異界(2)

 二日後の夜、俺と航汰は、稲山さんから聞いた住所に向かった。稲山さんの息子、快星さんが通う進学塾は、繁華街の外れに建つ、小さなビルの二階に入っている。

 午後十時を過ぎて、帰り支度を終えたらしい生徒たちが、続々と表へ出てきた。


 俺はもう一度、送ってもらった快星さんの写真を確認した。撮影時期は半年前だ。ハンドボール部で活躍していたという快星さんは、肩幅が広く、二の腕の筋肉が盛り上がっていて、いかにもスポーツマンといった容貌だった。太い眉とくっきりとした二重瞼が印象的で、意思の強そうな顔立ちをしている。


 一方、航汰は先程から小さなメモを片手に、ぶつぶつとおかしなワードを繰り返していた。

「紫のリンゴ、笑う巨女、黄色と赤の蜘蛛の巣、首長竜の群れ……」


「気持ち悪ぃな、さっきから何をつぶやいてるんだよ」

「ああ、すみません。今のうちに暗記しておこうかと思いまして」

「何を暗記するんだっての」

「稲山さんから教わりました、異界への道筋ですよ」

「道筋? そんなものがあるの?」

「はい、快星さんが言っていたそうです。異界へは、最初に紫のリンゴ、それから笑う巨女、黄色と赤の蜘蛛の巣、最後に首長竜の群れを経由して行くそうです」


「はあ、異界へ行ってたなんて雑な出まかせのわりに、そういう細かい設定はあるんだな」

 俺は茶化すように言った。


 航汰が眉をひそめる。

「小野塚くんは、異界は存在しないとお考えなのですか?」


「え、何? じゃあ航汰は本気で信じてるわけ?」

「当たり前じゃないですか。別世界というのは実際、存在しますから」

「なんで言い切れるんだよ。見たことないだろう。証拠あんの?」

「ありますよ」

 航汰は信じられないといった顔で指摘した。

「小野塚くん自身が、それを証明してくれたじゃないですか」


「は? 俺?」

 まったく身に覚えがない。


「幽霊の存在する世界を、小野塚くんは日常的に見ていますよね? 私にもカメラを通して見せてくれましたよね?」

「それがどうして別の世界が存在する証拠になるんだよ」

「考えたことありませんか? 私たちは目の前にある世界の、すべてを把握できているわけではない。私たちは自分と同じ次元にあるものしか認識できない。だけどもし、別次元のものをこの目で見ることができたなら、そこにはどのような景色が広がっているのでしょうか」

「わけわかんないんだけど」

「幽霊は別の次元に存在していると考えるんです。だから私は見ることができない。しかし小野塚くんには見える。つまり小野塚くんは、別次元のものを見ることが可能な目を持っている」

「いや、難しく考えすぎじゃね? そういうことばっか言ってると変な奴だと思われるからやめろよ」

 といっても、航汰は元々変な奴なのだった。

 家に引きこもって、偏ったジャンルの創作物ばかり摂取していると、こういうおかしな人間が出来上がってしまうのだろうか。それこそホラーだ。


「別次元とは即ち異次元であり、異界。世界は同時にいくつも存在しており、実は干渉し合っているのかもしれません」

 などと唾を飛ばしながら熱弁をふるう航汰がなんだか不憫に感じて、寛容な俺は奴に向かって、天使のようにやさしく微笑んでみせた。

 その瞬間、航汰は怖いものでも見たように、素早く後ずさった。


「わあ、どうしたんですか小野塚くん。その顔、さては機嫌が悪いんですね?」


 航汰なんか死ねばいいと、俺は思った。


 そうこうしているうちに、快星さんらしき人物が姿を現した。

「あの人がそうなのでしょうか」

「うーん、たぶん……?」


 はっきりと確信が持てなかったのは、写真で見た快星さんと、視線の先にある人物との間に、大きなギャップがあったからだ。

 特徴的な顎のほくろがなければ、快星さん本人とはわからなかった。


 実際に見る快星さんは、猫背で顔色が悪く、体つきもほっそりとしていて、スポーツマンの面影は皆無だった。表情は暗く、挙動に落ち着きがない。


「写真と比べて、十キロ以上は体重が落ちていますね」

 眼鏡の位置を調節しながら、航汰が言った。

 俺も同じ意見だった。

 これでは、稲山さんが心配するのも頷ける。異界の話を抜きにしても、快星さんが病んでいるのは明らかだった。


 快星さんは人目を気にするように、辺りを見回すと、出て来たビルを回って、路地裏へと消えた。まっすぐ家に帰るのではないらしい。俺たちは少し距離を空けて、彼の後を追った。

