うるさい(5)

「こいつ、あんたの知り合いなの?」

 俺は画面の中の女を指差した。


 航汰が首を振る。

「知り合いではありません。でも、会いました。ここに来る前に」


「どういうこと?」

 俺は眉根を寄せた。

 女の霊は、俺の部屋以外にも出没しているのだろうか。

 だけど航汰は、直接霊の姿を見られないはずでは?


「こちらの女性は、この部屋の真下に住んでいるようです」

 航汰は言った。

「私、ここに来る前に間違えてすぐ下の階の部屋に行ってしまったのですよ」


 航汰の話はこうだった。

 五階にある俺の部屋を訪ねるため、階段を使った。日頃の運動不足がたたってか、息が上がり、どうにも苦しくなってきた。そのため、注意力が及ばなかったのだろう。航汰は最初に、俺の部屋のちょうど真下にあたる、四階の部屋のインターホンを押したのだという。


「応答がないのでどうしようか困っていましたら、うちに何か御用ですか、と背後から声をかけられまして。振り返ると、この動画に映る女性が立っていました。それでようやく私は、階を間違えていたと気づいたのです」

 航汰はそこで、首を傾げた。

「それで、どういうことでしょうか? この部屋に現れる霊が、下の階で生活しているというのは」


「……生霊だったんだ」

 思わず舌打ちが出た。

 なぜもっと早く、この可能性に気づかなかったのだろう。


「ああ、そういうことですか」

 航汰が目を光らせる。

「しかし生霊とは通常、恨みや憎しみを抱いた相手に憑くものですが」 

 面白くなってきたぞとばかりに、航汰は身を乗り出すと、俺の胸に人差し指を突き付けた。

「さては小野塚くん、下の階の女性に恨まれるようなことをしましたね? それで彼女は毎晩、生霊を飛ばしてくるのでしょう」

 

 俺は力いっぱい航汰を押し返した。

「知らねえよ。ていうか俺、ここに住んでから一度も他の入居者に会ってねえし」


「例えば椅子をちょっと引いただけでも、下の階には意外と音が響くものだと聞きますよ」

「その程度の騒音で生霊飛ばすまで恨んでるなら、その女がおかしいんだろ」


「そうですねえ。しかしおかしな人間というものは案外身近なところに潜んでいるものですよ」

 自分のことを棚上げして、航汰はぬけぬけと言う。

「ところで今、他の入居者に一度も会っていないと言いましたが、本当ですか?」


「ああ。荷物入れたときも、誰の姿も見かけなかったな。平日の午後だったからかも」

「それから今日まで、他の入居時とすれ違ったり挨拶もしていない?」

「だって会わねえもん。微妙に生活時間がずれてるんだよな。たぶんこのマンション、学生のひとり暮らしは俺だけなんじゃねえかな」


「わかりました」

 航汰が頷く。

「一つ、案が浮かんだのですが」



 ■ ■ ■



 国語資料室を訪れるのは、五日ぶりだった。

 田中先生が【楽園】のおさめられた写真立ての埃を拭う間、俺は回転式のスツールに座って、床を滑っていた。


「機嫌がいいみたいだね」

 先生が苦笑する。

「でも危ないから、それは戻して」


 俺はスツールを元あった棚の脇に戻し、代わりにパイプ椅子を引っ張り出した。

 国語資料室と札がかけられているものの、実態は備品置き場と化している部屋の中、俺は先生と向き合う。


 先生が写真立てをデスクの上に置き直すのを、俺は無言で眺めた。

 先生が両親と二人の弟と暮らしていたという【楽園】。写真の家は、今もまだ残っているのだろうか。疑問に思うだけで、実際に尋ねてみたことはない。それは、先生の心のやわらかいところを抉り、思い出を汚すかもしれない質問だからだ。

 写真の家が、今現在の先生を癒すものであるならいい。


 先生は度々、自分の生家を「僕にとっての楽園だよ」と称した。

 子どもの頃に、先生は家族を失っている。やさしい両親とかわいい弟たちは、旅行中の事故で命を落とした。

 ふとした瞬間、物憂げに視線を落とす先生の癖は、その事故の後に身に付いたものなのかもしれない。


「健斗、顔色も良くなったみたいだね」

 先生は俺の目を覗きこんで言った。


「はい、お陰さまでよく眠れているので」

 俺ははきはきと答える。

 今回の件で、先生には大きな心配をかけてしまった。なので今はしっかりと元気なところを見せておかなければ。

 先生の身の上を知ったときから、俺は絶対に先生を悲しませないと誓ったのだ。


「ということは、航汰は無事、君の力になれたのかな」

「そうですね。航汰さんが相手に話をつけてくれたおかげで、今は部屋でうるさくされずに済んでいます」

「そうか。良かった」

 先生はほっとした顔で頷いた。


「その後、航汰とは仲良くしているかい?」

「昨日、遊びに来ましたよ」

「うん、いいね」

 僕の言葉どおりだったろう、君達はきっと気が合うと思ったんだ。そう言う田中先生は、なぜだかとてもうれしそうだった。


 水を差すようなので、俺は真実を口にしなかった。

 航汰とは別に気が合わないし、いつもイライラさせられてばかりいる。

 それに奴の場合、遊びに来るというより、押しかけて来るという表現が正しい。


 うるさい女の生霊について、ともに頭を悩ませた日から、航汰は頻繁に俺の部屋に来ては、勝手気ままに過ごしていく。

 幸い、生霊ほどうるさくはないので放っておいているが、気に入りのホラー映画をしつこくすすめてくるのだけは許せない。

 幽霊なんて、現実だけで十分なのだ。フィクションにまで登場しないでほしい。


「そうだ、僕そろそろ帰らないとなんです」

 俺は航汰からメッセージが届いていたことを思い出した。

〔注文していたポップコーンメーカーが届いたので、使ってみましょう〕

 既読スルーしてるけど、きっと奴のことだから今日も押しかけて来るだろう。


「航汰と約束でもしてるのかい?」


「まあ、そんなところです。あの人、本当に今まで友達いなかったみたいですね」

 俺は鼻の頭にしわを寄せた。

「僕が初めてできた友達だからでしょうか。変に懐かれちゃって。遊ぼう遊ぼうって、しつこいです」

 足元に置いておいた通学バッグを取り上げ、肩にかける。

 先生に別れの挨拶をし、立ち上がった。

 

 扉に向かった俺を、先生が呼び止める。

「次はいつここへ来る?」


「明日もまた来ますよ。僕にとっての楽園は、先生とゆっくり話ができるこの国語資料室だけですから」

 俺はそう言って、微笑んでみせた。

「さようなら」

 それから先生の背後に目をやり、小さく頭を下げる。あんたたちも、さようなら。心の中で呼びかけた。


 田中先生には、四体の霊が憑いている。

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