異界(5)
三体の霊に訊いて回り、ようやく蛭田の車に辿り着いた。
車は、廃工場の前にとめられていた。
辺りには外灯もなく、車内の様子はわからない。しかし洩れ伝わる気配から、快星さんはまだ車内にいると確信した。
道中、あえてスマホのライトなど点けず、暗闇に目を慣らしておいた。
今、俺の視界はかなり冴えている。
身を屈め、そろそろと車へ歩み寄った。車内の声が拾える距離まで接近する。
耳を澄ますと、わずかな振動と声が聞こえた。呻き、むせび泣く、若い男の声が――。
蛭田に尾行がバレる心配など、している暇はなかった。俺はすぐさま身を起こし、車内を覗いた。
そこで何が行われているのか理解するのに、数秒かかった。
俺は自分の息が荒くなっているのに気づいた。怒りで全身が震えるのは、はじめての体験だった。
蛭田を、ぶっ殺してやりたい。
ちょうど俺の足元には、使い勝手の良さそうなコンクリート片が転がっている。そいつを拾い上げると、蛭田の脳天に叩きつける代わりに、運転席側のドアへと投げつけた。
ガツンとものすごい音がして、車内から悲鳴が上がる。
俺は大きく息を吸いこむと、悪魔の名を呼んだ。
「蛭田創治!」
声を張り上げる。
「見たからな! お前の悪事は全部知ってるぞ! やめるなら今だ! 俺はこれからもずっとお前を見ているからな!」
それから暗闇にまぎれ、来た道を戻った。
蛭田は追いかけてこなかった。乱れた服を直すのに、手間取っているのかもしれない。あるいは、なぜ現場を押さえられたのかという疑問と恐怖で、身がすくんでしまっているか。
航汰は車を、数メート先の道路わきに移動させていた。
助手席に乗りこむと、
「今すぐ出して」
とだけ言って、俺は窓の外に顔を向けた。
航汰は無言でエンジンをかけ、とりあえず道なりに走り出す。
しばらくすると、
「小野塚くんはどうして泣いているんですか?」
と訊いた。
「何があったんですか? 蛭田の車は見つかったんですか?」
「……言えない」
答える声は、情けないほど揺れていた。俺はごしごしと両手で目を擦った。
「俺は何も知らない。何も見ていない。それでいいんだ」
蛭田に報いを受けさせることもできるだろう。
だけどそれを、被害者である快星さんが望むとは限らない。
あんなことをされて、俺だったら絶対に親にも誰にも知られたくないと考えてしまう。
自分の罪がいつ白日の下に晒されるかと、蛭田は一生怯え続ければいい。
しつこく聞き出そうとしてくるかと思ったが、航汰はあっさり引き下がった。
それ以上、俺に何も尋ねなかった。
察するものがあったのか、バカなりに空気を読んだのか。
そういえば、人前で泣くのはいつぶりだろう。泣くこと自体、久しぶりだった。
航汰に泣き顔を見られたのは不覚だったが、同時に、まあ航汰だからいいかとも考える自分がいて、俺は少し混乱した。
稲山さんと会ったのは、二度目の尾行も失敗に終わったと嘘の報告をしてから、一か月が過ぎた頃だった。
俺たちは稲山さんから「もう尾行は結構です」と言われた。
「快星が、塾を辞めることになったんです。やりたいことが見つかったから、大学ではなく専門学校のほうに進みたいと。突然のことで私も驚いているんですけど、お陰でこれからは、深夜の出歩きを心配しないで済みそうです」
学校推薦を受けるために、快星さんは現在の成績をキープしておく必要があるらしい。
今後はなんと、藤間さんが快星さんの勉強を見てくれることになったという。
俺たちが尋ねると、
「見返りとして、バイトのある日は裕美ちゃんがわたしにお弁当作って来てくれることになったんだ。勉強見るといっても、快星くん要領いいし理解力ハンパないから、わたしはちょっと質問に答える程度で済んじゃってる。お陰で労せず裕美ちゃんのおいしいごはんゲットだよ」
と藤間さんは朗らかに笑みを見せた。
最初に会ったファーストフード店で、再び四人、顔を合わせていた。
稲山さんからは、改めて尾行を引き受けたことへの礼を言われた。
「稲山さんが作る料理は、絶品だとお聞きしましたよ。私も是非一度ご相伴にあずかりたいものですねえ」
と、航汰は腹が立つほど平常運転で、なぜだか異界への興味は失っているようだった。
一か月前と比べ、いくらか表情が明るくなった稲山さんの様子から、快星さんの意向を推し量った。
快星さんはあのことを、これからもずっと隠し通すつもりらしい。
俺という目撃者がいることで、快星さんの中ではまだ不安の種がくすぶっているかもしれない。
あの場で蛭田の名前だけを出し、快星さんには一切触れなかった人間が、敵であるはずないと、彼にうまく伝わっているといい。
俺は誰にも、あの夜見た光景を話さない。
快星さんの秘密はこれからも守られ続ける。
現在、快星さんは少しずつ食欲を取り戻していて、体調も回復したという。笑顔も見られるようになり、稲山さんとの会話も増えた。
本当に助けを必要としている人の、力になりたい。
そのために、快星さんは福祉系の専門学校を目指すと話しているらしい。
それを聞いて、俺はほっと息をついた。
心配などいらなかった。
快星さんは今、前を向いて歩み出そうとしていた。
今から仕事に向かうという稲山さんと、店の前でわかれた。
「冷静になって考えてみると、わたしもどうかしていたんでしょうね。異界に行っていたなんて戯言を信じて、あなた方に快星の尾行までお願いして」
去り際、稲山さんは恥ずかしそうに言った。
「結局、異界ってなんだったんでしょうね」
その正体は、現実を拒む快星さんの心理が作り出した、別の世界。
異界に存在したのは、卑劣な男によるおぞましい暴力だった。
「さあ、全然わかりませんね」
と俺はしらばっくれた。
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