第16話 エルザス王国王都モゼール⑦
イアルは、すべての攻撃が男に届く頃には、入り組んだスラム街の中に入りこみ、無事に、少年を連れて、男から逃げ出した。
貴族が着るような立派なの服の子供と、その子供を連れている奴隷の子供。こんな2人組が中心街から遠く離れたスラムにいたら、いや、どこにいても目立つが、幸いなことに、先の男の攻撃で、周りから人がいなくなっていたので、人目を避けて逃げるのは簡単だった。
それでも、首元の奴隷の首輪が見えている状況で、街中にいくと、騒ぎになるため、スラム街から出ることは出来ない。
周りを見ながら走っていると、以前、来た時に見た覚えがある家を見つける。
一度、周囲を回って、誰にも見られていないことと確認してから、その中に入る。
生活感の無いその家に入ると、イアルは、ようやく抱えていた、少年を降ろして、一息つく。
「はぁー」
この5年間、身体を鍛えることを怠っていたわけではない。
エデン王国が滅びてからも、来るべきときのために、奴隷商のもとでも、エモット家でも、可能な範囲で身体は動かしてきた。
けれど、それらはあくまで訓練の一つだ。
真剣に戦いをしたのいつ以来だろう。
少しの時間だけの戦いだったが、久しぶりの実戦に思っていたよりも、疲れたらしい。
イアルは、どっと、座り込んだ。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「ん、ああ。大丈夫。怪我とかはしてないから。少し疲れただけだよ」
「そう、ですか。あの、助けてくれてありがとうございます。まだ、お礼も言えてなくて・・」
奴隷と聞いてその時は驚いて少年だが、素直にイアルにもお礼を言う。
イアルのことを見下した様子も無い。
身分の高い貴族の子供だろうが、礼儀正しく育てられているようだ。
「いや、助けに入ったことは偶然の成り行きだから気にしなくていいよ」
「それでも、お兄さんがいなかったら僕は・・」
男に手を引かれていたときのことを思い出したのか涙声になっている。それでも、涙を流さずに、耐えていたが俯いてしまう。
怖かったのだろう。
「大丈夫?」
「は、はい」
「とりあえず、もうしばらく、ここにいようと思うんだけど、いいかな?」
「はい」
しばらくして、話しかけたイアルの言葉にはちゃんと返事が返ってきた。
これからどうするか考える。
この世界で生まれエデン王国で育ち、築いてきたイアルの価値観はこう告げている。
(今日初めて出会ったばかりの子供なんか見捨ててしまえばいい。追いかけられている男の目的はこの子供だから、俺一人なら簡単に逃げられる。そうして、何食わぬ顔をしてアイラ様の元に戻れば良い。アイラ様には、子供は助けたとだけ報告して、今日会ったことは誰にも話さずにいたら、問題なくエモット家にいることは出来る。いずれ動くときまで、目立つ必要は何も無い。そうして、これからも今まで通り過ごせばいい)
イアルが、ジョアンの意志だけを継いでいくならこのままここで、少年を放置していけばいい。
身体が動いて、一度は助けてしまったが、今なら、これ以上関わりになることも無く切り捨てることが出来る。襲ってきた男達には、顔を覚えられている可能性が高いが、それほど高いリスクとは思えない。
それは、この世界では決して間違った選択ではない。
それでも、目の前のこの子供をこの場で見捨てるのは間違っている、という思いがイアルの中にはあった。
だから、この子供のために出来るだけのことはしてあげたい。
「まず、状況の確認をしたいんだけど、大丈夫?」
「・・大丈夫です」
イアルの言葉に少し少年は身体を強ばらせたが、了解も得たので、状況の把握を進めることにする。
このままでは、これからどうしたら良いのかどうするべきなのか決めることが出来ない。
「俺の名前はクロト。キミの名前は、教えてくれる?」
何が起こっているのか分かっていない状況で、素直に名前を名乗るべきではないと思い、イアルという名前を伏せることにする。
クロトという名前を名乗ることに、少し抵抗もあったが、他に良い名前がとっさに出てこなかったので仕方ない。
「ヴァルター、です」
家名は名乗らない。姓を名乗ることが出来るのは貴族の証であり、誇りのはずだ。それを名乗らないということは、平民か訳ありの貴族だ。
そして、その格好からも少年は平民には見えない。家名を秘密にする理由があるのだろう。