 

 駐車場の手前で、快星さんはもう一度周囲を確かめた。それから奥にとめられた車の脇へと移動する。

 何をするつもりだ。

 俺は物陰から、彼の様子を観察した。車に近づく快星さんの足取りは重く、まるで絞首台へと進む囚人のよう。

 やがて身を屈めたらしい、俺たちのいる場所から快星さんの姿は見えなくなった。


「どうしましょう。もう少し近づいてみますか」

「いや、いかにも運転免許なんて持ってなさそうな二人が駐車場に入れば、怪しまれるかもしれない。もう少しここで様子を見よう」

「私は普通自動車免許を取得済みですが」

「今はそんな話いいから、静かにしてろよ」


 十分ほどが経過しても、快星さんに動きはなかった。

 まさかこれまで帰りが遅くなった日はすべて、こうして駐車場の片隅に屈みこんでいたのだろうか。

 なんの目的で?


 快星さんの奇行に困惑していると、スーツ姿の人物が駐車場に入って来た。

 迷いのない足取りで奥の車に近づき、ロックを解除する。

 そこでやっと、快星さんに動きが見られた。

 ふらりと立ち上がって、スーツの男と二言三言交わすと、助手席側のドアを開け、緩慢な動作で乗りこむ。

 男が運転席につき、エンジンをかける。


 二人を乗せた車が駐車場を出ていくのを、俺たちは呆然と見送った。

 これ以上の尾行は無理だ。向こうの移動手段は車、対して俺たちは徒歩だ。

 しかし今観察しただけでも、稲山さんへの報告は充分だろう。


 快星さんには社会人の友達がいて、彼の車で夜遊びに繰り出していた。


 そう結論づけて、俺はもう切り上げる気満々だった。

 しかし航汰は違った。


「何をのんびりしているのですか、小野塚くん。あの車を追いかけるのでしょう」

「なんで? 普通に考えて無理っしょ。あっちは車だよ」


 すると航汰は自身の貧弱な脚を拳で叩いてみせ、

「私たちには立派な脚があるじゃないですか! さあ、走りますよ!」

 俺の返事も待たず走り出した。


 一瞬、このまま奴を置いてひとりで帰ろうかなと思ったけれど、結局は航汰の後を追った。


 一つ目の交差点で、運良くとまっている車に追いついた。

 俺はさり気なくスマホを構え、運転席の男の横顔を撮影した。後で一応、稲山さんに見せておこう。


 信号が変わり、車が走り出す。

 航汰のほうを見ると、両膝に手をついて、ゼーゼーと変な音の呼吸をしている。


「追いかけないの?」

「そ、そうですね。しかし私……これ以上は無理のようです……走れません」


 日頃の運動不足がたたったのか、航汰の体力はゴミクズだった。こいつは五階にある俺の部屋まで階段を上るだけで、毎回息を切らしている。エレベーターを使わない主義なのは俺も同じだけれど、これからもそれを貫き通すなら最低限の体力が必要だろう。


「しかし意外でしたね、異界への移動手段が自動車だったとは」


「そうだな」

 俺は頭上の看板を見上げながら答えた。園児募集と書かれた保育施設の看板には、動物や花のイラストが円状に配置されいる。円の中心にあるのは、大きなリンゴの絵だった。

 向かいの店舗のライトが点滅すると、その光を受けたリンゴは、毒々しい紫色へと変化した。


 航汰が不思議そうに首を傾げる。

「異界の存在について、小野塚くんはまた否定するのかと思いましたが……」


「いや、今はもう信じはじめてる。異界は本当に存在するのかもしれない」

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