後ろ(5)
放課後、教室でひとり、国語資料室に行くまでの時間を潰していると、クラスの女子がふらりと戻ってきた。
「わっすれもの~、わっすれもの~」
とへんてこなメロディを繰り返しながら、自分の席に近づいていく。机の中に手を突っこみ、ノートか何かを引っ張り出したところで、
「おわっ!」
初めて俺の存在に気づいたらしい、驚きの声を上げた。
「なんだよ、居るの全然気づかなかった、ビビったあ」
と人懐こいを笑みを向けてきた女子に、
「あ、ごめん」
と返す。他にクラスメイトもいない教室で、俺の声は存外大きく響いた。
「何やってんの? 帰んないの?」
女子は不思議そうな顔で俺を見ると、浅く机に腰かけた。
「まだ帰らないよ」
「へえ、時間とか大丈夫なの?」
「うん。そっちこそ時間平気なの?」
「あ、そうだった」
そこで女子は時計に目をやり、一瞬、まずいという顔になった。が、すぐに元の表情に戻り、
「まあいっか。今から行ってもどうせ間に合わないし、電車一本遅らせる」
肩にかけていた通学鞄を下ろして、前の机に置いた。それから体ごと俺のほうに向くように座り直し、
「小野塚はさあ、誰か待ってるの?」
と尋ねてくる。
「ああ、うん」
相手が俺の名前を口にしたことに、内心驚いていた。入学してから今まで、積極的にクラスメイトと絡んでいないので、俺の名前を記憶している奴など皆無だろうと思っていた。
「えーっと、そっちは……」
目の前の女子の名前は、なんだったろうか。確か前に「カッキー」と呼ばれているのを耳にしたはずだが、果たして苗字と下の名前、どちらに由来するニックネームなのか見当がつかない。
悩める空気を察知したのか、相手は自分の顔を指差して言う。
「あ、うち? 垣内。垣内恵那だよ。もお、同じクラスなんだから名前くらい覚えといてよー」
けらけらと笑う垣内を見て、俺はわずかに肩の力を抜いた。今になって、自分が緊張していたことに気づいた。
ほとんど初めてといっていいクラスメイトとの交流に、俺は戸惑っていた。
話を続けると、垣内恵那が気のいい奴だとわかってきた。無意識に相手のテンポに合わせて会話できる、器用なタイプなのだろう、垣内との雑談には気まずい沈黙が伴わず、小さな話題から面白いように話が広がっていく。
俺は久しぶりに、声を上げて笑ったりもした。
気が付くと、垣内は俺の隣の席まで移動してきていた。
「そうだ、前から訊こうと思ってたんだ」
トトン、と俺の机を指でたたく。
「小野塚って、サクラちゃんと仲いいの?」
「サクラちゃん?」
「国語の田中先生だよ」
そう言われて、先生の下の名前に桜という字が入っていることに思い至った。
そこから『サクラちゃん』という呼ばれるようになったのだろう。成人男性の愛称としてはちょっとかわいすぎる気がしたが、色白で線が細く、儚げな印象を持つ田中先生には似合っている。
「小野塚とサクラちゃん、二人でよく喋ってるよね」
垣内の指摘した通りだった。俺と先生は放課後に国語資料室で話す以外にも、校内で顔を合わせれば立ち話している。先生は俺に「変わりはないか」「学校生活に馴染めているか」「何か困ったことはないか」と事あるごとに尋ねる。
ちょっと心配性な気がしないでもないけれど、それほどまでに俺に目をかけてくれているのだろう。有り難くもあり、少し浮き足立つ気持ちもあった。
「田中先生とは元々知り合いっていうか、親戚みたいなもんだからね」
俺は答えた。
先生と出会った日のことを思い出す。
三年前、先生は俺が通うフリースクールに、ボランティアとしてやって来たのだった。
十三歳の俺は、反抗期の真っただ中にあった。やたらめったらに大人への不信感を露わにし、フリースクールの職員に対して一切心を開かない。要するに、イタい年頃のガキだった。
