楽園(1)

 たったひとりの乗客を降ろし、バスは空っぽのまま去っていた。

 案内板を見ると、次にバスが来るのは夕方。それを逃せば、駅まで徒歩で戻らねばならない。どんなに速足で歩いたとしても、ゆうに一時間はかかるだろう。


 バスの時刻を頭に叩きこんで、俺は歩き出した。道幅は微妙に狭く、車同士がすれ違えるかもあやしい。道の両脇には、寒々しい田んぼが広がっていた。刈り取られた稲の跡と、乾燥して白っぽくなった土が続く。


 歩いていると時々、田んぼの向こうに古い民家が確認できた。どの家の庭先にも、泥まみれの軽トラックやコンバインが置かれている。家と田畑の他は、スーパーもコンビニも見当たらない、過疎化のすすんだ典型的な田舎の風景の中を、俺は進み続けた。


 目線を少し上にやれば、一帯を囲む山々の存在に気づく。連なる山は、全体で一つの巨大な生き物のようだった。その生き物は、暗い目つきで俺を見下ろしている。

 お前に彼らを救えるのか。

 そう問われている気がして、俺は荘厳な生き物へ向けて顎先を上げてみせる。

 やってやるから、そこで見とけよ。


 事前にストリートビューで確認したため、おおよその場所はわかっていた。廃業してから二十年以上は経っていそうなタバコ屋の前を過ぎて、最初に視界に入ってくる家が俺の目的地、【楽園】だ。


 その家は、写真で見るよりはるかにみすぼらしかった。全体的に傾き、屋根は厚ぼったい苔に覆われている。外壁はあちこちひび割れて、黒ずんでいた。塀の一部は崩れ、庭には錆びついた自転車や色褪せたプランター、解体したパイプベッドらしきものが、枯れ葉とともに折り重なっていた。


 取っ手を掴もうとしたタイミングで、内側から玄関扉が開いた。


「おかえり」

 田中先生が顔を見せた。


 皮肉もいいところだ。「ただいま」と俺は応戦する。


「寒かっただろう。さあ、中に入って」

「全員、ここにいるの?」

「全員? まあ、そうだね」

 先生は含みのある笑みを浮かべると、先に立って廊下を歩いた。

 

 家の中も、外と同様に荒廃していた。床はどこもたわんでいて、一部は穴があいていた。

 俺が何も訊かないうちから、

「忙しくてマメには来られなかったけど、長期休みのときなんかは必ずここへ来て、空気の入れ替えや掃除を行っていたんだ。だから見た目ほど、埃っぽくはないだろう?」

 と先生は説明した。

「最低限の手入れしかしてこなかったから、荒れているは認めるよ。だけど大がかりなリフォームとなると、僕ひとりで決めるわけにもいかない。仲良く三人で相談して決めないと。だって、ここは僕たち家族の家なんだからね」


 先生は壁紙の剥がれかけたところを手で押さえながら尋ねた。

「新しい壁紙はどんな色がいいかな? なるべく早くリフォームしたいな。ねえ、いつから一緒に住める? れい君」

 

 俺は血が出るまで、強く唇を噛んだ。

 相手のペースに呑まれてはいけない。冷静でいようと思った。

「僕は――、いや、違うな。俺は、れい君じゃない」


「ううん、君はれい君だよ」

 そう言って先生は、うっとりとした目で俺を見た。


「俺の名前は小野塚健斗だ。れい君じゃない」

 俺はゆっくりと、区切るようにして返した。


 先生が意外そうに眉を上げる。

「そうか、君はすべてを思い出したから、ここへ来たわけじゃないのか」


 俺は無言で先生の背後に目をやった。

 そのまま答えないでいると、先生はふっと短く息を吐いて、

「あれは読まなかったの?」

 と訊いた。


 すぐさま思い至った。

 亡くなった文芸部員――関口さんのパソコンに保存されていた、小説とその資料のことだろう。

 

 あの日、盗作部員を退散させた後で、俺は関口さんに尋ねた。

 資料は誰が集めたの? 

