていた。
その態度が、相手にとっては、格下のモノに相手にされていないと思わせるため、さらに相手の怒りを増幅させていたが、イアルとしては、本当に相手にしていなかったためまったく気にしていなかった。
嫌みを言われることも仕事を押し付けられることも、たいして気にならない。 お互いに話をしたいと思っていない人間同士でお互いに我慢をして、妥協点を見つけ、慣れ合うよりは、それでいいとイアルは本気で思っていた。
この場所で、エモット邸で何かをしないといけないなら、他の方法を考えただろうが、イアルにとって、ここは、いつか離れることが決まっている場所だった。奴隷として、大人しく、ここにいるのは、他に何か急いでしないといけないこともないからという以外に特に理由はない。
イアルが屋敷に来た当初は、反発し合う、イアルと他の使用人達の仲を取り持とうとしていたアイラも、そんなイアルの態度に呆れるとともに、イアルに興味を持ち、立場を気にせずに声をかけるようになっていた。
その時には、もはや、アイラが声を掛けるかどうかは関係なく、イアルとイアル以外の使用人の間には埋めがたい溝が出来ていたので、アイラは、自分だけでも、イアルの話し相手になろうと積極的に話しかけたり、手伝いをさせることにしていたのだ。
イアルにとっても、アイラは、この邸宅で唯一のまともな話し相手で、世話になっている。彼女がいなければ、イアルは、すでにこの家から、脱走をしていたかもしれない。
そんなアイラの用事なので、イアルは手早く出かける用意をすると、アイラの後についていこうとする。
が、そんな2人に声をかける人がいた。
「姉上、また、そんな汚い奴隷を連れてどこに行くおつもりですか?」
「ルーカス。また、そんなことを言って」
「そんなこと?僕は事実を言ってるんです。姉上こそ僕に何度同じことをいわせるんですか。いい加減分かってください。我がエモット伯爵家の娘である姉上が街中を、男の奴隷を連れて歩く、それがどれだけ、我が家の評判をおとすことになるのか分かっておられるのですか?そもそも街への買い物などは使用人に任せればいい。貴族の娘である姉上がわざわざ、街に出られる必要などないのです」
自分が正しいと疑っていないルーカスは、未だに、世の中のことを分かっていない姉に丁寧に教えるつもりで話す。
ルーカスとしては、親切に教えてあげているつもりだ。
けれど、アイラは、それを不必要と切り捨てる。
「私は自分で買いたいものを選ぶために自分で出かけるだけよ。それに都合がいいからイアルを連れて行くの。それに、他の人に頼んだら、明日の用意の邪魔になるでしょ」
「姉上の付き添いのためなら、その程度の融通くらい効かせますよ」
「別にわざわざそんなことしてくれなくていいわよ。それに、イアルを見ても、誰も奴隷とは思わないし、汚いとも思わないわよ」
「それは、そいつが首元の首輪を隠しているからです。もしも、それが見られてしまったら、どうされるつもりですか。奴隷を連れて歩くなんて趣味が悪い」
イアルは自分の話をされても、立場上、口を出すことが出来ないため、ただ、立ちながら聞いている。
この姉弟はイアルが来てから、飽きずに、似たような会話をいつもしている。
「そんなヘマは私もイアルもしないから心配しないでいいわよ、ルーカス」
「そういうことではないのです。それに、その奴隷のことは信用出来ません」
「でも、イアルと一緒だと護衛にもなるし、楽なのよ」
「姉上。そいつが護衛になると本気で思っておられるのですか?」
「ええ。ルーカスだって、イアルの実力は知ってるでしょ。あなたも、負けたのだし」
「ぼ、僕は負けてなんかいません」
「いや、アレは負けでしょ」
イアルは、およそ2年前、屋敷に来てからあまり時間が立っていない頃にした、ルーカスとの戦いを思い返す。
普段は王立学園の寮に住んでいるルーカスは、休暇に家に帰ってくるまでイアルの存在を知らなかった。久しぶりに家に帰ってきた時に、初めて見る顔のイアルの態度に腹を立てたルーカスが、罰を与えるようとして、何故か1対1の立合いをすることになった。
イアルはそこで、加減を間違えて、主家の跡継ぎのルーカスに勝ってしまった。
年下のしかも奴隷に負けたルーカスは怒り、ムキになってイアルを殺そうとしたが、アイラの口添えで、なんとかイアルの命は繋がった。
それからルーカスは家に帰ってくるたびに、イアルのことを目の敵にし、嫌がらせをしてくるが、はっきりいってどれも可愛いいものだった。
だが、あの勝負は・・
「違います。あの時は、僕は魔法を使っていなかった。本当の戦いだったならば、闇魔法を使えるこの僕が、魔法を使うことも出来ない、その奴隷ごときに負けることなんかありえない」
そう。肉体強化の闇魔法を使えるルーカスと魔法を使えないイアルが本気で戦ったら、普通はイアルに勝ち目はない。
それでも、ルーカスが相手ならなんとかなるのではないかとも密かに思っているが、試してみたいとは思はない。
「でも、あのときは、魔法を使わずに相手をするって、ルーカスから・・」
「姉上。あなたはもう少し、栄光ある伯爵家の娘だということを自覚してください。我がエモット伯爵家は・・」
「ああ、そうですね。それでは、急いで買いたいものがあるので行ってきます。イアル、行くわよ」
「はい」