聞きたい気はあるが、聞いてしまったら、抜け出せない沼に嵌りそうなので、触れない。
ヴァルターという名前も、どこかで、聞いたことがあるような気がしたが、状況の把握を優先する。
「分かった。ヴァルターと呼ばせてもらって良いかな」
「はい。クロトさん」
相手は間違いなく貴族の子供だ。
それに、奴隷であることを相手は知っている。どう呼ぶか、どう接するか迷ったが、向こうが家名を名乗っていない以上は普通に接することにする。
生意気だと怒鳴られる可能性も考えたが、不満そうな顔を見せること無く、認めた。
この年でしっかりとした子供だ。元々の性格もあるだろうが、優れた教育者がいるのだろう。
「まず、依頼されて、誘拐されたみたいだけど、犯人に心当たりはある?」
「・・いえ、分かりません」
答えに戸惑いがあった。恐らく、心当たりはあるのだろう。
話すかどうか少し迷った様子だが、話さないことを選んだようだ。
初めて会うのだから信用はない。
そんな相手に言わないのは妥当だ。
イアルとしても、無理に聞き出す気はない。
「そうか。俺は、スラム街でヴァルターが男に連れられている時、誘拐だと思ったから、助けには入った。自分から参加してしまった立場でこういうのは無責任だけど、依頼としてヴァルターが狙われているなら、これ以上俺は付き合うことは出来ない」
「それは・・」
「当然だけど、俺は、いつまでもヴァルターについていられるわけじゃない。よその家の争いに巻き込まれるのは避けたい」
「・・はい」
ヴァルターが親に捨てられた子供のように俯いてしょんぼりしているのがわかる。
その表情をさせてしまうことで既に罪悪感を感じるのが誰の気持ちなのかがイアルには分からなかった。
「だから、ヴァルターが信用出来る人のところまでは送る。ただし、俺のことは誰にも話さないこと。ここにくるまでに見たことは忘れること。それが条件だ」
奴隷の首輪のことはもちろんだが、魔法(実際は精霊術)を使ったことも隠しておきたい。魔法は、アイラにも話をしていないものだ。
ヴァルターの顔が上がる。
その目には、涙がたまっていた。
一人になるかもしれないと考えて、不安で再び怖くなっていたのだろう。
「いいん、ですか?」
「まあ、ここで、そのまま見捨てるのは目覚めが悪いからな」
言い訳のように、そんな言葉を呟く。
「ありがとうございます。クロトさんのことは絶対に、誰にも話しません」
もしも、イアルとしての記憶しかもっていなければ、こんな行動はしなかった。
誘拐される子供に心は痛めたかもしれない。けれど、見逃していた。
ヴァルターを助けたのはやはり、イアルの中にある黒斗の影響がある。
黒斗が育った日本では、誘拐も人殺しも決して許されることべきではない、犯罪だ。
この世界ではない、平和で充実した社会が構築されているは世界。
そんな世界で育ち、築かれた、常識。
この危険で、戦争が日常の中にある世界にそぐわない平和ボケした思考。
この世界で生まれ生きてきたイアルに後から流れ込んできた異なる世界での記憶。
ジョアンを、仕えるべき主をこの手で殺して失ったイアルは、そんな甘い考えを否定する。
それでも、そんな平和な世界があったら良いなとは思う。
人が、殺し合わなくても、生きていくことが出来る世界。
子供が、明日に希望を持てる世界。
いつか、この世界もそんな平和になる日が来るのかもしれない。
そんな世界を思い浮かべる。
この身体はイアルの物だ。
曽我黒斗はイアルよりも長い18年以上の人生を生きているが、身体の主導権はずっと、イアルが持っている。
だから、一番大切なことは、亡きジョアンの最後の命令を、頼みを守ること。
ジョアンの意志を継ぐこと。
それだけは、イアルは絶対に、譲れない。
そのためには、必要なら、人を殺すことだってする。
どんな犯罪にだって手を染める。
どんなに他人に恨まれることだってする。
許されないことだってする。
そこに、曽我黒斗の意志も思いも関係ない。
けれど、それさえ、ジョアンの意志さえ守ることが出来るのならば、可能な限り、曽我黒斗の思いも叶えたいとも、イアルは思っている。
だから、目の前の出来ることがあるなら何でもする。
あの日、天谷黒斗が誓った言葉もイアルの中にある。
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