田中先生のことも、最初は警戒していた。様々な事情を抱えたガキが集まるところへ、すすんでボランティアに来る奴なんかの気が知れない。
学校へ行けない可哀想な子どもたちの相手をして、いい人を気取りたい。そんないけすかない野郎に決まっている。
田中先生に話しかけられたときは、適当に一言返すだけで済ませた。それすら面倒なときは、無視をした。
それでも日が経つにつれ、俺と先生は打ち解けていった。偶然、同じアプリゲームにハマっているとわかったからだ。しかし先生との会話は、ゲームに関することに限られ、それ以外の話はまったくしなかった。俺にとって田中先生は、ボランティアに来る連中の中では比較的話しやすいかなと思う程度でしかなく、完全に心を許せる相手にはならなかった。
俺の認識が変化したのは、それから半年が過ぎた頃だった。
俺は、トイレでえずいている田中先生を見てしまった。
「大丈夫? 具合悪いの?」
俺が声をかけると、先生は便器の前に座りこんだ姿勢のまま、振り返った。
先生の目は涙で潤み、顔は真っ赤になっていた。
「ああ、小野塚くんか。ごめんね、変なところを見せてしまって」
先生は気丈にもそう返したが、直後に口元を手で押さえ、再び便器のほうへ向き直った。
咳きこむ先生を横目に見てから、俺はきょろきょろと視線を動かした。トイレには、俺と先生以外に人の気配はなかった。廊下を通りかかる人もいない。
「えーっと、誰か他の先生呼んできたほうがいい?」
どうしていいかわからず、俺は尋ねた。大人が弱っている場面を見るのは、初めてだった。
「……ありがとう。でも大丈夫だよ。よくあることだから」
先生は言い、大きく肩で息をした。
「頼みがあるんだけど、いいかな?」
「何?」
「背中をさすっていてほしいんだ。少しの間でいいから」
大人から頼られたのも初めてで、俺は戸惑った。ただ同時に、誇らしい気持ちもあった。
傍らにしゃがみこんで、言われた通り背中をさすると、先生は深く目を閉じた。水は流してあったが、辺りにはまだ酸っぱいような吐しゃ物の臭いがかすかに漂っていた。意外にも、俺はそれを不快に感じなかった。田中先生も人間なんだな、と当たり前のことを思った。先生の弱りきった情けない姿に、親近感を抱きはじめていた。
しばらくすると、先生はよろよろと立ち上がった。
「ありがとう。もう大丈夫だ。おさまったから」
洗面台でうがいをする先生の背後に、俺は腕組みをして立った。
鏡越しに、先生と視線を合わせる。
ここで変に誤魔化したり、子ども騙しのような答え方をしたら、俺は金輪際この人とは口を利かない。
そう心に決めて、尋ねた。
「今みたいなこと、よくあるって本当? どうして? 何かの病気なの?」
先生は一瞬、虚を突かれたような顔をした。だがすぐに表情を引き締め、小さく顎を引いた。
俺は先生の瞳をじっと見つめた。
大丈夫、今のこの人は信用できる。俺の問いに、きちんとした説明を返してくれる。そう確信できる瞳だった。
「病気じゃないよ。心因的なものだと思う。何か心配だったり不安なことがあると、胃がむかむかしてくるんだ」
先生は口元を拭うと、体を捻って洗面台を背にし、俺と向き合った。
「じゃあ先生は今、心配なこととか不安なことがあるの?」
「さあ、どうだろう。今はないと思うのだけど」
「じゃあなんでさっき吐いてたの?」
俺の質問に、先生は暗い顔で、俯いた。
それから、震える声で言った。
「ここにボランティアに来る前、高校で教師をしていたんだ。そこで僕は、受け持っていたクラスの生徒を見捨てたんだよ」
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