「って、姉上。僕の話をちゃんと聞いて・・」
アイラの言葉の途中でルーカスが話を始め、そのルーカスの言葉の途中でアイラが話をしだす。お互いに、相手の話を最後まで聞かない。これも、この姉弟の会話ではよくあることだった。
結局、ルーカスはまだ、何かを言っていたが、アイラはそんな弟との会話を強引に終わらせると、イアルを連れて、街へと繰り出すことにした。
「イアル。ごめんね。ルーカスが・・」
「いえ。ルーカス様の反応のほうが普通ですので、気にしていません。」
「普通って。それは・・。そうかもしれないけど、でも、あんな言い方・・」
「アイラ様。私はお父君に、エモット伯爵に買われた奴隷です。いつも言っていますが、アイラ様やルーカス様が奴隷である私に気を使う必要はありません」
「それは、そうだけど・・」
「なので、ルーカス様の言葉をアイラ様が気になさる必要はありません。むしろ、アイラ様こそよかったのですか?ルーカス様とちゃんと話し合われた方が・・」
「いいのよ。ルーカスとは、いままでに、さんざん話し合ってきたもの。それでああなったの。あの子とは、分かり合えなかった。それでいいの。お父様は、私のことを分かってくれているから」
「アイラ様・・」
「イアル。あなたこそ、主家の問題に奴隷が口を出すことではないでしょ」
「そう、ですね。買い物をするなら早く行きましょう」
「そうね。のんびり、買い物を楽しみましょうか」
「・・急ぐのでは?」
「ええ。急いで、買い物に出かけて、ゆっくりと買い物するの」
「・・そうですか」
ゆっくりと、街を歩くアイラに合わせて、イアルも周囲に目を配りながら、王都を散策する。
今から、5年前、ジョアンが亡くなり、エデン王国の滅亡を見守り、城から離れた後に、エルドラド王家の墓地で、突然襲って来たひどい頭痛によって意識を失ったイアルが、次に目を覚ましたのは、身体を焼かれる痛みを感じた時だった。
その痛みは、奴隷、つまり、人間ではなく商品であることを示す焼印を身体に刻まれた時に起こったものだった。
しかし、すぐにオークションで売り出されることはなく、奴隷商の元でしばらく働かされていた。幸いなことに、奴隷商に気に入られ、殺されることもなく、召使いとして、3年間を過ごしていた。
そして、2年前、エルザス王国のエモット伯爵に買われて、この2年間は、モゼールにある屋敷で雑用として働いていた。
エモット伯爵に買われて奴隷になったイアルは自由に街に出ることは出来ない。そのため、普段は、大きいとはいえ邸宅から出ることが出来ずにいる。だからイアルにとって、定期的に、買い物のお供として王都の街中に連れて行ってくれるアイラの存在は非常にありがたかった。
エルザス王国は、エデン王国よりも、はるかに大きく、その王都モゼールは、ノウスフォール地方でも屈指の大都市だ。イアルがこれまでに見たことがない大きな街、のはずだった。けれど、今のイアルは、ここモゼールよりも遥かに大きく、人も多い街を見たことがあった。自分ではない、曽我黒斗という人間の記憶の中に。
地球、日本。
イアルが生きているいるベルフォール大陸に存在するとは思えない、信じられないほど高度な文明がある国。そして、魔法も精霊も存在しない国。そこで過ごした、20年に近い曽我、あるいは天谷黒斗としての記憶。
この記憶が頭の中に流れてきてからの5年間、イアルはこの不思議な記憶についてずっと考えていた。
特に、奴隷商の召使いとして過ごしていた3年間は、いきなり頭の中に流れ込んできた、別人の記憶にどう向き合えばいいのかをずっと悩み、自分自身を見失っていた。
どうすればいいのか何一つとしてわからず、ずっと、頭痛に悩みながら過ごしていた。
けれど、時間の経過とともに、少しずつ頭痛は治まり始めた。そして、イアルは曽我黒斗と自分の2人のを記憶を持っているが、ようやく、黒斗のことはただの別人の記憶として受け入れることが出来るようになった。
黒斗の記憶は、イアルにはない知識を多く身に付けていて、高度な教育も受けていた。だから、奴隷として働いている今はともかく、近い将来、ジョアンの命令を、約束を果たすための行動を起こす時に役には立つだろうと思っていた。
天谷黒斗が抱いていた、桑山帆乃香に対する強い思いも、母親に対する後悔も、絶望し、死ぬと決意した思いも、イアルにとっては、他人のものでしかなかった。
死の間際に曽我黒斗が父親と出会ったことも、父親が最後に何かを伝えようとしていたことも覚えてはいた。
けれど。
今、ここに居るのは、日本人の、曽我黒斗ではなく、エデン王国の、イアルだ。
ただ、偶然、別人の記憶を持つことになっただけだ。
イアルにとって、大事なことは、亡くなったジョアンとの約束を果たすこと。それ以外のことは、どうでもいい。5年の年月をかけて、そう折り合いを付けた。
それが、イアルの5年間の全てだ。
全ての物事から目を背けて、天谷黒斗と曽我黒斗の記憶とだけ向き合ってきた5年間だ。
そして、黒斗が抱えていた、この世界では通用しない甘い価値観は、確かに、イアルの心を揺さぶっていた。黒斗の記憶は、この5年間でのイアルの行動に少なくない影響を与えていた。
そのことに、イアル自身も気づいている。
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