後ろ(6)
先生の学級には、たびたび学校に理不尽な要求をつきつけてくる、所謂モンスターペアレントと呼ばれる親を持つ生徒が四人も在籍していた。
「テキストが厚くて重いせいで、娘が肩を壊した。学期ごとに分冊すれば、薄いテキストにできるはずだ。今からでも作り直せ」
「うちの子だけ、エアコンの風が直接当たる席に座らされている。そのせいで体調を崩し、今学期は欠席が多くなった。これは教師による生徒いじめではないのか」
「子どもが髪を切りすぎたと気にしている。なので明日のクラス集合写真の撮影は取り止めにしてほしい」
「休日の部活動では、生徒の負担を減らすために、用具の片づけなどは教師が行うべきではないか」
このような要求に、田中先生は丁寧に対応し、保護者の理解を得ようと努力した。
どんな相手とも誠心誠意向き合えば、きっとわかりあえる。そう信じて行動した先生の思いは、しかし無残にも踏みにじられる。
保護者の要求はどんどん常軌を逸したものになり、早朝や深夜に呼び出される日も少なくなかった。
対応に追われ、憔悴していく田中先生を、教え子たちは見ていられなかった。
「お前らのとこの親が、先生を追い詰めているんだろう!」
とうとう、クラスで発言力のある生徒が、問題の親を持つ四人を責め立てた。
教室の空気は最悪のものになった。
原因とされた四人の生徒は、クラスメイトからいないものとして扱われるようになり、耐えきれなくなった三人が転校、残りの一人は自主退学した後、家に引きこもるようになったという。
「自分の問題に追われるばかりに、一番救うべき相手が見えていなかったんだ。四人はクラスでの居場所を失くし、苦しんでいたというのに。あのとき僕がもっと早く気づいて行動していたら、四人は学校を去らずに済んだかもしれない。彼らはきっと、僕に見捨てられたと恨んでいるだろう」
生徒の人生に、泥をつけてしまった。
こんな自分が、果たして教職を続けていいのだろうか。
悩み抜いた先生は、やがて生徒たちの視線を恐れるようになった。
教壇に立つと体が震え、吐き気をもよおすようになった。
休職期間を挟んだ後、先生はひっそりと退職した。
それでも、完全に学びの場から離れるのは抵抗があった。教師になるのが、子どもの頃からの夢だったのだ。
悩み模索した末に、フリースクールでのボランティアに行き着いたのだという。
「ここへ来てからはだいぶ自信を取り戻して、過去を克服できたつもりだったのだけどね、やっぱり時々、子どもたちを前にすると不安がこみ上げてくるんだ。僕なんかが、人に物を教える立場にいていいのかなって」
「いいよ。みんな田中先生のこと好きって言ってるよ。だから全然、不安に思うことないよ」
実際に、フリースクールでの先生の評判は良かった。よく話を聞いてくれる。些細な変化に気づいて、誉めてくれる。困っていると、さり気なく傍に来てくれると、女子は田中先生を話題にして色めき立っている。「今度みんなで田中先生に、誕生日いつなのか訊きに行こうよ」などと盛り上がっている女子のグループに、白い目を向けつつも、男子は男子で田中先生のことを一目置いていた。他の先生と比べて田中先生は話が通じる、理解があるという、共通の認識があったのだ。
「そうかな。そうだといいな。嬉しいよ、ありがとう」
弱々しいながらも、先生ははにかんでみせた。
その顔を見て、俺はちょっと安心した。
「それで、お願いがあるのだけど」
先生は今度、気まずそうに切り出した。
「今の話は、僕と小野塚くんだけの秘密にしてくれないかな?」
「わかった、秘密ね」
俺は即座に頷いた。
はじめから、言いふらす気などなかった。
過去の失敗を恐れる気持ちは、よくわかる。
まさに俺自身が、そうだからだ。
俺は初めて、田中先生に自分の事情を打ち明けた。
フリースクールに通うことになった経緯を。
俺が不登校になったきっかけを。
■ ■ ■
「サクラちゃんと仲いいの、羨ましいな。憧れるよ」
垣内が言う。
「いや、普通に話しているだけだけどね」
などと謙遜しつつ、俺は内心浮かれていた。
垣内から向けられる羨望の眼差しが、たまらなく気持ちいい。
田中先生が広く認められているとわかり、嬉しかった。
そして、そんな先生と仲がいいと見られている自分が、とても誇らしかった。
「今度小野塚とサクラちゃんが話してるの見かけたら、うち乱入するからね。よろしく~」
垣内はキヒヒと笑った。
それだけは勘弁と思ったけど、俺は「おう」と笑顔で返した。
「あ、もう出ないとヤバいかも」
「電車?」
「うん、さすがにこれ逃したら、チェリーにキレられる。今日うちが散歩当番なんだ」
「チェリー? 散歩当番?」
「チェリーはうちのわんこの名前ね。三歳のトイプー。かわいいんだよ。ほんとは写真見せてノロけまくりたいけど、今は時間ないからまた今度ね」
垣内は慌ただしく立ち上がると、鞄を掴んだ。
その勢いで髪が乱れ、耳元が露わになった。
「あ、それ」
思わず指差した俺に、
「これ?」
と、垣内は片側の髪を耳にかけてみせた。
垣内の耳たぶからは、赤いガラス玉が二つ垂れ下がっていた。
「どう? 似合うっしょ?」
今人気だというアパレルブランドの名前を出して、「先月出たばっかりの新作なんだ」
と垣内は嬉しそうに言った。
「ピアスじゃなくて、イヤリングなんだ」
「そうそう、うちの親厳しいから、ピアスの穴開けるのは大学生になってからって言われてるんだよね。探せばイヤリングでもかわいいデザインわりとあるし、今のところは不満ないけど。ほらこれも、サクランボモチーフになってるの、わかる?」
垣内が耳を寄せてくる。
赤いガラス玉からはそれぞれ金色の茎のようものが伸び、上部でくっついてた。なるほど、サクランボが二つ並んでいるように見える。
「好きなんだよね、サクランボ。おいしいし、見た目もコロンってしててかわいいから。だからわんこの名前もチェリーにしたんだ。このイヤリングもかわいくない?」
ツンと顎をそらし、微笑んでみせる垣内に、
「そうだね。似合ってる」
と話を合わせながら、俺は記憶の糸を辿っていた。
同じイヤリングを、つい最近どこかで見た気がする。
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