閉所(3)

 見ない間に、奴の容貌は大きく変化していた。だけど、ほの暗い、底意地が悪そうな目つきは昔のままだった。


 校門を出た生徒たちは、ほとんどが二、三人でまとまり、楽しそうに会話しながら下校していく。その中で、奴はひとり俯いて歩いてた。

 たくさんのクラスメイトを従え、いばりちらしていたあの頃の面影は、一切感じられない姿だった。


 痩せて俊敏だった体は今、醜い肉で覆われている。脂ぎった髪とニキビだらけの顔を気にしているのか、奴は常に人目を避けるようにして歩いていた。猫背と自信なさげな足取りからは、卑屈さがにじみ出ている。


 明らかに運動部とわかる、活気に満ちたグループが校門から飛び出し、奴の元へと駆けていく。追い越し際に、持っていたスポーツバッグで奴の後頭部を叩いた。

 奴はぴたりと足を止め、一瞬、何が起きたのかわからないといった顔で、周囲を見回した。それから慌てて地面に目を落とし、その場で何事かつぶやいてから、再びのそのそと歩き出した。周りにいる生徒たちは、奴を心配したり声をかけたりするでもなく、ただクスクスと笑っている。いちいち大騒ぎすることもない、彼らにとって見慣れた日常の一幕なのだろう。


 中学生になった奴は、周囲から馬鹿にされ、虐げられて過ごしていた。

 暴力を振るい、笑い飛ばしてもいい存在へと成り下がっていた。


「どう思った? 今の光景を見て」

 運転席から、田中先生がそっと囁くように問いかけた。


 言葉を選ぶのも忘れ、俺は本音をこぼした。

「いい気味だと思いました」

 

 口に出してから、先生が求める反応とは違っただろうと気づき、焦った。自分をいじめた相手にも、ここは同情する姿勢を見せるのが、模範的な生徒ではないのか。

 奴の苦境を喜んでしまった俺を、先生は軽蔑するだろう。


 だが意外なことに、先生は俺の言葉に同意した。

「その通りだよ。これでわかっただろう。健斗をいじめた人間は、取るに足らない存在だった。あんな人間に、いつまでも囚われているなんて馬鹿らしいと思わないかい?」


 確かに現在の奴の姿は不様で、最底辺の人間といった有様だった。

 俺は声を上げて笑った。

 今なら、車から下りて行って奴の元へ走り、汚い尻を蹴って靴跡を残すくらい、簡単にできそうだ。

 先生の手前、実際にそんなことはしないけれど、想像しただけで痛快な気分だった。


「僕は来年度から、X県の高校で教えることになったよ」

 唐突に先生は言った。

「だから、もうすぐスクールでのボランティアも終わる」


「そんな、じゃあもう先生には会えないんですか?」

「会えるよ。健斗がその高校に入学してくればいい。学力なら十分足りているはずだし、難しいことじゃないよ」


 教師と生徒として、同じ学校に通う。運が良ければ、田中先生がクラス担任、あるいは教科担当になるかもしれない。

 考えただけで、胸が躍った。

 だけど――、


「学校に通うなんて。僕には無理ですよ」

 俺は肩を落とした。


 閉所恐怖症を抱えたままでは、学校生活に復帰できない。

 学校という場所は、思いのほか閉所が多い。実際足を踏み入れなくとも、狭く閉じられた場所を目にした途端、フラッシュバックを起こしかねなかった。


「心配しなくていい。僕が健斗の力になるよ。僕が健斗の学校生活をサポートする。だから安心して入学しておいで。待っているから」

 

 そこで先生は一度言葉を切り、俺の手の上に自分の手を重ねた。


「この一年、僕は健斗からたくさんの勇気をもらっていたんだよ。辛い過去を乗り越えようと頑張る健斗の姿を見て、自分も一歩踏み出してみようと、復職を決意したんだ。今の僕があるのは、健斗のおかげだ。だから今度は僕が健斗を支える番なんだよ。どうかこれから遠慮せず、僕を頼ってほしい」


 返事をしないでいると、手の甲にのせられた先生の指に、力がこもるのを感じた。


「今ここで誓うよ。僕は決して過去に負けない。だから健斗も過去に負けてはだめだ。いじめっ子たちに奪われた人生を、自分の力で取り戻すんだよ」


 熱をはらんだ先生の声に、はっとして顔を向ける。視線が合うと、先生は強く頷いた。


「僕も」

 突き動かされるように、声を発した。

「僕も誓います。過去に負けない。待っててください、僕は必ず、先生のいる学校に入学してみせます」



 その日から本格的に勉強に打ちこみ、二年後、俺は今の高校に合格した。

 自宅から通うには遠すぎると、受験に反対だった両親を説得してくれたのは、田中先生だった。俺が抱える事情を汲んで、入学後の生活もサポートするという先生に、「こちらこそ、健斗をよろしくお願いします」と両親は深々と頭を下げた。今では、「こんないい先生に巡り合えて健斗は運がいい」と、田中先生に深い信頼を寄せている。


 先生との時間を失ったら、俺は何をよすがに学校生活を送ればいいのだろう。



「負けたくないんです」

 保健室のベッドの上で俺は姿勢をただし、改めて先生に宣言した。


 たった一度痛めつけられたくらいで、先生と過ごす放課後を手放すわけにいかない。

 誰であろうと、俺と先生の絆は壊せない。

 俺にとって先生は、この世でただひとり、互いの心の傷を見せ合えた存在だ。


「だってこのままだと悔しくないですか? 頭のおかしい乱暴者なんかに簡単に壊されてしまうほど、僕と先生は脆い関係なんですか? 違いますよね? 違うと言ってください!」

 そう訴えかけると、先生は渋々折れてくれた。


「わかった。これからも資料室にはおいで。ただし、充分周りに気をつけるんだよ。時間に余裕があれば、僕のほうから教室まで健斗を迎えに行こう。それでいいね?」

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