 関口さんは部室内に置かれたホワイトボードを指し示した。

 それぞれ部員の名前が書かれたマグネットが、並んで貼られていた。その中には、顧問のぶんのマグネットもあった。

『文芸部顧問・田中桜汰』

 関口さんのために資料を提供したのは、田中先生だった。


「小説は読んでいない。でも資料は見たよ」

「そうか、がっかりだな。元々あの小説は、いつかれい君に読ませようと思って、僕が彼に書かせたものだったんだ。小説のコンテストに再挑戦してみたいけど、何もアイディアが浮かばないと悩む彼に、集めた資料を見せてね。過去にこんな事件が続いたことがあったのだけど、これらをモチーフにして書いてみたらどうかって。彼はすぐ食いついてくれたよ。僕の目的など知らず、純粋にコンテストに応募するために、寝る間も惜しんで書き続けた」

「その関口さんを、あんたは殺したの? 事故に見せかけて」


 俺の問いかけに、先生はぴくりと眉を動かした。それから心底おかしそうに、笑い声を上げた。

「そんなことするわけないだろう。正真正銘、彼は不慮の事故で命を落としたんだ。執筆を急ぐあまり寝不足になって、注意力が落ちてしまっていたのかな。見込みがあったのに、実に残念だよ。まあ、亡くなる前に小説を完成させてくれてはいたんで、僕のほうは困らなかったけどね。残る問題は、どうやって君に小説を読むよう仕向けるかだ。その方法は、れい君ももうわかってるよね?」


 答える代わりに、俺は舌打ちをして、先生を睨み付けた。

 だが先生は動じない。薄っすらと口元に笑みを浮かべてさえいる。


 俺はすべて知った上で、今日ここへ来た。

 追い詰められているのは、先生のほうだ。

 なのに、この余裕ぶりはなんだろう。

 先生には、まだ切り札があるんだ。


「続きは二階で話そうか。見せたいものがあるんだ」

 先生は体を捻り、背後にある階段を指し示した。


「二階?」

 瞬間、足がすくんで動けなくなった。

 あそこに行ってはいけない。

 頭の中で、警笛が鳴っていた。

 行けば、恐ろしいものを見るぞ。


「……行かない。話ならここで聞く」

 先生の背中に向かって、絞り出すように言った。

 

 先生は振り返ってちらりと俺を見ると、教師然とした仕草で肩をすくめた。それから奥の部屋へと声を放った。

「こう君、出ておいで」


 部屋の中から、のそのそと航汰が姿を見せた。


「れい君がわがままを言っているんだ。こう君、悪いけどれい君を連れて来てくれる?」

 言いながら、先生はさっさと階段を上っていく。


「はい、わかりました」


 航汰が俺の腕を掴もうとする前に、俺は身をよじり、後ずさった。航汰が眉根を寄せる。

「何してるんですか、行きますよ」

「嫌だ、行かない」

「わがままを言ってはいけません」

「くそっ、触るな! 気持ち悪い!」


「ふふふ」

 階段の途中から身を乗り出して、先生は俺と航汰のやりとりを、まるで微笑ましいもののように眺めている。

「こら、兄弟喧嘩はだめだよ」

 そして再び航汰をこう君と呼び、

「れい君はまだ小さいから、よくわかっていなんだよ。だから優しくしてあげてね」

 とたしなめた。


 航汰は「はい」と返事し、俺の後ろに回りこんで、ぐいぐいと背中を押しはじめた。

「やめろよ馬鹿、押すな!」


「こらこら、れい君、言葉遣いが悪いよ」

「だから俺はれい君じゃない」

「こう君も、れい君に怪我させないように気をつけて」

「はい」


 俺は素早く振り返って、真正面から航汰に向き合った。

 航汰は一瞬はっとした顔をしたが、すぐに目線を下げ、俺の視線を避けた。


「何考えてんだよ、お前。自分がおかしいのわかってる?」


 お前、今日まで何やってたの?

 俺に言うことはないの?

 俺は今、お前の言葉が聞きたいよ。


 そう心の中で問いかける。

 航汰は何も言わない。


「もしかしてお前、喉が渇いて喋れないとか?」

 俺はコートのポケットから水のペットボトルを出して、航汰に渡した。

「あれだけ嘘をつき続けてれば、そりゃ喉も乾くよな。絶えず水分補給していないと辛いよな。どうしてだかわかるか? 後ろめたいからだよ。俺の前で嘘をつき続ける罪悪感で、お前の体はおかしくなってるんだ」


「罪悪感……」

 航汰が噛みしめるように言った。

「それでこれを、わざわざ買って来てくれたんですか?」


「ああ、それともお茶のほうが良かった?」


「ねえ」

 先生の不機嫌な声が降ってくる。

「二人ともいい加減にしないと怒るよ。早く来て」


 航汰はびくりと肩を震わせ、その拍子にペットボトルを手から落とした。

「ごめんなさい」と先生に謝り、媚びるような笑みを張り付かせる。

 それから俺に向かって、

「行こう、れい君」

 と言った。


「そうか」

 俺は挑むように航汰を見た。

「わかったよ、お前も俺をれい君と呼ぶんだな」

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