楽園(2)

 先生と航汰に続いて、二階の奥の部屋に足を踏み入れる。

 最初に目に飛びこんできたものの存在に、俺は慄き、立ちすくんだ。


 部屋の中央には、大きな黒い箱が置かれていた。ステンレス製で、上蓋が開くタイプの収納庫だ。ところどころへこみ、黒の塗装が剥げたそれは、俺の心をたやすく八年前へと引き戻した。


 俺は昔、この収納庫の中で一日を過ごしていた。膝を抱え、頭を下げた、窮屈な姿勢で。次に瞼を開けたとき、ここでのことがすべて夢でありますように。そう願いながら、毎晩気を失うようにして眠りについた。


「ふざけんなよ……」

 俺は膝に力を入れて、後ずさった。

 

 先生は素早く距離を詰めてきて、俺の腕を掴んだ。間近で見た先生の目には、奇妙な興奮が宿っていた。

「僕は誰だ?」


「え?」

「僕は誰なんだ? 答えなさい」

「はあ、意味わかんねえ、」

「君、本当はすべて思い出してくれたんだろう? 僕は今日まで充分時間を与えてきたじゃないか。れい君なら答えられるはずだよ。君にとって、僕はなんだ?」


 先生の唾が顔中に飛んでくる。俺は掴まれていないほうの腕で自分の顔を拭うと、ぺっと勢いよく唾を飛ばし返した。

「そんなの決まってるだろが、田中桜汰先生。今のあんたは俺の高校の教師。だけど八年前は、小さな子ども誘拐して監禁する変態クズ野郎だった」


「違う!」

「違わねえよ」

「違う、そうじゃない。僕は君の――お兄ちゃんじゃないか!!」


 先生は激しく顔を歪ませると、俺の腕を引っ張った。

 はっとして、俺は収納庫を見やった。いつの間にか上蓋は開いており、空っぽの中身が確認できるようになっている。黒く冷たい底板が、八年ぶりに俺を呑みこもうと待ち構えていた。

 俺は悲鳴を上げて、がむしゃらに抵抗した。身をよじり、しゃがみこんで、絶対に収納庫に近づくまいと踏ん張った。

 だけど徐々に、体は暗い箱へと引き寄せられていく。

 ひょろい体の、どこにそんな力があるのか。先生は俺を引きずって持ち上げると、収納庫の中へと放り入れた。

 ガンッという鋭い音とともに、蓋が閉まる。


「やめっ、やめてください! お願い出して!」

 八年前から成長した俺の体は、収納庫にぴたりとはまり、一ミリも動かせる余裕はなかった。声を振り絞り、懇願する以外にできることはない。

「お願いだから出して。暗い。苦しい。こんなところにいたら死んじゃうよ」

 

 首が絞まるような感覚がして、次第に息が詰まってくる。強い悪寒と吐き気に襲われ、俺は気を失いそうになった。

 お願いです。狭くて暗いのだけは耐えられないのです。

 あの頃と同じ苦しみを、どうか俺に与えないで。


「これなら思い出せるよね」

 すぐ上から、こすったような振動が伝わってくる。先生は今、収納庫に腰を下ろして、俺に語りかけているのだろう。

「待ちきれずについ用具入れに閉じこめてしまったときは、これといった効果がなかったからさ。その失敗を踏まえて、今日はこうして現物に入ってもらうことにしたよ。もっと早くにこうするべきだったかな。今日までれい君の記憶が戻るよう誘導はしていたんだけどね、なかなかすんなりいかないものだ。僕としてはこんなショック療法より、れい君が自力で思い出してくれるほうが理想だったのだけど」


 先生の言葉に、俺は自分の置かれている状況も忘れ、思考を巡らせた。


 俺が何者かからの襲撃を受け、学校の掃除用具入れに閉じこめられたのは、春のことだった。羽交い絞めにされたとき、黒いブレザーを着た犯人の腕を見た。一体誰が、なんの目的があって俺を襲ったのか。

 長い間、生徒による悪質ないたずらだと思いこんでいた。

 だけど、真相は違った。

 今年の春はとても暖かく、四月の時点で生徒は重いブレザーを脱ぎ、ワイシャツで過ごしていた。

 襲われた日は特に暖かく、少し動いただけで汗ばむような気温だった。ワイシャツの袖をまくっている者も少なくなかった。そんな日に、しっかりブレザーを着ている生徒がいたら、とても目立っただろう。

 俺を襲ったのは、生徒じゃない。

 あのとき俺は、何かを黒のブレザーと見間違えたのだろう。例えば、黒のアームカバーとか。

 校内でアームカバーを愛用しているのは、事務室の年配職員か、田中先生くらいだ。

 田中先生が、俺を掃除用具入れに閉じこめた犯人だった。


 八年前と似たような状況を作ることで、先生は俺に、ここで過ごした頃の記憶を思い出させようとしたのだ。


 俺は子どもの頃、先生に攫われ、この暗く狭い箱の中に監禁されていた。


「ああ、それとね」

 と先生が続ける。

「用具入れに閉じこめたのは、ちょっとした意地悪でもあったんだ。れい君がブサイクな犬に甘ったるい名前をつけるようなバカ女と親しくしているから」


「はあ? 垣内んちの犬は普通にかわいいだろ。後、垣内はバカじゃねえよ」

「反省してもらいたかったんだよ。だって本当のれい君は、そんな子じゃないだろう?」


「だから、れい君なんて知らねえよ」

 思考を働かせたことで、俺は少し冷静さを取り戻していた。脂汗は止まらず、全身が震えているけれど、なんとか強い口調を維持する。


 ガツンと鋭い音が響いたのは、俺が先生を「変態ブラコン野郎」と罵ったときだった。


「黙れ! 黙って思い出せ!」

 先生は叫びながら、何度も収納庫の側面を叩いた。そのたびに激しい音と揺れが俺を襲った。耳を塞ぎたくとも、腕を動かす隙間がない。俺は歯を食いしばって耐えた。


 音と揺れは続く。

「思い出せ思い出せ! れい君はわがままでやんちゃな子だから、女の子とは遊ばないんだよ! れい君は男の子としか遊ばないし喋らない! 女の子と仲良くするのはれい君らしくない! れい君は、垣内みたいなおしゃべりバカ女とは友達にならないんだ!」

 

 先生の金切り声が、徐々に遠くなっていく。

 いくらか冷静になれたところで、状況は変わらない。

 俺の体は今、箱の中にある。

 限界はとうに過ぎていて、これ以上は耐えられそうにない。

 ここから出して。

 そう願う心の声すら、遠ざかり、消えていく。

 俺は意識を失った。

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